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『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版



樋口 喜徳著

『〈進め社〉の時代−−大正デモクラシーの明暗』


評者:梅田 俊英



 本書は,初期の「進め社」に記者として出入りしていた筆者による,福田狂二と『進め』発行事情について述べた自伝的著書である。評者は,1991年に「大正デモクラシー期における島根の地域ジャーナリズムと社会運動」(『大原社会問題研究所雑誌』387号)を執筆している。そのなかでも,本書の筆者・樋口氏(以下敬称略)が『進め』の「雲南本部」を作っていることに言及した。その縁で,今回本書を書評の対象としたい。
 雑誌『進め』は,1923年2月号を創刊号として発刊された。編集人が北原竜雄,発行人が福田狂二であった。現在は,不二出版から復刻板が出されているので,その全貌に接することは容易となった(解題・田中真人)。同誌は,創立期は共産党系,中期は日労党支持色を強め,後期には国家社会主義ないし日本主義と大きく変貌していった。これは福田の思想の変化を示すものであるが,同時に戦前ジャーナリズムの動向の一つの典型をなすともいえる。 したがって,同誌の歴史を見ることは,戦前ジャーナリズムの歴史の一面をとらえることにもなる。その意味で,直接同誌に関係された人の著書である本書には高い史料的価値があると言えよう。まず最初に,本書の目次を紹介したい。
はじめに─福田狂二と「進め社」の時代
社会主義宣伝情報誌『進め』の創刊社会主義伝導とロシア行き
  社会運動討閥同盟
  大逆事件の黒い影
  結びのひとこと
 本書の叙述の特徴の一つは,一般的通史に自己の体験を重ね合わせて描くというところにある。単に自伝というのではなく,「大正期の一時期には唯一最大のプロレタリア報道機関であり,活動力を発揮した社会主義団体であった 『進め社』の運動が,昭和時代に入り日本思想界がマルクス主義一色となった陰に隠され,活動のすべてを抹殺されて,あらゆる文献からも消し去られていることへの抗議の一文」(はじめに)であるところに本書の目的がおかれている。だからといって,主観的な自己主張のみの叙述ではなく,自己の体験を中心に客観的に歴史が語られている。そのために,青年時代の自己の体験記が中心の「社会主義伝導とロシア行き」の章がもっとも生き生きとした語り口となっていて,興味深かった。次に,本書の概要を紹介しよう。
 「社会主義宣伝情報誌『進め』の創刊」の章では,『進め』が「福田の社会主義への使命感」から創刊されたことが強調されている。そこで,『進め』についてどう評価できるかを若干検討してみよう。
 『進め』は,商業広告を非常に多く掲載するなど,当時の社会主義関係紙誌とは異なった刊行形態であった。その点では商業出版物の一種と言えよう。しかし,編集人の北原が第1次共産党のメンバーだったこと,進め社に出入りしていた青年たちがそれに多く関係していたことから,創刊当初は,第1次共産党の事実上の機関誌のような役割を果たしたといえる。その点で,大正期の社会主義運動史研究に絶好の史料と言えよう。 しかし,それよりも当時の『進め』のおもしろさは別のところにある。福田狂二の個性を反映してか,その誌面は雑然とした編集であった。ところが,そのことがかえって各地域から寄せられる通信などにおいて,生の実状をリアルに伝えるものとなっているのである。そのため,同誌は当時誕生していた地域の革新青年の動向を知るための格好の史料となっている。そこで,同誌は大正期の生活史・歓会史研究においても欠かせないものと言わねばならない。
 樋口も上に述べたような社会主義的革新青年であった。彼は,進め社が関東大震災で焼け出されて,本社が東京から大阪に移転した後の1924年5月から1926年6月頃まで記者をつとめていた。前述のように,進め社には彼や第1次共産党事件の被告・田代常治ほか何人かの青年が寝泊まりしていた。事実上,社会運動の 「アジト」となっていたことが本書からわかる。
 「社会主義伝導とロシア行き」は,樋口がロシアに行こうと思い立ち,京都から鳥取・島根を訪れる章である。前掲拙稿で述べたが,大正デモクラシー期の島根の社会運動には,農民組合運動・松江高校の学生社会運動・地域の社会主義的青年,文学青年のグループによる運動の3つの源流がある。このうち,青年グループの動向が本書からよくわかる。 20年代前半において,福田狂二が島根出身であったため同県の青年が上京すると進め社にやっかいになり,そこで社会主義的思想にふれるというのが―つのパターンとしてあった。やはりそのような青年の中に,福田理三郎がいた。彼らが島根に帰った後,地域社会運動の中心を担っていく。樋口は彼のもとを訪ね,社会主義政談演説会を開催している。これは繰り返して行われ,満員の盛況で大成功した。この演説会にはアナーキストを自称する女性も演壇に立つなど,20年代半ばの地域社会運動思想の混沌状況を見て取ることができる。ところで,ロシア行きは福田理三郎らに反対され,政談演説会の収入で手に入った旅費で進め社に帰った。
 「社会運動肘閥同盟」は,スパイの疑いでソ連で銃殺された大庭柯公の事件以後,福田狂二と「進め社」社員がソ連と日本共産党に反対する活動を展開する章である。 ロシア革命後,ソ連評価をめぐって大杉栄派,高畠素之派と堺・山川派とが分裂したのと同様に,福田狂二とその周辺の人々も社会主義運動から離反した。理想としたはずの社会への幻滅がその行動を引き起こしたと言える。そして,この経緯が歴史の中に消し去られたことへの「抗議の一文」が文書の最大の目的と言えよう。ソ連崩壊後の現在においてこの感情は肯うことができる。
 たしかに,20年代半ばにはソ連への幻滅感は日本に生まれたといえよう。福本和夫のソ連に対する距離感はそれで説明できるかもしれない。ただ,日本人のソ連評価についても歴史的にとらえたいところである。この頃の日本社会主義運動においては,まだ「社会運動討閥」などという運動は受け入れられるものではなかったであろう。
 「討閥」運動をしたとしても「進め社」の周辺の人々は社会運動から離反したわけではない。福田理三郎や山根積らは島根の郷里に帰り,「腰を据えて地道な運動を進め」(119頁),地域改革の中心を担った。福田理三郎は労農党中央委員となった。また,樋口はプロレタリア芸術連盟に関係し続けるのである。一方,福田狂二は社会運動から離反する。本章の最後には,福田狂二が清党運動に立ち上がり,それに挫折して社会主義政治運動そのものに幻滅し,右翼となっていく過程が述べられている。戦時下転向の一つと言えよう。
 最後の章,「大逆事件の黒い影」は橋浦時雄ほかの思い出話である。その章の中で,福田理三郎が松江で発行していた『平民新聞』『山陰改造』が「ほとんど散逸している」(194頁)とある。大原社会問題研究所にはそれらはほぼ完全にそろっている。これらを見られたらさらに実証的な書物ができあがったに連いない。
 「結びのひとこと」も思い出話である。その中には,「私は戦後,東京で瀧沢から野坂と小泉三申との関係を聞かされ,瀧沢が野坂と会った際に彼は『野坂さん,うまく化けましたね』と言って,苦が笑いされたと瀧沢に聞かされたことをはっきり記憶している」(204頁)という 「野坂参三スパイ説」が紹介されている。「瀧沢」とは平野力三の妻の実兄で五.―五事件参加者である。本書では,野坂を「慶応大学教師」としたり,野坂も逮捕された三.一五事件の時には海外にいたとするなど,不正確な箇所が目立つが,はたしてこの説はどうであろうか。
 本書は,後半部分に十分整理できていない叙述が目立つものの,大逆事件以来社会運動の周辺に生き続けた歴史の証人としての発言であり,一読の価値があると言えよう。



樋口喜徳著『〈進め社〉の時代−−大正デモクラシーの明暗』新泉社,1993年5月,209頁,定価1,751円)

うめだ・としひで 法政大学大原社会問題研究所兼任研究員)

『大原社会問題研究所雑誌』第438号(1995年5月)



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