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『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版



アラン・リックス編/竹前栄治・菊池努訳
『日本占領の日々――マクマホン・ボール日記




評者:高野 和基




 竹前栄治・菊池努の両氏をはじめ,多くの方のご尽力によって,待望の「マクマホン・ボール日記」が翻訳,出版された。周知のようにマクマホン・ボールは占領期における連合国軍最高司令官の諮問機関であった対日理事会の英連邦(英,豪,インド,ニュージーランド)代表であり,またオーストラリア代表部首席でもあった人物である。本書は,来日したボールが東京へ向かう車中の描写ではじまり(1946.4.4),エヴァット豪外相との正面衝突から辞職にいたる事情について書いた1947年8月6日までの1年4ヶ月にわたるボールの日本日記が中心となっている。それに加えて,本書はボールの47年9月1日付チフリー豪首相宛て報告など二つの報告書を収録した「付録」,編者による行き届いた「日記解題」および「注」,さらに訳者の一人である竹前氏による解説的な「訳者あとがき」などから構成されている。特に「注」は,たいへん詳細に作成されており,貴重な情報が数多く含まれている。また,「事項索引」「人名索引」も完備しており,あらゆる面からボール「日記」本体の立体的理解を助けるための周到な配慮がなされている。ここでは,日記全体の軸となっている対日理事会関係の記述を中心にボール日記の語りかけるものに耳をかたむけてみたい。
 対日理事会(Allied Council for Japan,以下「ACJ」と表記)については,一次資料である「議事録」を別にすれば,すでに傍聴者としてACJの模様を詳細に記録した,終戦連絡中央事務局総務部長(当時)の朝海浩一郎による「報告書」(外務省編『初期対日占領政策――朝海浩一郎報告書』上・下)や48年9月からACJの議長を務めていたウイリアム・シーボルトによる「日本占領外交の回想」などがある。これらの記録に比較すると,ボール日記はACJに関する「総合的」な記述であることが特徴である。ここで「総合的」というのは,この日記がACJの全期間についてあらゆる活動をカバーしているということを意味するわけではない。たとえばACJの全開催回数164回のうち,ボール日記がカバーするのは第38回までにすぎない。それにもかかわらず,この日記がACJに関する「総合的」記述であるといえるのは,それが「ACJの公式会議」,「英連邦としての公式会議への態度決定(参与会議)」,「相互の訪問や社交の場でのACJ各代表間の非公式な折衝」という三つの異なったレベルの記述を含み,読者はこれらの関連をボールの目を通して重層的に理解することができるからである。 ACJ についてのこれまでの通念は,それが日本占領の基本的問題には農地改革を除けばほとんど影響を与えることができず,米ソ間の宣伝戦の場となってしまった,というものであろう。けれども,ボール日記によって,すくなくとも48年5月ごろまでの時期においては,単なる「米ソ対決の場」というよりも遥かに豊かで,力感のあるACJ像が描かれる可能性があるのではなかろうか。近年,極東委員会を中心として日本占領のおかれた国際的文脈に関する関心が高まりつつある(比較占領史)。日本占領をGHQ/SCAPの「作品」とだけみるのではなく,より大きな文脈の中で解明していくためにも,この日記はたいへん魅力的な素材を提供しているように思われる。
 さて,日記を通じて浮かび上がってくるのは,「マクマホン・ボールの悲劇」とでもいうものである。この時期のACJは,基本的にアチソン(米国。当初はマーカット),デレビヤンコ(ソ連),ボール(英連邦),朱世明(中国。病気などのため沈観鼎が出席することも多かった)の4名の代表によって会議が進められていた。マクマホン・ボールはこの間,日本占領の独占を追求するGHQ/SCAPによる「ACJ=まま子」扱いに厳しい異議申立てを行って活性化に努力し,ついには「ここ東京でなしうることは何もない」(46.10.1)という諦観にいたるのである。ボール日記のACJ公式会議の記述は必ずしも詳細なものではなく,何回かの理事会についてはまったく記述のない場合もある。それにもかかわらず,さきの三つのレベルをふくむACJ関連の日記記述は,ボールが本国政府からの具体的な訓示を欠きながらも対日理事会に情熱をもって取り組み,それがつぎつぎと裏切られて行く過程をまことにリアルに描き出している。
 そのなかで,ボールは大きくいって二つの側面からACJに働きかけたといえるであろう。.一つの側面はACJの大枠,すなわち組織・権限などにかかわる問題である。もう一つの側面は,農地改革をはじめとする具体的な問題についての検討・勧告である。
 こころみに,第一の側面,すなわちACJの権限などについてボールの動きを日記から拾ってみよう。第1回ACJに出席したマッカーサーは,ACJの権限を厳格に諮問ないし勧告に限定する旨宣言した(46.4.5)。これにたいし,ボールは第2回ACJで権限と機能について質問することを決意し(4.12),理事会の前日(4.16)には,「基本的な事柄については,英連邦とアメリカの共存は必要不可欠だが,二次的な事柄については,アメリカの圧倒的でますます独占的になってくる態度に対抗して,ソ連と連合を結んだほうが得策だ」という「戦術」をたてている。しかし,第2回ACJは,追放問題で説明にたったホイットニーの挑発的な行為によって早くも米ソ対立の様相を示しはじめた。ボールは米のこうした態度に不快の念を抱き,デレビヤンコとの個人的接触を通じて両者は米国の態度批判で一致するようになる(4.18)。
 いっぽうでボールは,アチソンを非公式に訪ね,食糧問題に関する極東委員会決定をたてにACJの権限問題で揺さぶりをかける(4.29)など日本の占領をできる限り「連合国の占領管理」に近づけ,そこに豪の国家利益をも反映するためのテコとしてACJを強化しようとした。しかし,ボールの努力の前にたちはだかったのは,GHQ/SCAPの一貫したACJ無力化・「おしゃべり機関化」方針であったと言えるようだ。とくに理事会が「公開」で開催されたこと,および占領実施についての「情報」入手がGHQ/SCAPによって著しく妨害されたことがしばしば指摘されていることが印象に残る。
 第2の側面,すなわち具体的な勧告について,農地改革の勧告案にたいするボールおよび英連邦の動きを日記で追ってみよう。 46年5月26日,農地改革議案討議準備のためにボールは読書をはじめる。翌26,27日の参与会議を経て,29日のACJに臨んでいる。さらに6月2日には農村の状況を視察して,小作人の地主に対する態度に強い印象を受けている。さらに,6月12日および17日のACJにむけて何回も内部検討をおこない,またデレビヤンコとの接触も怠っていない(6.16)。とはいえ,農地改革についてはむしろ例外的な事例で,SCAPは財閥解体や新憲法についてACJに勧告を求めることはなく,むしろ「引揚者に対する最も効果的な予防接種の方法」などという不適切な問題についての勧告を求めた(「付録」 I参照)。こうしたなかで,ボールは辞任に至るまで「醒めた努力」を続けた。
 ボールの前にたちはだかったACJ無力化の方針は,SCAPによって「ソ連の脅威」に対抗するものと説明されていた。ボールはこれに対して,それは口実であって,実はマッカーサーの「気質と性格」によるところが大きいと指摘している。ボールの指摘が完全に正当なものであるかどうかは疑問の余地があるが,しかし,評者は占領期の事象をあげて「冷戦」のせいにしてしまう傾向への反省としてこれを読んだ。
 さて,日記本体は外交官としての社交を含めた公的活動の記録が中心となっており,彼の個人生活をうかがうことはほとんどできない。しかし,日記に表れたボールの人間観察のするどさは,読者につきることのない興味をかきたててくれる。マッカーサーの「虚栄と演技」を見抜き,吉田茂の「アメリカ人嫌い」を冷徹に観察するボールの目は,いささか気味の悪いほどである。その他にも,マッカーサーや朝海浩一郎との会見など,本書に盛られた内容には興味のつきない記述が数多くみられる。
 ボール日記は48年夏,ボールは辞任,デレビヤンコは交代,アチソンは飛行機事故死,朱は病気のための交代によってそれまでのACJの代表4人が,一斉にACJを去るまでの時期(それはSCAPによるACJ無力化策が完了する時期でもあろう)のACJを内部から描いた稀有の記録であるといえよう。翻訳の労を取られた方々に深く感謝したい。





岩波書店,1992年,xxii+313+7p.,定価4,500円

たかの・かずもと 法政大学大原社会問題研究所兼任研究員

『大原社会問題研究所雑誌』第407号(1992年10月)



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