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『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版



大塚 茂樹 著
『ある歓喜の歌 ――小松雄一郎/嵐の時代にベートーヴェンを求めて

高橋 彦博




 冷戦構造を象徴する「ベルリンの壁」が崩壊した一ヵ月後の1989年12月,東西ドイツの人々は,バーンスタインが指揮するベートーヴェンの「第九」に,熱狂に近い興奮を示した。ドイツ統一式典が挙行されたのは翌年の10月であったが,そこで祝典曲として演奏されたのも「第九」であった。 これらの場合,「第九」の「歓喜の歌」は,歌われるべくして歌われたと言えよう。東西ドイツが分断されていた時代から,オリンピックなどで,分裂国家を統一する「国歌」となっていたのは,ベートーヴェンの「歓喜の歌」であった。
 ベートーヴェンの「第九」の「歓喜の歌」が,思わぬところで歌われている場合があった。 1918年6月のことであるが,第一次世界大戦で捕虜となったドイツ人兵士たちが,日本の徳島県の鳴門市にあった収容所で「第九」を演奏している。この演奏が「第九」の本邦初演であった。第二次世界大戦の末期に,日本のいくつもの大学が「出陣学徒」のための壮行会を開いた。 日本の大学は,国立,私立を問わず学徒出陣に積極的に加担していたのである。 1944年8月,東京帝国大学の法文経25番教室において,出陣学徒のための壮行音楽会が開かれている。演奏されたのは,日響による「第九」であった。前線に赴く学生たちは,どのような思いで「歓喜の歌」を聞いたのであったろうか。
 「ベルリンの壁」が崩壊した年の5月,中国の天安門広場では「人民の壁」が構築されて,社会主義国家権力による軍事力行使と対決していた。このとき,人民の側で歌われたのは「インターナショナル」であったが,「歓喜の歌」も中国語で歌われていたという。「ベルリンの壁」崩壊の前年,1988年,チリでピノチェト軍事政権にピリオッドが打たれた。このとき,大統領選挙に向けて民主化を求めた人々による歌声は,かつて人民連合によって歌われた「ベンセレモス」ではなく,「歓喜の歌」であったという。同じ1988年,韓国で獄中にあった徐俊植は,「第九を聞きたくてしかたないが第四楽章のバワトン・パート,テノール・パートを口ずさむだけでがまんしている」旨を獄中で記している。

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 大塚茂樹氏は,このような「第九」にまつわるさまざまな歴史の背景を語った上で,一人の日本人左翼青年と,彼の生涯を彩ることになったベートーヴェン研究の経過を「ある歓喜の歌」物語として記録した。その青年とは,1931年,慶応義塾大学高等部のストライキに参加,その後,共産青年同盟に加わり,まもなく日本共産党の一員となり,非合法活動に参加して治安維持法で逮捕された小松雄一郎であった。小松は,戦後,再建された日本共産党の幹部となり,1950年代初頭に臨時中央指導部議長に就任した人物である。
 小松青年において,マルクスとの出会いの方が,ベートーヴェンとの出会いより早かった。慶応義塾の学生として,小松青年は,『資本論』をドイツ語で読み,ローザの『資本蓄積論』で再生産表式の論点を知り,伏せ字だらけのレーニンの『国家と革命』から強烈な影響を受けていた。そのような学生生活の中で,小松青年は,ロマン・ロランの『ベートーヴェン(の生涯)』を読み,輸入盤のレコードで「六番」を聞いて,ベートーヴェンの世界の虜になっていた。ベートーヴェン生誕百年の年には,シゲテイの演奏でヴァイオリン協奏曲を聞いている。といっても,友人の家にある電気蓄音機によってであり,洋盤レコードによってであった。新響の定期演奏会に行って,ベートーヴェンを近衛秀麿の指揮で聞くこともあったというが,おそらくは電蓄の音の世界の方が,小松青年の思索的鑑賞に向いていたのではなかったか。小松青年にとって,ベートーヴェンの世界とは,音楽の世界というより,一つの世界観,一つの哲学をたたえた世界であったようである。
 岩波文庫のリストに,カストナー=カップ著 『ベートーヴェン書簡集』が初刷り1940年で入っている。訳者は小松雄一郎であった。岩波文庫版『ベートーヴェン書簡集』は,戦後,1957年に「改訂増補」版が出され,1982年には上下二冊本の「新編」が刊行されている。岩波文庫のリストには,1957年刊で,小松雄一郎訳編の『ベートーヴェン・音楽ノート』も入っている。ベートーヴェンに魅せられた小松青年は,その生涯をベートーヴェン研究に捧げたのであった。 1979年に刊行された『ベートーヴェン第九/フランス大革命に生きる』(築地書館)が小松雄一郎の主著とされている。
 丸善のカタログでカストナー=カップによる800頁一巻本の『ベートーヴェン書簡集』があることを知り,それを小松青年が手に入れ,読み通したのは,市ケ谷刑務所の中においてであった。転向して出獄した小松青年は,『書簡集』の訳出を試みた。その成果は,つい先日まで非合法共産党のメンバーであった無名の青年の訳業であったにもかかわらず,有力な推薦者がいたこともあって岩波文庫の一点として刊行されることになった。 1940年,日米戦争開戦前夜のことである。このエピソードから,われわれは,大日本帝国体制下において,かなりの程度,市民社会状況が定着していたのであり,そこにおける市民理性が,一度は非合法革命運動に身を捧げる決意を示した左翼青年に対して許容力を発揮し,サルトルが『汚れた手』で言う 「回収」力を示していた事実を確認できる。
 『ベートーヴェン書簡集』の「改訂増補」版が出されたのは第二次大戦後であり,1950年代の後半,スターリン批判直後の時点においてである。すでに離党していたとはいえ,この場合も,指導部の公職追放で半非合法の状態に置かれていた日本共産党を代表する議長職に,つい先日まであり,自らも半非合法の生活を余儀なくされていた人物である小松の訳書の「改訂増補」版の刊行であった。同時に,小松の新たな訳編書も岩波文庫に収められている。このエピソードに見られるのも,日本の市民社会が示した共産主義運動に対する度量であり,とくに前衛党神話が支配する呪術の世界からの市民社会への復帰者に対する雅量であったと見ることができる。
 小松青年は,『ベートーヴェン書簡集』の冒頭に「この小さな翻訳が世に出るのは専ら兼常清佐先生の御指導並びに御配慮によるものであり,更にK.O先生,山下徳治先生,富本一枝氏,帯刀貞代氏等の御斡旋や御忠告の賜物であり……」との謝辞を記している。ここで「K.O先生」とあるのは,大塚金之助のことである。転向したとはいえコミュニストとしての自覚を失うことのなかった小松青年のベートーヴェン研究は,いい意味におけるディレッタンティズムというべき知的関心の発露であった。。小松青年のそのデイレッタント的知的関心を支える市民理性の領域が,戦前の日本国家に定在していたのであるが,それだけでなく,「K.O先生」の存在などからうかがえるように,コミンテルン・テーゼを掲げて猪突猛進した左翼の側にも,市民理性の普遍価値としての重みを受けとめる感性が,たとえばベートーヴェンの音の世界が発するメッセージを受信する感性が,かなりの程度で残されていたのであった。大塚茂樹氏の記述は,その辺の事情にとくに詳しいものとなっている。
 戦後直後においても,左翼の側のディレッタンテイズムと市民社会理性との交流は持続されていた。 しかし,両者の関係は,戦前から戦後まで,そしておそらくは今日に至るまで,アンビバレントな関係として残されたままでいる。コミュニストとしての使命感と市民社会理性という二つの世界をついに架橋できなかった社会実験の一例として,小松雄一郎の前半生があったと見てよいのではなかろうか。
 ベートーヴェン研究に生涯を賭けた小松雄一郎なる人物において,日本共産党とのかかわりとは何であったのであろうか。非合法運動で挫折したあと,家業を継いで成功し,ベートーヴェン研究においては,在野の研究者として充分に他に誇れる業績を挙げていながら,戦後,再び専任活動家として日本共産党に献身するその動機となったのは何であったのであろうか。
 大塚茂樹氏の小松雄一郎論において,小松が1954年に日本共産党の組織から身を引いた経過が詳細に記述されているが,離党の決意がなされた動機は,かならずしも明確にされていない。「六全協」後の時点で,小松が「徳田=志田共産党」から離れた理由はどこにあったと見たらよいであろうか。杉本文雄などが「徳田=志田共産党」崩壊後の日本共産党に残り,小松にも新たな活動の開始をすすめたにもかかわらず,小松が「回収不能」と心に叫んで,この度は日本共産党から離脱する方向を選んだのはなぜであったのか。
 大塚氏の記述に見る限り,小松に,帝国主義戦争反対とか,天皇制打倒とかいうコミンテルン・テーゼについて,強烈な理論的確信があったとは見受けられない。小松に,マルクス主義のあれこれの原理的な命題について,戦前・戦後を通貫する確信があったとも見受けられない。小松にあったのは,プロレタリアート独裁を掲げる前衛党についての一種の信仰心ではなかったか。天皇制の支配体制下において,あるいは占領軍の支配体制下において,非合法活動を展開する前衛党に対する組織信仰が,小松雄一郎においてベートーヴェン研究と明らかにアンビバレントな日本共産党への献身を生み出していたのではなかったか。
 前衛党の論理は,どのように誤りを繰り返す組織であっても存在し続けること自体が社会の進歩につながるとする神話を構築している。そのような意味における前衛党組織への信仰が崩れた一例を,『ある歓喜の歌』が記録していると見てよいようである。

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 1947年12月の日響によるクロイツァー指揮 「第九」の演奏,1949年の労音合唱団による大衆的な「第九」の演奏,両者の合流点から「壮大なドラマ」としての「歳末の第九」という社会慣行が生まれたとする理解が,この本の著者,大塚茂樹氏によって紹介されている。戦後音楽史にまったくうといものとして,思いつきを述べさせていただく。
 日本社会特有の慣行である「歳末の第九」については,これも大塚氏によって紹介されている一つの情景であるが,戦時中に『世界文化』や『土曜日』を発行していた中井正一が,終戦の年,1945年の12月に,尾道図書館の館長として開催した地域の演奏会で,「第九」をとり上げ,人々の感動を呼び起こしている事例が重視されてよいのではないか。ベートーヴェンの 「歓喜の歌」は,日本の社会において,戦後復興の賛歌として終戦の年の12月に歌われ,その後,戦後民主主義の賛歌として,毎年歳末に歌われる慣行が定着したのではなかったろうか。あるいは,戦後音楽史において,そのような理解は常識になっているのかもしれない。
 それはともあれ,一人の左翼青年の非合法共産党時代からのアンビバレントなベートーヴェン研究が,「ある歓喜の歌」物語となって,「歳末の第九」が戦後民主主義の賛歌として社会慣行化したという理解を肉付けする効果を発揮しているのは確かなようである。





同時代社,1994年7月,303頁,定価2,200円)

たかはし・ひこひろ 法政大学社会学部教授

『大原社会問題研究所雑誌』第438号(1995年5月)




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