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ヴェロニカ・ビーチ著
高島道枝・安川悦子訳

          『現代フェミニズムと労働』

評者:竹中 恵美子




 本書はイギリスのマルクス主義フェミニズムを代表するヴェロニカ・ビーチ(Veronica Beechey)のほぼ10年間にわたる論文を集大成したものである(原題は Unequal Work,Verso,1987)。
 本書の主題は,現代資本主義の雇用構造の変化と女性の地位の理論的解明という点にあるが,その何よりの大きな特徴は,10年間に女性と差別の関係を解明するために,フェミニズムが提起してきた新しい概念(たとえば家父長制)とマルクス主義の既成の概念(生産,再生産,産業予備軍,失業など)を,ともに批判的検討の素材としながら,著者自身が,女性の差別を解明する新しい概念と分析の枠組みを創造しようとした,きわめて論争的な理論書であるという点にある。
 日本では,マルクス主義フェミニズムについては,殆どアメリカの潮流を代表する二元論(資本制と家父長制を独立変数とした接合論)が紹介されてきたため,この理論を代表する上野千鶴子理論を即,マルクス主義フェミニズムだとする風潮が極めて強かった(注1)。この点で,いま一つの潮流を代表する統一論者ビーチの理論が翻訳されたことの意義は,きわめて大きいといわなければならない。
 またいま一つの意義は,ビーチが理論的諸概念を構成するうえで,歴史的・具体的分析をきわめて重視している点である。本書は,1970年代の経済構造の変化がもたらした女性雇用の変化を,つぶさに検討することによって,ジェンダー分析を欠いたこれまでの労働概念では,女性労働のみならず,男性労働の分析にとっても不十分だという認識に到達し,新しい労働概念の分析枠組みが提起されている。したがって本書は,たんに女性雇用分析にとどまらず,労使関係や産業社会学などの分析枠組みにも,大きな問題を投げかけたものとみることができよう。
 そこで本書の具体的論点に入る前に,本書の構成を示しておきたい。
 序論
 第一章 女性と生産―女性労働に関する社会学理論の批判的分析
 第二章 資本主義生産における女性賃労働についての覚え書
 第三章 性別分業と労働過程―ブレイヴァマンの批判的検討―
 第四章 家父長制について
 第五章 女性雇用の何がそんなに特殊なのか―有給女性労働についての若干の最近の研究の検討―
 第六章 パートタイム労働の性格
 第七章 イギリスにおける最近の女性雇用研究の方法
 第八章 失業は何を意味するか
 第九章 将来の労働力の形態

 まず本書は,内容からみて三つの部分からなっている。第一の部分(一〜四章)では,女性労働に関するフェミニストならびにマルクス主義者の理論分析に対する批判的検討にあてられている。
 第二の部分(五〜六章)では,多くの実証研究を踏まえて,性別職務分離の実態を明らかにするとともに,その研究枠組みを批判的に検討することによって,ビーチ自身の新しい研究方法が提起されている。
 第三の部分(八〜九章)は,労働の未来を論じたもので,労働力の女性化のもつ今日的特質と,性役割分業構造を超えていくための,オルタナテイブな戦略が提起されている。
 まずビーチは序論の中で,フェミニズム運動の初期(60年代半ばから70年初期)には,女性の抑圧の性格論議において,今日よりももっと重要な位置にあった労働が,近年になって次第に「曖昧な地位」(2頁)におかれるようになってきたことに,批判的視座をすえる。そして現実はこの20年間に進展した労働力の女性化によって,ますます労働分析の重要性を増しているとして,この間の女性労働の多様性と新しい変化を説明するために,先行理論の批判的検討からはじめている。
 そこでは主に1)社会学理論,2)二重労働市場論,3)マルクス分析が俎上にあげられるが,1)タルコット・パーソンズに代表される社会学の主流理論は,構造的機能主義の欠陥を多くもっており,階級関係から家族を切り離し,性別分業と労働過程の関係を分析していないこと。また実証的社会学研究においても,性役割の問題が,個人の役割葛藤の問題に解消されてしまい,その社会的基盤の説明を欠いていること,要するに家族関係が資本主義から切り離されてしまっている点を批判する。
 一方2)の二重労働市場論については,労働市場内の差別が問題にされるとはいえ,その分析は静態的,非歴史的であり,それは分類するだけで,編成の道すじがないこと,性役割分業が労働市場の外にある変数とされてしまうことから(家族の無視),女性の立場の特殊性を分析しえないでいるとする。
 さらに3)マルクスの分析については,家族と性別分業の理論が欠如しているため,「資本主義的生産様式の内部で,家父長制イデオロギーが,その性別分業を再生産するために,どう機能するかを扱うことができないでいる」(23頁)と批判する。そのうえでビーチは,自らの独自の理論を展開するが,いまその特徴を挙げれば,次の四点に集約されよう。
 まず第一の点は,労働の分析は,あらゆる形態の労働(有給ならびに無給の)分析を包括する必要があること,つまり「家族―生産関係を分析の対象にすること」(71頁)の重要性を強調する点にある。この点ではビーチは,古典的なマルクス主義の生産分析に批判の矛先をむけ,マルクス主義階級概念は,「生産過程にのみ力点をおく資本主義観から生まれる」(136頁)ものであり,もともと「再生産をも含まないような生産概念をもつことは不可能」(136頁)である以上,生産の分析は,社会的諸関係の総体の中に位置づけられなければならないとして,生産概念そのものの再考を提起している。これは生産分析ひいては労働分析を階級関係とジェンダー関係の統一的視点に立って行うということにほかならない。しかも家父長制(ジェンダー・ハイアラーキー)が満足のいく理論となるためには,家父長制を生産様式から独立変数的にとらえるのではなく,「特定の生産様式内に存在する家父長制の諸形態を探索すべき」(137頁)だとのべており,ここに統一論者としてのビーチの立場が明確に示されている(第四章)。
 第二の点は,ビーチが経済決定論的な分析方法を排して,スコット(Alison Scott)などの「純経済的な諸力は,政治的,イデオロギー的諸力によって修正される」という,歴史・人類学的分析を導入している点である。これは本書の随所に示されており,たとえばジェンダー中立的な労働過程論にたつブレイヴァマン(Harry Braverman)の熟練解体論批判(第三章)に示されている。またマルクスの労働力の価値規定における,女性労働を単純労働と措定する仕方も,歴史的事実に反した自然主義的説明であり,男性賃金=家族賃金という歴史的措定も,この文化的・歴史的措定が,どのようにされたのかの理論的解明に欠けるとして批判する。要するに家族・国家・企業・労働組合などを媒介とするジェンダー・イデオロギーの作用を重視し,生産や経済を中立的な概念としてとらえるのではなく,労働過程自体がジェンダーを組み込まれたものとして概念化することを主張している。この点は彼女の卓越した識見を示すものといえよう。
 第三の点は,ビーチが一般的分析を越えて,資本蓄積の歴史,現状分析,さらに特定産業の具体的分析の必要を力説している点である(五章以下)。資本蓄積と経済の構造変化の諸過程,政府雇用の発展の構造変化が,どのように職務分離構造のパターンに影響を与えるのかをみる必要があるとする。これは少なくとも「家族の中での性別分業分析から単純に“読みとる”ことはできない」(179頁)ものである。
 ビーチは再構成されたマルクス主義フェミニストの枠組みでさえも,「この一連の仮説は著しく一般的」(181頁)でしかなかったとして,自己反省から出発している。こうした方法によって,実証研究を利用し,具体的分析にとりかかることで,いくつかの新しい発見に到達している。
 たとえばその一つが,第六章のパートタイム労働の性格である。 1950〜60年代と70〜80年代のパートタイム労働利用との間には,二つの異なるパターンが発見されるという。つまり70〜80年代には,パートタイム労働利用は,もはや労働力不足論では十分説明できないこと,それは70年初頭以降の生産と労働にたいする資本のフレキシビリティ戦略の中で,女性についてのみ,男性とは違うやり方で,パート労働が作り出されたこと,公共部門への女性のパート労働の集中性,これからは労働力不足では説明されない家族重視のイデオロギーと深く結び合っているとのべる(198頁)。
 また産業予備軍の理論に関しても,従来の理論は,女性は景気後退期には,「最初に解雇される者」と予測されてきた。しかしここ数年間の女性雇用に関する調査によれば,大きく状況が異なっている。とくに産業・地域・職場によって,どのように労働が編成されるのかは,雇用の再編の視座からの分析が不可欠である(229頁)。そしてそのさい,「失業とフルタイム雇用という単純な二分法(これはきわめて男性的な概念である)」(229頁)を乗り越え,有給労働が再編成されつつある複雑な道筋を分析することが必要だとしている。
 第四の点は,新しい労働概念を提起し,これまでの労働概念では,周辺におかれてきたパートタイム労働を,女性解放論ならびに現代資本主義分析の戦略的地位に据えたことである。
 ビーチは次のようにいう。「賃労働にだけ力点を置いた労働権の要求」(252頁)は,あまりにも狭すぎるものであり,「もっと弾力的なアプローチを求めて闘う」(252頁)ことである。そのためには労働の世界を男性労働者のイメージ(フルタイムで働くこと)でとらえる考え方から解放し,「人びとが彼らの生活のさまざまな時点で,有給労働をしたり,育児や余暇の楽しみや,戦業教育に従事したりすることができるように,賃労働がもっと柔軟に組織されるように代替戦略が選択される」(251頁)べきだとする。こうした発想は,ビーチのより広い生産・労働概念からひき出されるものであるが,そこから労働の未来ヴィジョンが次のように語られている。
 まず「あらゆる形態の労働(有給・無給)がもっと弾力的に編成され,かつ人々のあいだにもっと平等に配分されており,又人々は有給の雇用であると否とにかかわらず,品位が保てる生活水準が保障されている,そのようなヴィジョンである」(239頁)と。
 そしてこのための当面の戦術として,1)パートタイム労働者の賃金を引上げ,フルタイムと平等の権利を認めること,人びとが労働の生涯にわたって,パートタイムとフルタイムの雇用のあいだを自由に移動できる女性の権利を確立すること(ポディテイブ・フレキシビリティ―評者),2)労働時間の短縮(人びとのあいだに労働の再配分を可能にする),とりわけ労働日の短縮や再編成といった問題を,政治的・産業的な闘争目的にのせることが必要であると結んでいる。この方向は,OECD「1990年代の女性と構造変化に関する専門家グループ報告書」(1991年)が示した,有給労働と無給労働の性別配当のアンバランスを是正するためには,個人的・社会的レベルでの構造調整が必要だとする方向と符合するものである。
 勿論こうした労働の未来についてのビーチの代替戦略論は,労働市場の性別職務分離構造を解体していくための戦略論としては,いまだ未完成の域にとどまっている。しかし本書で展開されている分析枠組みは,新しい歴史理論を構築するための,示唆に富むものと高く評価されよう。
 なお最後に若干の問題点を指摘しておきたい。その最たる問題点は,ビーチが資本蓄積の歴史分析の重要性を説きながら,本書には現代資本蓄積論の十分な展開が欠けていることである。たとえば女性のパート労働の増大という歴史的傾向も,70年代以降の資本蓄積の新段階としての経済のリストラクチャリングと有機的に関連づけて説明されてはいない。また60年代半ば以降の資本蓄積のグローバル化と結びつけた,ジェンダーの国際的再編成の理論も,十分展開されているとはいえない。その点に関するかぎりでは,久場嬉子氏が指摘しているように,ヴェールホーフ(Claudia von Werlhof)やトムゼン(Benholdt-Thomuzen),ミース(Maria Mies)など,ドイツ・マルクス主義フェミニズムの方が,より優れた分析を進めている(注2)。したがってビーチの労働市場におけるジェンダー・ハイアラーキーの理論の精密化には,よりつっこんだ現代資本蓄積論との結合が必要であるといえよう。
 たしかにビーチの文章は,読み易いものではない。それだけに訳者解説は,きわめて適切であり,読者の理解を大きく助けるものとなっている。ただし訳者解説で,ビーチにつながる日本での理論家として,高橋正立氏があげられていることには,若干疑問がある。なぜなら,家庭の経済的内部構造を経済学の視野に収め,家庭と社会の連続性の重要性を説く点では,両者の発想は通底するが,資本蓄積に伴う家族解体については,むしろビーチはそれを押しとどめる国家機能を重視しており,両者間にはかなりの距離があると考えるからである。
 にもかかわらず,ビーチのように,統一論的立場にたつフェミニストの「労働」研究が,無視されることの多かった日本の研究状況を考えると,本書が翻訳され,広く読まれる機会をえたことの意義はきわめて大きい。久しく絶えた論争の活性化のためにも,ぜひ推奨したい書物である。

注(1) わが国のマルクス主義フェミニズムの研究の現状と,80年代欧米の新しい研究動向については,拙稿「1980年代マルクス主義フェミニズムについての若干の覚書一Patriarcha1 Capitalism の理論構成をめぐって―」,大阪市立大学『経済学雑誌』第90巻第2号,1989年7月(拙編著『グローバル時代の労働と生活』ミネルヴァ書房,1993年に再録)を参照されたい。

注(2) 久場嬉子「グローバルな資本蓄積と女性労働―ドイツ・マルクス主義フェミニズムの問題提起によせて―」(拙編著『グローバル時代の労働と生活』(前掲書)に所収)が示唆に富む。



中央大学出版部,1993年3月刊,288頁,定価4,120円

たけなか・えみこ 花園大学社会福祉学部教授

『大原社会問題研究所雑誌』第422号(1994年1月)




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