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『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版



和田春樹著

『歴史としての野坂参三』


評者:梅田 俊英



 ソ連が崩壊し,冷戦構造が崩れる中で,旧ソ連の資料の一部が公表されてマスコミでおおいに話題になったことは記憶に新しい。なかでも,スターリン体制下でディミトロフに送った山本懸蔵を告発した野坂参三の書簡の発見はセンセーショナルな報道であった。その後「野坂本」の発行が相次ぎ,現在に至っている。そのような中で,歴史家として冷静な史料分析によって野坂参三のナゾを追った著書が本書である。
 野坂問題とは,1930年「眼病の治療」による保釈のなぞ,山本懸蔵の野坂による「告発」とそれによる山本処刑における野坂の責任,アメリカとの関係,1930年代ソ連のエイジェントだったかどうか,戦後帰国後のソ連との関係,伊藤律問題など多岐にわたる。本書では逐一これらが検討され,回答が与えられている。他の野坂参三関係の著書が「スパイ野坂」のような展開であったり,断片的な叙述が多い中,本書は三・一五事件の保釈以後,戦後の新生日本共産党の最高指導者になるまでの野坂を追った系統的な叙述となっている。その意味で本書は野坂の伝記という面も持っている。
 和田氏が本書を執筆されたのは,NHKスタッフから受けた野坂訪ソ史料の検討依頼がきっかけとなったようである。その間に『週刊文春』や日本共産党から野坂問題について調査や声明があいついだ。本書は,それらに対する歴史家としての回答でもある。つづいて目次を紹介しよう。
 I 野坂問題の論じられ方
 U 1930年代の闇の中で
 V 抗日の中国で
 W 帰国前のソ連行き
 V 戦後民主化と野坂路線
 Y 朝鮮戦争の中で
 附属資料 野坂参三のディミトロフあて報告,野坂がマヌイリスキーに送った野坂・山本逮捕の新聞記事,山本懸蔵事件再調査報告書,野坂・伊藤とタス通信記者との対談記録,野坂参三調書,マーミン調書
 以下,野坂問題について和田氏がどのような見解をもたれているかを見ていこう。まず第一に30年の保釈問題については「偽装転向ではなかったかという見方があるが,資料的には裏付けがないようである」(30頁)とされて,註で石堂清倫氏の次のような和田氏宛の書簡を紹介されている。
 「野坂が君主制廃止のスローガンを取り下げると検事局に表明したのが,共産主義の放棄と認定され,保釈された,これを知った獄中中央委員会がこの野坂の言動が党の瓦解につらなるのを恐れて,野坂をソ連に送り込むことを指示した。」
 ところで,大原社会問題研究所に三・一五事件の際の「野坂参三予審尋問調書」が保存されている。その第4回(昭和4年4月4日調べ)で「被告ハ報告ノ要点二掲ケラレタル政策ニツイテ什ウ考エテ居ツタカ」という問いに,野坂は次のように答えている。
 2個ノ原則綱領及13個ノ闘争目標ニ付イテハ特ニ異論ハアリマセヌガ,君主制ノ撤廃及之ニ類スル事項ヲスローガントシテ掲ケ之ヲ大衆ノ目前ニ現ハス事ニ付イテハ異論ヲ抱イテ居リマス 斯カルスローガンヲ掲ケルニハー定ノ段階ヲ経テ居ナケレバナラヌノト訓練ヲ経テ居ラナケレバナラヌノニ一定ノ条件トー定ノ準備カ出来テ居ナカッタノデ今日直チニ大衆ノ前ニ之ヲ掲ケル事ハ誤リダト思ッテ居リマス(1004頁)
 以上のように,少なくとも1929年には野坂は天皇制の撤廃を共産党が掲げるのは誤りだと考えていた。これは野坂の「偽装転向」の「資料的裏付け」とすることができないであろうか。
 ところで,最近三.一五事件で逮捕された際の予審尋問調書の全文が発見されたという (『東京新聞』1996年9月23日付)。この中で,野坂は「君主制の撤廃をスローガンとして掲げることには異論を持っている」「一定の条件と一定の準備ができていなかったので,今日ただちに大衆の前にこれを掲げることは誤りだと思っている」と供述しているという。若干の言葉遣いは違うものの,内容的には先に引用した大原社研所蔵の調書と同一だと思われる。だとすれば,東京新聞記事の「予審尋問調書」は新発見でも何でもない。ずっと以前から大原社研では同「調書」を一般公開してきている。「1930年代から関係者の間でうわさとしては知られていた」(『東京新聞』記事の加藤哲郎氏のコメント)どころか,何人もの研究者などによって閲覧され,知られていることなのである。
 30年代初頭には「君主制打倒」さえおろせば容認する転向政策が登場する(伊藤晃『転向と天皇制』勁草書房)ので,「君主制の撤廃」を掲げないとした野坂がその故に釈放されたということは十分に考えられるであろう。野坂の「天皇退位論」は「政治的制度としての天皇制は民主化の結果廃止するが,天皇の存在はのこし,現天皇の退位を求める」(141頁)というものであったが,これは「延安時代」に定式化されたと筆者は述べている。さきの「野坂詞書」から考えると,この考えは「延安時代」に形成されたというより,それ以前からの彼の信念であったと言えるかもしれない。戦前において「君主制打倒」のスローガンが地下共産党のアイデンティティを形成するものだったことを考えると,これは,「転向」と言えるだろう。だから戦前においては野坂は日本国内ではリーダーシップを取りえないのである。しかし,野坂から言えば,当時の地下共産党の独善的な路線に見切りをつけて「民主主義路線」へ向かう第一歩だったのかもしれない。
 次に,野坂の山本についてのディミトロフあての書簡が「密告状」だったかどうかについて,筆者は「1930年代の置史的状況のなかに置いて見れば,そのような評価はすべて当をえない」(78頁)として,全面的に「密告状」説を否定されている。和田氏は野坂の「責任」について2点のみ指摘されるにとどまる。それは「スターリン批判ののちに,山本問題の真実を明らかにすることをせず,むしろ積極的に隠蔽するために工作し,虚偽の記述を重ねたことにある」(79頁)ということと,もうひとつは「伊藤律問題」で,「野坂にとっては,山本懸蔵問題ではなく,伊藤律問題の方がはるかに深刻な意味をもっていたといえよう。…その責任は明白である」(266頁)という。著者は「関マツ」問題での責任,ゾルゲ事件との関わりについて否定されている。さらに,野坂がソ連の内務人民委員部のエイジェントだったかどうかについても 「全体の印象からすれば,野坂が1930年代に内務人民委員部のエイジェントであったという説は信じがたい」(82頁)とされている。帰国後の野坂がソ連のエイジェント,「ソ連の内通者」だったかについても「ディミトロフの意図は,野坂をソ連のエイジェントやスパイに仕立てようというのではなく,基本的には米占領軍から日ソ両党の連絡を秘密にする,さしあたりは徳田らからも秘密にして野坂と連絡するところにあったと考えられる」とされ,「ソ連共産党が日本共産党を直接指導しているような印象を日本を占領したアメリカに与えるべきではな」(139頁)く,「GHQを欺くのは占領期の日本共産党の基本的な路線であった」(176頁)として「日本共産党がソ連から自立しているという雰囲気を保ったことは,日本社会でこの党に対する支持を拡大する効果を持ったのである。それは戦後世界の世界共産主義運動の中で他に例を見ないあり方であった」(207頁)とむしろ高く評価されている。
 つづいて,「アメリカのエイジェント」説について筆者の見解を見よう。エマーソンと野坂の延安での会見で,アメリカ側は野坂を「日本民主化のためのアメリカの協力者として活用するという路線を構築」したし,野坂側もサンフランシスコのOWI(対敵防諜部隊)に協力していた。しかし,筆者は「野坂たちとすればこのような協力は当然のことであった」(111頁)とされるのである。確かに,単純に「アメリカのスパイ」とは言えないものの,反ファシズム戦争としての第2次世界大戦から,急速に冷戦構造に入り込むこの時期にあって,この評価は微妙な問題を含む。
 いずれにしても,野坂の柔軟で穏健な路線は 「諜報」とか「転向」というところから出たものではなく,中国共産党の新民主主義論とイタリア共産党から学んだ民主主義革命路線であり,野坂たちの延安での活動は「コミンテルン7回大会の反ファッショ人民戦線論に加えて,毛沢東と中国共産党の思想的な営みを吸収した」(99頁)ものであったと高く評価されるのである。こうして,「とにもかくにも延安の地で日本人と中国人と朝鮮人が大日本帝国の戦争と侵略に反対して,手を握りあい,ともに闘ったという事実は,この暗黒の時代に大きな光を発するものであった」(121頁)と,野坂たちの中国での活動の歴史的意義を再確認されている。
 本書は,「ソ連のスパイ・アメリカのスパイ」という最近の論調に一つ一つ事実でもって検討して反論し,かつて描かれていた野坂像を積極的に擁護した著書と言えるであろう。



和田春樹著『歴史としての野坂参三』平凡社,1996年3月,308頁,定価2,400円

うめだ・としひで 法政大学大原社会問題研究所兼任研究員

『大原社会問題研究所雑誌』第458号(1997年1月)



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