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『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版


社会政策学会編
    『21世紀の社会保障
            ――戦後50年の総括と展望』



評者:武川 正吾



 本書は,1996年5月に日本大学で開催された社会政策学会第92回大会の記録である。社会政策学会は,毎回,共通論題を設定する慣例となっており,本大会では,「21世紀の社会保障――戦後50年の総括と展望」が,そのテーマとして掲げられた。そして,本書掲載の学会記事によると,以下の六つの報告が行なわれた。

      
  1.  21世紀生活保障思想への課題と展望  玉井金五(大阪市立大学)   
  2.  社会保障の政策目的・理念と財政原則  工藤恒夫(中央大学)   
  3.  社会保障の単位  伊田広行(大阪経済大学)   
  4.  医療 藤井良治(千葉大学)   
  5.  介護問題とは何か――高齢化社会における医療と福祉   
  6.  年金――戦後50年の総括と展望

 本書には,これらの報告のうちVとVIを除く4つの報告論文と,この大会の総括討論で座長を務めた高田一夫氏(一橋大学)の総括論文が掲載されている。大会は共通論題の他にも自由論題の部会が編成され,そこでの報告論文が3本収録されているが,この書評では,本書の題名となっている共通論題に関連する論文を中心に取り上げたい。
 第I章の玉井論文(「21世紀生活保障思想への課題と展望――戦後50年の回顧から」)は,まず,19世紀の生活保障思想が救貧であったのに対し,20世紀のそれが防貧思想であったという,氏の『防貧の創造』(啓文社,1992年)以来の主張に基づいて,戦後の社会政策史の回顧を行なう。
 そして,「高度成長期が現出することによって,国民の生活面における政策的課題が前面に押し出されてきた」こと,1960年代において保守派が福祉国家建設に熱心であったのに対し,革新派(氏は「非保守系」という言葉を用いている)が「福祉国家にはかなり批判的であり,それを支える社会保障にも懐疑的であった」こと,70年代以降は保守派が「福祉国家づくりに距離を置きはじめ」,革新派が福祉国家擁護へと展開するが,「福祉国家批判の立場を長く続けてきた非保守系に,独自の福祉国家論を積極的に展開するだけの十分な理論的蓄積は存在していなかった」ことを示す。
 用いられているデータが一労組のものであったり,一地方のものであったりという点で,その論証的価値に若干の疑問がないわけではないが,高度成長期の労働者の関心が,当時の労働運動の中心的課題である労働問題や政治問題から生活問題へとシフトしていったという点については,私も同感である。
 戦後日本の社会民主主義は,大砲かバターかという点で,大砲(安全保障)の問題をバター(社会保障)の問題よりも優先したために,福祉国家建設に関して有効な対応ができなかった,と私もかねてから考えているので,福祉国家や社会保障に関する保守派と革新派のねじれに関する氏の主張は,「わが意を得たり」という感じである。氏と認識が少し異なるのは,日本の福祉国家化に関するもので,たしかに氏の指摘するように高度成長期には福祉国家に関する言説が噴出したが,実際に日本の福祉国家化が開始するのは,高度成長の終焉以降であり,福祉国家危機の言説が氾濫するなかにおいてである,というのが私の考えである。
 また,1955年前後に「社会政策から労働問題へ」という方向転換を経験した日本の社会政策論は,70年代以降の現実と不適合を引き起こしているにもかかわらず,伝統の重みに負けて自己転換できなかったが,さすがに80年代以降には,国際比較研究の蓄積もあって社会政策概念の転換を迫られ,90年代の今日では「わが国の社会政策論も次第に国際標準に接近しつつある」といった趣旨の整理を氏は行なっているが,これに対しても,まったく異論はない。とくに氏の「(今日)新しい社会政策論をめぐって再度活発な方法論議が期待できる雰囲気は十分醸成されつつある」という希望的観測は,私も共有するところである。

 私は,社会政策に関する基本的な立場が玉井氏と共通しているので,批判の論点がどうも瑣末なところに集中してしまったかもしれない。しかし,第II章の工藤論文(「社会保障の目的と財政」)に関しては同じスタンスを貫くことができない。社会保障に関する理解があまりにも異なっているからだ。
 工藤論文が明らかにしようとしているところは,(1)社会保障の目的が生存権であることを論証することによって,「社会保障制度審議会が93年『第一次報告』や『95年勧告』で提唱した理念=目的の『見直し』・『変更』論の意図とその無理論的性格を明らかにすること」と,(2)社会保障税制に関する理論的視点を提示することによって,「制度審や一部の論者・マスコミが一体となって繰り広げている財源論は,客観的には,社会保障の”解体”政策を社会保障『改革』の名において正当化するための誤った議論であることを明らかにすることである」。
 この論文に対する批判を展開しようとすると,それだけで紙幅の制限を簡単に超えてしまうと思われるので,ここでは,次の二つの点だけを指摘しておきたい。
 第一は,自助に関する氏の理(誤?)解である。工藤氏は,生存権や社会保障の成立を「自助の原則への部分的修正」として理解し,自助と社会保障を対立するものとしてとらえている。こうした自助と社会保障を対立させる問題設定は,氏だけに限らず,1955年体制の下では保守・革新の両派にあまねく共有されている。そこでは,一方の極に自助を擁護する人びとがおり,他方の極に社会保障を擁護する人びとがいる。彼らは一見対立しているように見えるが,自助対社会保障という前提を共有するという点では何ら対立していない。
 しかし歴史的に考えれば,社会保障は,労働者のあいだの共済活動を,その母胎の一つとしている。ビスマルクの社会保険然り,ロイド・ジョージの国民保険然り,であろう。そして共済=共助とは,何ら自助を否定するものではなく,自助の合理的な帰結に他ならない。リスクを回避するために貯蓄をすることと,共済団体への拠出を行なうこととのあいだに何か決定的な違いがあるわけではない。このように考えなければ,今日,多くの先進諸国で出現しつつある多数のセルフヘルプ・グループ(という名のミューチュアル・グループ)の存在を説明することはできないだろう。社会保障は自助の自然な延長と考えるべきである。
 私がこのようなことを言うのは,それこそ本書のタイトルとなっている21世紀の社会保障を考えるうえで,ここに重要な論点があると思われるからである。20世紀後半のフォーディズム型の資本主義が終わりを告げ,それと密接に結びついていた福祉国家が変容を遂げざるを得なくなっている現在,福祉国家がフォーディズムの時代に生成したその抑圧的性格をいかに払拭するかということが,21世紀の社会保障を考えるうえで最も重要な問題がある。そして,この問題の解決の鍵となるのが自己決定や自己責任の考え方である(と思う)。ところが,工藤氏のような社会保障と自助や自己責任とを対立させて,後者を否定するという考え方は,この問題の解決にとっての桎梏である。
 第二に問題としたいのは,「味方でなければすべて敵だ」式のすべて一緒くたにする氏の方法的態度である。氏は,「制度審や一部の論者・マスコミが一体となって……」云々といった類の議論の仕方をしているが,実際には,これらの人びとが一体であるということはない。政府の各種審議会の社会保障に関する文書が,すべて同じ論調で書かれているわけではないし,工藤氏が言及している制度審の報告や勧告は,私自身がその草稿の執筆に関係したから言うというわけではないが,氏が決めつけようとしているように,社会保障の解体を企図しているのではなく,むしろ,80年代初頭以来,戦闘的な経済学者によって行なわれてきている社会保障に対する攻撃に対して社会保障制度を擁護するための文書であることは,これらの文書を素直に読めば分かることである。黒か白か式の短絡的な発想は,政治的プロパガンダとしてならともかく,21世紀の社会保障を考えるうえでは,あまり生産的であるとは思えない。

 第V章の伊田論文(「社会保障の単位――家族単位は性差別である」)は,社会政策・社会保障が家族単位になっていることにともなう問題点を指摘し,社会保障を個人単位に再編する必要を説く。個人単位でなければ世帯単位,世帯単位でなければ個人単位という二分法を私は採らないが,現在の日本の社会保障制度が世帯単位の方に大きく片寄っており,個人単位の方にもう少しシフトさせるべきだと私も考えているので,伊田氏の主張には共感を覚える。しかし,氏が前提する考え方のいくつかには同意できないところもある。
 第一に,氏は個人単位と普遍主義の結びつきを必然的なものと考えているが,私は両者は論理的にも歴史的にも独立であると考えている。もちろん氏の構想するような個人単位的=普遍主義的な社会保障というものはありうるだろう。しかし,個人単位的=選別主義的な社会保障というのも存在する。アメリカの社会保障制度はそれに近いと言える。また,母性神話に立脚して導入された家族手当制度は,家族単位的=普遍主義的な社会保障制度に他ならないだろう。家族単位的=選別主義的な社会保障制度の存在は言うまでもない。
 第二に,氏はどうも個人というものをモナド的な自足した存在であるように考えている,あるいはそうでない場合でも,自明の透明な存在のように考えているように見受けられるが,この点も私には受け入れられない。氏の議論のなかでは,そもそも個人が何であるかということは不問に付されたままである。この点に私は違和感を持たざるをえない。いったい子どもや胎児は氏の考える個人に入るのか否か。また相互依存や共依存ということが問題化している現在,個人というものを自律的なものと考えることが可能なのか否か。自己というものの社会的構築――それはいまや社会学的常識に属する――が明らかとなっているときに,個人を根拠とすることが可能なのか否か。もちろん,これらの問題からただちに,自己決定や個人単位が否定されることにはならないと思うが,これらの問題にふれない個人主義は,現在では素朴に過ぎると思う。
 第三に,氏が家族単位を排することに急なあまり,安易に「《国家−個人》モデル」なるものを採用している点は,私には到底承服しがたい。この図式は,一見,国家に対して個人の生存権の保障を義務づけるように見えて,実は,無防備な裸の個人を国家権力の前にさらすことを意味する。私は氏のような国家性善説には立っていないから,個人の自由を守るためには,何重にも工夫が必要だと考える。個人の私生活が不当な国家介入にさらされることがないためには,国家と個人とのあいだに多様な形態の中間集団が存在している必要があると思う。国家対個人という図式は,フランス革命以来,独裁主義のそれであり,私はこれに対して,ほとんど動物的な反発を感じざるをえない。
 最後に,技術的な点になるが,氏が社会手当のことを「必要度の証明=所得調査」なしの給付としている点は誤りであることを指摘したい。必要がないのに行なわれる社会保障給付というのは事実上はともかく権利上は存在しないのであって,普遍主義給付の典型とみなされる諸外国の児童手当や介護手当も,児童の養育や介護にともなう追加的必要をまかなうために存在しているのである。また,必要度の証明と所得調査を同一視するのは,必要に対する経済学者の狭隘な見方であると言わざるをえない。所得調査の有無は社会手当の定義にとって,重要な要件を構成しうるが,それは所得調査それ自体が問題だからではなく,所得調査にともなうスティグマ化が問題だからである。

 第W章の藤井論文(「医療保障五十年の歩み」)は「皆保険生成までの15年と皆保険体制のもとでの35年」の通史を描いたものである。非常に要領よくまとめられたものであり,そこに書かれていることに対して,私は,とくに異論はない。ただ難点を言えば,「戦後50年の総括」と回顧はあるが,21世紀に向けての展望については何も書かれていない,ということである。

 第X章の高田論文(「21世紀の社会保障――どこへ行くのか?」)は,以上の論文,および,本書には収録されなかったが当日なされた報告を総括するものである。高田氏によると,社会保障は「安全ネット」であり,「生存権の保障」である。このような社会保障制度は,氏によると,(1)再分配の程度,(2)再分配の方式,(3)サービスの供給方法によって,その形態が異なる。また社会保障制度は,現在,(1)人口変動と(2)低成長という環境変化に直面している。
 以上を踏まえて,21世紀の社会保障制度の設計を考える場合には,(1)「生存権保障の内容をどのように考えるか」,(2)「社会諸集団のバランスをどう取るか」,(3)「生活保障の原理をどう定義するか」という三つの論点が重要になると高田氏は言う。
 このうち(1)は,生存権の内実を示す最低生活の水準がどこにあるかという問題であり,それはそれで重要な問題だと思う。しかし,この論点は20世紀においてすでに問題となってきたことであり,とりわけ21世紀的な問題であるとは私には思われない。  これに対して,(2)は新しい論点を含んでいると思われる。この論点との関連でいえば,高田氏も述べているように,伊田論文の問題提起が重要だと思う。私は,この書評のなかで彼の議論に対する疑問を述べたが,だからといって,彼の提出した問題の重要性に対してはまったく疑っていない。
 この(2)の論点に関する議論のなかで,高田氏は,社会集団のバランスの問題をもっぱら負担と給付の配分という観点から扱っているが,それもさることながら,私には,社会保障における国家から独立した諸集団(市民社会に帰属する企業やNGO・NPOなど)の役割をどう規定するかが,21世紀の社会保障では重要な論点となると思う。おそらく高田氏の頭のなかには,社会政策や社会保障の主体は国家であって,それ以外の主体によるものは社会政策や社会保障の名に値しない,という考えがあるのであろう。しかし私には,20世紀において自明視されていた国家の特権性こそが,21世紀においては相対化されなければならないように思われる。その意味では,福祉国家における社会保障だけでなく,福祉社会における社会保障こそが論じられなければならない,というのが私の考えである。
 (3)については,ナショナル・ミニマムなどが依然として重要であることが指摘されているが,他にも論じられるべき論点があるように思う。それは玉井論文のなかでふれられていた「情報と参加」,そしてグローバル化の問題である。とくに前者に関連して,ノーマライゼーション,エンパワーメント,消費者主義などの理念が一言もふれられなかったのは残念なことだった。

 以上の共通論題に加えて,大会では三つのテーマ部会が設定された。そして,それぞれの部会から各1本の論文が本書には収録されている(どういう基準で採録されたのかは不明)。最後に,これらについて簡単にふれておこう。
 「阪神淡路大震災と社会政策」の部会から掲載されたのは,地震保険の限界を論じた,真屋尚生氏の「阪神・淡路大震災と生活保障・地震保険」である。教えられることが多く興味深く読んだのだが,依拠しているデータのほとんどが新聞記事と業界誌というのが気になった。

 「男女平等賃金」の部会の代表は,性差別的な雇用管理の実態とその原因を論じた,森ます美氏の「日本の性差別賃金とペイ・エクイティ」である。裁判の訴状の丹念な分析や,明晰な論旨に感心した。

 労働史と経営史の部会からは,市原博氏の「生産管理システムの日本的展開と労働者」が選ばれている。この論考は,経営史学会で行なわれた研究,とりわけ労務管理に関する研究のサーベイを試みる。日本的生産システムの歴史的起源が,第一次大戦後に導入された科学的管理法の「日本的修正」に関連づけられており,この分野に関して無知な私は,蒙を啓かれる思いだった。

 本書は,この他にも,テーマ部会の座長報告3本と書評6本などが収録されているが,批評に対する批評,書評に対する書評は,悪い冗談ともなりかねないので,ここで筆を擱く。




御茶の水書房,1997年5月刊,vii+195+59頁,定価=本体4,500円+税

たけがわ・しょうご 東京大学大学院人文社会系研究科助教授

『大原社会問題研究所雑誌』第475号(1998年6月)




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