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高野房太郎と労働組合の誕生

2 生い立ち


 高野房太郎は、明治元年11月24日、西暦でいえば1869年1月6日に、長崎は銀屋町で、父高野仙吉、母ますの長男として生まれました。〈ぎんやまち〉は、中島川にかかる有名な石橋〈眼鏡橋〉にほど近い町です。右下は後年に撮影されたものですが、房太郎・岩三郎兄弟の生家の写真です。

眼鏡橋
眼鏡橋

 長崎の中心を流れる中島川には多数の石橋がかかっています。なかでも有名なのが眼鏡橋です。そのひとつ川下の袋橋の左岸から寺町通りに通ずる街路の両側が銀屋町でした。いまは地名変更で銀屋町の名は残っていません。

 高野房太郎・岩三郎兄弟の生家→
長崎市銀屋町18番地
1943(昭和18)年撮影

高野房太郎・岩三郎兄弟の生家 1943年撮影
生家の写真

 高野家は代々、武士の裃などをつくる和服の「仕立て屋の親方」でした。しかし明治維新後、家業がふるわなかったため、1877(明治10)年に、一家をあげて東京に移住し、浅草橋の畔で回漕業と旅館を始めました。しかし、上京後間もなく父が死に、さらに神田松ヶ枝町大火で家は丸焼けにになるという不幸に見舞われたのでした。

 房太郎は、高等小学校を卒業すると、横浜で三菱汽船会社の代理店として回漕業を営む伯父・高野弥三郎の家で働きながら、若い仲間といっしょに勉強会をつくって英語を学び、高野家の再興をめざし、17歳で渡米しました。下は、彼が取得した旅券ですが、今のパスポートとはずいぶん違っています。

最初渡米した旅券
最初渡米した旅券 1886.12 (房太郎17歳)
高野房太郎 矢崎千代二画
 《高野房太郎肖像》

《高野房太郎肖像》矢崎千代二画

 1886(明治19)年12月2日、房太郎は「商業研究のため」、パシフィック・メール会社のニューヨーク号で横浜を出航し、桑港(サンフランシスコ)に向かいました。その際取得した旅券の番号はまだ3000番台です。これ以後、海外渡航者、とくに渡米者が急増し、4年後の1890年秋に沢田半之助が取得した旅券の番号は3万番台です。

 1888(明治21)年5月、サンフランシスコで撮影した写真をもとに、後年、弟の岩三郎が描かせた肖像画。


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