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高野房太郎と労働組合の誕生

10 社会民主党の結成


 片山潜は行き詰まった運動の打開策を政治運動に求め、1901年5月、社会民主党を創立しました。(社会民主党宣言)この日本最初の社会主義政党の創立に参加したのは、片山のほか、幸徳秋水、安部磯雄ら6人でした。しかし、この党はすぐに結社禁止命令をうけ、解散させられてしまいます。さらに、その宣言を掲載した『労働世界』などの各新聞もまた発売頒布を禁止されてしまったのです。大逆事件につながる「冬の時代」が近づいていたのです。

社会民主党宣言書(『労働世界』号外)<BR>
社会民主党は、安部磯雄が起草した「社会民主党宣言書」を『労働世界』号外として発行した。綱領中の軍備全廃、貴族院廃止、人民の直接投票制度の3項目が問題とされ、解散を命ぜられただけでなく、この宣言を掲載した『労働世界』、『二六新報』などは発禁処分を受けた
「社会民主党宣言書」
社会民主党発起人<BR>
左から安部磯雄、河上清、幸徳秋水、木下尚江、片山潜、西川光二郎
社会民主党発起人
 社会民主党は、安部磯雄が起草した「社会民主党宣言書」を『労働世界』号外として発行した。綱領中の軍備全廃、貴族院廃止、人民の直接投票制度の3項目が問題とされ、解散を命ぜられただけでなく、この宣言を掲載した『労働世界』、『二六新報』などは発禁処分を受けた。
写真左から安部磯雄、河上清、幸徳秋水、木下尚江、片山潜、西川光二郎

 一方、高野房太郎は運動の前途に失望し、1900(明治33)年秋、親友の城常太郎とともに中国に渡り、貿易業などに従事しました。しかし、これにも成功せず、間もなく病を得て1904(明治37)年3月12日、青島で客死しました。35歳と2ヵ月の生涯でした。
 つぎは、晩年の高野房太郎と家族の写真で、青島で撮影されたものです。


晩年の高野房太郎とその家族
1902(明治35)年
左から夫人キク、長女みよ、房太郎。
1902(明治35)年
夫人キク、長女みよ、房太郎
晩年の高野房太郎とその家族
1903(明治36)年2月25日
左から夫人キク、長女みよ(3年10ヵ月)、房太郎、次女ふみ(39日)、母ます。この1年余り後に房太郎は逝去した。
1903(明治36)年2月25日
左から夫人キク、長女みよ、
房太郎、次女ふみ、母ます

 房太郎の友人で、『日本の下層社会』の著者として有名な横山源之助は、「高野房太郎君を憶う」と題する一文を発表し、その死を悼みました。横山はまた、『毎日新聞』に「労働運動率先者の死」と題する追悼文を2日続けて寄せましたが、そのなかで要旨つぎのような言葉を記しています。

 「弟の高野岩三郎教授は、暗い面もちで『兄は失敗の人でした』と言われました。確かに、君は、君個人の事業でも、社会的な事業でも成功せぬまま、この世を去りました。しかし、君の数年間の活動は日本の労働運動史の第1ページを飾ることになったのです。それは、ひとつの成功だったと言えるのではないでしょうか」。

 日本の労働組合が復活したのは、第一次世界大戦後のことであり、現在につながる労働組合運動が本格的に展開したのは第2次大戦後のことです。

高野房太郎君を憶う   「高野房太郎君を憶う」  天涯茫々生

この追悼文は、横山源之助が編集長をつとめていた『東洋銅鉄雑誌』の創刊号(1904年6月発行)に、天涯茫々生の名で執筆したものです。その冒頭はつぎのように記しています。
「労働運動の卒先者にして、兼て鉄工組合を創立し、消費組合を創設したる労働社会の明星、高野房太郎君が、清国山東省に逝けるは、既に3ヶ月の前に経過す。数日前、遺骨東京に到着し、明二十六日午前九時を以て、駒込吉祥寺に其の埋骨式行はると聞き、感慨の湧起するを禁ずる能はず。」


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