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「社会政策叢書」編集委員会編
『社会政策研究の方法と領域』

高田 一夫




1 はじめに

 本書は,1990年10月11,12日に北海道大学で行われた社会政策学会第81回研究大会でなされた報告に,主催校の責任者である荒又重雄北大教授の論文を加えて成ったものである。ただし,研究大会の報告者のうちで,小池和男氏(論題は「労働調査の方法と課題」)と三浦文夫氏(同「社会福祉制度の理論的背景」)は執筆に参加せず,前者のテーマは道又健治郎氏が,後者は浜岡政好氏が代わって執筆している。以下に各著者と論題を掲げる。
 第1部
 I 社会政策学の対象と研究方法の多元性  (荒又重雄)
 II ドイツ社会政策思想史の視野転換への試論(大陽寺順一)
 III 社会史的社会政策研究とは何か     (松村高夫)

 第2部
 IV 権利としての社会法の生成・展望と社会政策(佐藤進)
 V 社会政策の機能的研究と労働経済学   (梅谷俊一郎)
 VI 労使関係研究と労働社会学       (河西宏祐)
 第3部
 VII 労働調査の展開と研究課題       (道又健治郎)
 VIII 「社会福祉改革の理論的課題」をめぐって(浜岡政好)
 IX 《賃金》の一般理論のために      (中西洋)

 2 問題の拡散と共通項

 一見して分かるように,たいへん多様なテーマが論じられている。厳密に言えば,社会政策とは直接に関係しない労務管理や労働市場論も論じられている。ここで手短かな論評を満遍なく行うのはほとんど不可能である。そこで乱暴との謗りは覚悟して,評者の設定する視角から大胆に整理させていただく。
 この点に関して手掛かりとなるのは,冒頭の荒又論文である。この論文は,社会政策学会の出発点から多様なアプローチがあった,と指摘する。しかし,その中で共通項と言えるものがあるという。それは,「社会政策の比較制度史的分析視角」である。言いかえると,「一面では社会政策をその発生消滅の歴史の中に措いてみることであり,他面では社会政策を国際比較の点からみること」であると(7〜8頁)。
 評者なりにこの概括を読みかえると,次のようになるのではないか。日本の社会政策学は,一面では「日本的」社会政策現象(これには労働市場や労使関係まで含めておこう)の「発生消滅」を分析し,他面では欧米を評価基準とした日本の現実に対する批判活動にいそしんで来た,と。言いかえると,社会政策学会は欧米の社会政策または労働慣行,社会保障を研究し,それを規範として受け入れ,それに合わない「日本的」現象を発見して,その誤りを指摘し,その消滅を希求してきた,といえば些か言い過ぎになるかも知れない。

 3 日本の社会政策学の転換点

 ともかく,「日本的」社会政策現象の研究では,古くは「賃労働の封建性」論から企業別組合論,年功制論,日本的経営論,日本的熟練論など,論議が重ねられてきた。言うまでもなく,この背後にはイギリスの労働運動やアメリカの経営,人材育成などの知見が控えており,そこからの偏差として「日本的」なものを探知したのである。この意味で,荒又氏が「社会政策の比較制度史的分析視角」といったのは正しい。
 荒又氏はこれに続いて,「しかし,その先は多様である」と述べている(8頁)。現在ではそうである。しかし,60年代までは資本主義か社会主義かの体制選択では知識人の意見が分かれたが,「日本的」社会政策現象の後進性に関してはほとんど意見は一致していたと思われる。たとえば,1968年に初版の出た白井泰四郎氏の『企業別組合』をみれば,当時の企業別組合に対する低い評価がよく分かるのである。
 こうした状況が変化したのは,石油ショックを過ぎて日本経済の安定性が証明され,他方でイギリスやアメリカの労働運動が経済悪化に直面して行き詰まった辺りからであった。対決的労働運動を標榜していた欧米の労働組合が不況の中で行き詰まったのは,そもそも対決的労働運動が強い産業を前提にしていたからである。強い産業が国際競争の中で衰退したときに,対決的労働運動は為す術がなかったのである(高田一夫「労働運動の『政治的』理論」『一橋論叢』104巻第2号,1990年8月,参照)。
 一方,社会保障の水準も向上した。長らく低水準にあった公的年金も,80年代に入ると所得の置換率でみて国際水準に並び始めた。時あたかも,人口の高齢化が本格的に注目されはじめ,老人介護など高齢者の福祉問題が注目されるようになった。一般的な貧困の問題ではなく,特殊な集団(この場合は老人)が重要な政策対象として登場したことは日本の社会政策史上,大きな転機と言えるのではないだろうか。
 所得水準でみても,賃金水準でみても,このころには日本の労働者は少なくとも名目の数値では既に貧しいとはいえなくなっていた。

 4 集合主義から個人主義へ

 日本がこのような状況を迎えていたとき,西欧では規制緩和と税制改革の新自由主義が台頭していた。レーガノミックスやサッチャリズムの利害損失はさておくとしても,最低保障と集団的自助の社会政策(これをダイシーは「集合主義」と呼んだものであった)から個人主義への政策転換は特筆すべきではなかろうか。
 92年春の社会政策学会の塩田咲子氏の報告にもよく示されていたように,女性の権利の保障は社会保障の単位を家計から個人へと移しつつある(この動きは日本では鈍い)。雇用における男女平等は,団体交渉よりも法律で達成されつつある。
 さらに「社会主義の崩壊」によって思想としての集合主義が魅力を失っている。公的な規制あるいは国家の介入は市民生活には必ずしもよいことばかりではない,という反省は伝統的な集合主義的社会政策への風当たりを強くしている(公的年金の再配分システムヘの批判をみよ)。同し発想に立つ労働組合も常に批判の矢面に立たされている。

 5 何のための展望か?

 以上のような社会政策学現象の変転からみると,本書は過去の視点に立った概括だという感想は否めない。
 もちろん,それぞれ力作が収められてはいる。大陽寺順一氏は,大河内氏の『ドイツ社会政策思想史』の欠陥を精緻に追求している。松村高夫氏は自身も参加されているイギリス社会史研究の最新の成果を簡潔に要約している。梅谷俊一郎氏は労働経済学のいくつかのトピックを紹介して有益である。しかし,これらは高度に専門的,実証的な研究であり,水準は高いが社会政策学現象の変転という私の設定したテーマにはあまり関連しないものである。
 一方,佐藤進,道又健治郎両氏の論考は,論文の水準は別として,これまでの研究姿勢を守ったものである。これも私の設定した枠組みには収まらない。
 こんなに枠組みからはずれた論文が続出しては,そもそも私の枠組み自体が疑われてしまう。さもあらばあれ。残る論文のうち,浜岡氏の集団主義の観点からする社会福祉改革批判の主張は上の枠組みにぴったりだ。しかし,浜岡氏の主張はよく理解しにくいところがある。三浦文夫氏の「福祉改革論」を批判する3つの論点を挙げているのだが,第1点は「権利としての福祉」論の,むしろ自己批判に終始している(191〜4頁)。
 第2点は,「貨幣的ニード」が減少したとの三浦氏の主張を批判しているが(194〜7頁),その政策的な含意がよく分からない。だから,どういう政策を立てよというのだろうか。第3点は,民活論批判であるが,福祉「公的責任」論を繰り返すだけでは新味がない(197〜200頁)。筆者の個人的体験でも,民活の方がずっと利用しやすい例を幾つも知っている。これは既に理念の問題ではない。実践の形態の問題である。国民保健システムでも,医師や看護婦は政府の職員ではないのである。また,政府が費用を負担すれば,すべてうまく行くわけでもない。全体としての費用は課税などを通じて結局国民に還ってくるのである。もっと精緻な議論を展開してもらわないと折角のテーマが生きてこない。
 以上の論文はいずれも,社会政策学の変転と切り結ばないのである。

 6 支配のない社会は可能か?

 残るはわずか2論文のみである。河西氏は労使関係における支配・従属を論じている。同氏は「労働者は労務管理から脱出する可能性を有する存在である」とし,「この意味において,労働社会学においては,〈支配・受容・変革〉の相互関係の研究が必然的な課題となる」と主題を設定する(135頁)。そして諸家の業績をレヴューして,能力主義競争に打ち勝つグループが集団主義を支えていくという「暫定的結論」を見出している(151〜2頁)。
 私は労働者を「労務管理から脱出する」存在とは考えない。「労務管理は永遠に不滅です」と言いたい。組織がある限り,管理はなくならない。そして,組織がなくなることは理論的にはあり得るが,現実的な可能性はゼロに近いと思う。
 問題は,労務管理をなくすことではない。いかによりよい労務管理を実現するかである。そもそも我々教師は学生を管理し続けていて,止めようと思ったことなどないではないか。いや,教育は労務管理と違う,と言われるかも知れぬ。よろしい,その違いは目的にしか求められないだろう。すなわち,教育は人格・能力の発展を目指すのに対して,労務管理は利潤追求のためだ。
 しかし,利潤追求を目指すものが必ず悪で,教育が必ず善だとどうして言えるのだろうか。我々は既に善意で出発した社会主義の無惨な結末を見た。また逆に,「お客様は神様」だという信念を素朴すぎると一蹴もできない。これを貫徹するには,その持つ意味を考え抜き,システムを作り,従業員を訓練していかねばならないのである。商人イデオロギーの近視眼を批判することはたやすいが,これの人生に対して持つ意味を軽んじては松下電器やイトーヨーカドーのパワーを理解できない。
 労務管理の一環である企業内教育もやはり教育に違いはなく,そこには人格の陶冶もないわけではない。事実,労務管理は徐々にではあるが,育成主義・自由主義に傾きつつある。評者はこの傾向を「人事管理の学校教育化」と呼んでいる。
 これは実は大変な「社会変革」なのである(154頁の元島氏の断言への批判である)。上にも述べたように,我々は管理から抜け出すことはたいへん難しい。それは,組織には単一の意思決定がつきものだからだ。そうでないと,効率性の要求を満たせない(この逆の例は教授会でさんざん経験している)。こうした機能的要請に基づいて「支配」現象が出てくる。評者はこれを「機能的支配」と呼んでいる。人事管理の学校教育化が完成すると,「支配」の著しく少ない社会が出現するはずだ。繰り返すが,これは大変な「社会変革」なのである。
 このような人事管理の要件は,育成主義,公開主義,選択主義であるが,一言で言えば,個人の尊重に尽きるであろう。人間は自分で納得した目標に向かっているときには,「苛酷な」条件に耐えることができる。個人主義が強まる中で企業へのコミットメントを確保するためには,人事管理の公開性を強め,選択肢を明らかにして個人の納得性を高めていく必要がある。これに育成主義が加わると,学校教育の理念とあまり変わらない体制ができてしまうだろう(この点については差し当たり,拙稿「『圧力鍋』に閉じこめられた団塊課長の自己像」『週刊ダイヤモンド』1992年6月6日参照)。

 7 個人主義の時代?

 個人の重視という点では,中西氏のユニークな賃金論にも同じ主張が見られる。中西氏は,さまざまな源流を持っていた賃金が,現代になって一元化され,「人間を差別し対立させる時代がようやく終わって,すべての人間が〈自立して自由で対等な働く個人〉として相互に認め合う社会が生まれはじめている」と説く(208頁)。
 これを夢物語だと笑うことは簡単である。しかし,賃金の歴史を跡づけた上でのこの立言には,評者はいささか感動した。しかし,社会政策学としては,ここから一歩進めてそのような方向を促進するための方策を考えなければいけないだろう。女性の自立のための諸政策はこの努力の重要な一部であり,また指針ともなろう。
 かつて本誌のこの欄で,評者は西村豁通氏の社会政策=自助補完論を批判したことがあった(書評 西村豁通著『現代社会政策の基本問題』)。考え自体は変わらないが,以上の眼で西村説を眺めれば,また,別の味わいも出てくる説である,と認識を新たにした。西村氏の名誉のためにも,この場を借りて一言申し添えたい。
 たとえ夢物語であるにせよ,これはよい夢ではなかろうか。また実際,そうした萌芽は労務管理を脱出する労働者の場合とは異なり,現実に確認できる。社会保障の家計単位方式から個人単位方式への移行,人事管理の「学校化」(評者は機能主義人事管理と名付けている),社会意識の個人主義化,等々。その前進のために私も研究を続けようと思う。<





社会政策学会叢書第15集,啓文社,1991年,290頁,定価4900円

たかだ・かずお 一橋大学社会学部教授

『大原社会問題研究所雑誌』第409号(1992年12月)




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