OISR.ORG へようこそ 法政大学大原社会問題研究所
 

『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版



田沼 肇編
『労働運動と企業社会』



評者:高橋 祐吉




 最近では企業社会(あるいは企業中心社会)という表現がたいへんポピュラーになった。過労死に象徴されるようなわが国社会の問題性が,誰の眼にも映ずるようになったためであろう。経済企画庁経済研究所のリポートによれば,年間総労働時間が3,000時間を超えるような過労死予備軍の男子労働者は,528万人にも及ぶというのである。このような長時間労働が構造的に定着した社会を,企業社会と呼ぶことにそれほどの異論はないはずである。だが議論が分かれるのはその先である。イメージとしての企業社会を社会科学的な企業社会論として展開しようとすると,あるいはまた企業社会からの「出口」を実践的な課題として探ろうとすると,論争は避けられない。
 本書は,法政大学社会学部大学院の田沼ゼミで学んだ研究者による論文集であり,この間彼のもとで続けられてきた研究会の研究成果を世に問うたものである。本書の特徴として指摘しておかなければならないことは二つある。一つは,メンバーの多くがアカデミックな世界と同時に現実の労働組合運動とも深く関わっているために,きわめてリアルな問題意識にあふれていることであろう。本書のタイトル自体にもそのことは示されている。そしてもう一つは,彼らの多くが,旧来の議論の批判的な総括のうえにたって大胆な問題提起を試みようとしていることだろう。編者の田沼氏は,「自分が直面している現実には,従来の労働運動研究の理論的枠組みを超えている問題が多いことを痛感している」と述べておられるが,そうした率直な態度は,読者に知的な爽快感をもたらしている。
 最初に本書の構成を紹介しておこう。本書は,「企業社会と労働組合」(木下武男),「アメリカと日本の歴史に学ぶもの――戦後労働運動の底流」(阿井 悠),「職安行政の新たな展開と『変質』」(斉藤 力),「高齢者雇用政策・その焦点と盲点」(丸谷 肇),「職業能力の形成と企業社会」(星村博文)の5本の研究論文と,「本書を執筆するなかでの研究会の論議を,今後の研究の新たな方向として確認するという意味で,整理」した総括的な論文「企業社会と社会的規制――今後の研究方向について」(田沼 肇)からなる。本書を一読した限りでは,タイトルの「労働運動と企業社会」のうち,木下論文が企業社会を,阿井論文が労働運動を中心的に論じて,ともに総論あるいは準総論的な位置を占め,他の斉藤,丸谷,星村論文が各論的な位置を占めている。
 まずは,これまでの研究蓄積を活かして手堅くまとめられている斉藤,丸谷,星村論文から取り上げてみよう。3論文に共通する視角は,企業社会化の進行のもとでの労働政策の「変質」過程の探求である。斉藤論文では,規制緩和と民間活力重視の政策展開のもとで職安行政が「産業政策への従属を強め」つつあることが,さまざまな事例を紹介しつつ明らかにされている。また丸谷論文では,近年の高齢者雇用政策が,法的規制を欠いているために「中高年労働者の排除に対する規制」をおこないえていないことが指摘されている。そして星村論文では,職業能力開発政策の展開過程がフォローされ,リファインされた能力開発の日本的システムが「企業社会増殖の主要なてこ」となりつつあることが解明されている。
 これらの論文を読むことによって,われわれは労働政策の背後にあったはずの市民社会の「理念」が風化し,変形し,解体しつつあることを知ることができるし,また労働政策の「変質」が企業社会化を促進しつつあることも認識できる。しかしながら,市民社会の「理念」を再度強調することによって労働政策の変質を批判するだけでは,はたして現実と鋭角的に切り結んだことになるであろうか。現実の政策や制度に対するオーソドックスな批判は大事ではあるが,オルタナティブが見えにくいために,そこにはいささかの歯がゆい思いがつきまとう。評者としては,現実の労働政策をイデオロギー的に支えている研究者の議論を,本格的に批判するような論文構成に純化させたほうがおもしろかったのではないかという気がしないでもない(例えば斉藤論文における高梨批判や星村論文における小池批判など)。
 ではなぜオルタナティブが見えにくいのであろうか。その責任は何も研究者の側にのみあるわけではない。主要には,労働組合運動の「無力」化がそうした事態を招いているというべきだろう。阿井論文は,1920年代のアメリカにおける「〈大量生産・大量消費型社会〉を先導したフォードの労働者統合のシステム」と日本のシステムとを対比しつつ,労働組合運動の「無力」化の底流を探っている。彼女は,日本の60年代が遅れてきたアメリカの20年代であったという視点から,高度成長時代と春闘を論じ,「『所得倍増計画』は日本版フォード主義の『社会的宣言』であり,“春闘”はそれを実質化させた『社会的装置』であった」と述べている。このような春闘によって形づくられたものが,社会保障や福祉水準の相対的劣位のうえにたった「日本的生活様式」であり, そこには企業から自立した公共的「生活戦略」の欠落,言い換えるならば,「企業に依存する生活」以外の「生活の選択肢」の欠落という大きな問題がはらまれていたのである。企業社会化の進展は,労働組合による労働者生活をめぐる対抗戦略の不在によっても支えられていたというべきだろう。彼女は,結論にかえて「不況の30年代にCIOという名の産業別組合を誕生させたアメリカ労働運動に学ぶ」ことを提唱しているが,わが国の労働組合運動を国際的な視野から再評価しようとする実践家の試みは貴重である。
 ところで,こうした阿井の提起を「産業社会」のフィールドの設定という形で活かしながら,刺激的な企業社会論を展開しているのが木下論文である。木下企業社会論の特徴は次のところにある。一つは,「労働組合論を入れ込まない企業社会論は,分析でも,超克論でも,整合的に完結しない」との認識にたって,労働組合のありようを重視した企業社会論を展開していることである。もう一つは,企業社会を「企業の領域における社会と,産業の領域における社会と,全体的な市民社会という三成層」で把握し,とりわけ産業の領域における社会である産業社会を,労働組合にとっての主要なバトル・フィールドとして位置づけていることである。
 木下論文は,「たぶんに感覚的であり,また多義的にもちいられ,理論としても発酵の過程にある」企業社会論を,正面から論じようとした野心的な作品である。そのために,厳密な論理展開や緻密な実証分析という点では物足りなさを感じないではないが,評者には,今日のような閉塞した時代状況のもとでは,大胆な問題提起こそが求められているのではないかと思われる。彼はまず,現代日本社会分析のキーワードとして登場した企業社会論の系譜を批判的に総括する。評者にとって興味深かったのは,彼の馬場宏二や渡辺治批判である。その論点をここで繰り返す余裕はないが,現代日本社会を抑圧と同意,競争と参加,前近代と超近代の複合物としてとらえ,そうした社会の変革の可能性を産業社会における社会闘争に求める彼の主張は,検討に値するといえるだろう。わが国に特有の競争社会や格差社会を解明するには,産業社会のありようをあらためて検討しなければならないのである。左翼の労働組合運動は,あまりにも「職場」と「政治」に片寄りすぎており,産業レベルの運動が軽視されているとの思いがそこにはあるのだろう。
 彼が一貫して強調していることは,これまでの企業社会論においては,企業社会と労働組合との関連が不明確であり,そのために企業社会からの「出口」が見失われているということである。彼流に表現すれば,「企業社会の形成要因に労働組合を入れこみ,超克の中心に労働組合をすえ」なければ,企業社会論は完結しないというわけである。彼は「労働組合の規制力の微弱な産業社会」を企業社会ととらえ,それが「競争と格差と分断の原理によって編成」されていることを明らかにしているが,そうした認識から導かれることは,個別企業レベルでの労働条件決定が,企業間競争と労働者間の格差を蔓延させて産業社会の企業社会化をもたらしたとするならば,産業レベルでの労働条件決定が,競争規制と平等化を可能にして企業社会の産業社会化をもたらしうるということであろう。こうして,「産業レベルにおけるユニオニズムの確立」という提起が浮かび上がってくる。
 近年日本的生産システムをめぐる議論が花盛りであるが,そうしたなかにあって,民間大企業における「抑圧の側面は研究上,不当に軽視されているように思える」とあえて指摘するような批判精神,企業社会からの「出口」を模索しようとするきわめて実践的な姿勢,左派の労働組合にも自己革新を求めるような大胆な問題提起,さらには労使関係の国際比較を重視してヨーロッパ・モデルの労働運動からも学ぼうとする真摯な態度,総じてアカデミックな議論が安易にそぎおとしてしまいそうな「夾雑物」をふんだんに内包していることが,木下論文を逆に魅力的なものにしているのかもしれない。彼の旺盛な問題意識から学ぶものは多い。
 最後に,研究会での議論をまとめた田沼論文にも一言ふれておきたい。この論文は短いものであるが,そこには執筆者たちの「肉声」があふれていて,たいへん興味深い読み物となっている。評者としては,議論の全貌をもっと詳しく紹介して欲しかったし,あるいはまた個々の論点をもっと掘り下げて議論して欲しかった。そうすればさらに知的興奮を誘うものになったのではなかろうか。研究上の反省や今後の課題として語られていることがらで評者が関心をもったのは次の点である。第一に,これまでの貧困化と労働者状態に関する研究は日本社会の分析とは結びついていなかったが(現在でも資本蓄積還元的な議論がおこなわれている),企業社会論は,個別の労働問題研究を超えて新たな社会認識の枠組みをあたえつつあることである。第二に,今後「人間尊重を土台とした市民的原理」にもとづいた労働組合を創造しなければならないが,それとともに,労働者であり生産者でありかつまた生活する市民でもある人々を総合しうるような運動(それは3側面から企業社会を「相対化」するような運動である)が必要となっていることである。ともに異論もありうるような論点である。本書の出版を契機として,企業社会と労働運動をめぐる議論が多方面において活発に展開されることを望んでやまない。





大月書店,1993年11月,238頁,定価2,600円

たかはし・ゆうきち 専修大学経済学部教授

『大原社会問題研究所雑誌』第428号(1994年7月)



先頭へ
書評一覧へ
電子図書館へ
研究所ホームページへ