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『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版



青井和夫・高橋徹・庄司興吉編
『福祉社会の家族と共同意識 ――21世紀の市民社会と共同性:実践への指針

評者:田渕六郎

 「福祉社会」という言葉は人口に膾炙しているが,その言葉を定義しようとすると困惑にとらわれる。その言葉に付与される意味を考えてみても,「日本型福祉社会論」以来の多様な言説との関連で,否定的なイメージで捉える向きも多いことだろう。

 これは,福祉社会という言葉の曖昧さと関係している。福祉社会に関連する社会現象とは何かと考えてみたとき,現代先進社会に生じているほとんどあらゆる現象がそこに含まれるのではないかとも思われる。じっさい,今年(1999年)刊行された『福祉社会事典』(弘文堂)は,「生命」「生活」「生涯」「現代社会」という大分類を採用しており,取り上げられている個々の項目を見ても,福祉社会という言葉が指し示す領域が実に広範囲にわたることを例証している。

 しかしながら,福祉社会という用語が学的に用いられる文脈では,「福祉国家」のあり方が見直されるなかで,福祉国家が部分的に解決を図ろうとしてきた現代的問題群に直面して,いかにしてこれからの市民社会を構想・形成していくかということが論点となっているということは,最低限指摘できるだろう。

 本書は,その福祉社会という概念をキーワードとして編まれた社会学の研究書である。この概念の捉えどころのなさに対応するように,福祉,家族,ストレス,癒し,差別,共同意識というように,扱われるトピックも多岐にわたっているが,一冊の書物としてのまとまりが存在しないわけではない。編者の一人である庄司は,序章において,各章の要約を行いながら,福祉社会にかかわる様々な社会現象の分析は「ポストブルジョア的現代市民社会」をいかに構築していくかという問題を考えざるを得ない,としており,こうした視座が本書の通奏低音であると見ることができる。なお,本書は,同じ編者たちを中心として行われた共同研究の成果として刊行された二冊のうちの一冊である(もう一冊は,同編『現代市民社会とアイデンティティ : 理論と展望』松戸 : 梓出版社, 1998年)。

 本書は四部構成をとっているが,狭義の「福祉」を扱っているのは第1部である。全ての論考を評する紙幅を欠くため,以下,各章の内容を簡潔にまとめ,幾つかの章に限定して論評したい。

 本書の主題の中心に位置する福祉社会について直接に論じる第1部「福祉社会の基礎」には2つの章があてられている。第1章において,渡邊益男は,資本主義経済下において福祉社会を可能にする論理とは何かという問題設定のもとに,モース,ニーチェなどの贈与に関する諸学説を検討することを通じて,福祉社会を構成する論理的基盤として,互酬性を前提としない「負い目を負わせることのない贈与」に依拠した福祉の実践が必要である,という主張を展開している。続く章「福祉社会の論理」(三重野卓)は,成熟化した社会において「生活の質」への関心が高まってきたという事実を踏まえ,福祉社会論は,個々人の自由の確保と社会的価値とのバランスの上に築かれる「共生」という考え方を導入することを通じて,再構成されうると論じる。

 渡邊の議論は,カール・ポラニーらの議論を嚆矢とする,「福祉的」な資源再分配の機制という古典的な主題を扱っており,その意味で目新しさは欠くけれども,互酬性に回収されない贈与のあり方が福祉社会の基礎となりうるのだという議論は注目に値する。だが,例えば家族内における資源移転を「無私の贈与」と規定してよいのかなど,細部には疑問が残るし,こうした論理的可能性を現実化していくには何が必要なのかについて,詰めた議論を聞きたいと思う。次に,外国人の市民権保障などが現実問題になっている昨今において,三重野の議論は,福祉社会における多様な主体の共存の方向を考える上でアクチュアルな意義を持つと考える。ただ,例えば三重野の提示する「自由度」概念は,「ケイパビリティと自由」に関するセンの議論と大きく重なるが,そうした点も含めて既存の関連研究との異同をもう少し詳しく展開されたほうが読者の理解に資すると考えた。

 続く第2部(「家族の意味と役割およびボランティア」)は,家族に関連する4つの章と,ボランティア活動を論じる1つの章を含んでいる。まず犬塚協太は,自由民権思想の家族論が有する今日的意義は何かという問いについて,植木枝盛らの家族論の学説史的検討を試みている。それによれば,彼らの家族論には時代的限界も見られるとはいえ,家族や女性の現状を批判的に捉える彼らの社会学的視座は,今日の家族論に通じる意義を持つという。続く「日本市民社会と家族意識」(本間康平)は,5種類の中学公民教科書に現れる「家族生活」に関する記述を分析して,これら教科書で「家族」は,憲法や民法と不可分に結び付けられ,夫婦を中心とした人間関係として記述されており,それはあたかも「「生殖家族」制度の制度化」とも呼びうるものだと論じる。

 これら論考が主として「言説」としての家族を扱っているのに対して,続く2つの章は,より家族の「実践」に即した議論を展開する。天木志保美は,とりわけ日本では外部からのサポート導入に対して家族の抵抗が存在するという論点に対して,「家族の境界」という視点から接近しており,アランやリトウォクらの議論に触れながら,日本のインフォーマルな人間関係や家庭内の夫婦関係の特質が,他人が家庭に入ることを拒ませるのではないかと示唆する。続く「福祉社会の家族と高齢者介護」(直井道子)は,今日きわめて重要な政策的論点となっている高齢者介護を家族との関連で論じる。直井は,「在宅介護率」という指標を設定し,全国レベルの統計でそれが低下してきたことを示すとともに,直井らが実施した質的調査の紹介を通じて,実際の介護者決定や家族介護の中止は複雑な過程をたどること,介護者が介護役割を取得する動機が変容していることなどを指摘している。

 第2部の最終章は安立清史がボランティアとNPO活動を扱う。彼の実施した日米比較調査の結果によれば,日米のボランティアは,その属性や活動実態,参加動機などにおいて違いが見られるが,筆者は,そのような違いが,日米の組織構造,消費者・利用者の意向への敏感さ,ボランティア活動への社会的評価,公的な財政支援といった要因の違いによってよく説明されるだろうという仮説を提示し,ボランティアが市民社会の一翼を担うというアメリカ型の市民社会形成から日本が学ぶものは大きいと主張する。

 直井の議論に関しては,特に介護者の動機の分析に関して,今後の研究に対して与える示唆は非常に大きいだろう。少子化や晩婚化といった人口学的変化のもとで,マクロの在宅介護率や,介護者としての子どもが採用する介護動機は今後どのように変化していくのかなどについて,実証的な研究が必要になるだろう。安立の論考は,貴重な実証研究に基づいており,特定非営利活動法も施行された現在,日本社会におけるボランティア活動の未来を見定める上で,大きな手がかりを示していると見られる。ただし,議論の前提にかかわる論点として,今後の福祉サービス供給の担い手のなかでボランティアがどのような位置を占めることが妥当なのかについては,比較社会論とは異なる次元での考察が必要だと思われる。

 第3部「市民社会のストレスと癒し」,第4部「差別の自覚化と共同意識」は,福祉社会論というよりは「現代社会論」としての色彩が強く,主題も多様であるため,便宜的にまとめて論じることにしたい。石川准(「市民社会の電子化とアイデンティティ」)は,パソコン通信会議室への書き込みを事例として,コンピュータを駆使することは一部の階層の存在証明の戦略になりうるが,それは使いこなせる人の中での序列化を通じた更なる差別化を随伴していると指摘する。更に,障害者の社会的適応を高めるための技術について,それはろう者の場合に見るように,障害者としてのアイデンティティに両義的な影響を及ぼしうると述べている。続く章で,宗像恒次は,現代社会で顕著になったストレス病について,タイプAや,日本人の8割に見られるという「イイコ型行動特性」はストレス病の原因になっていると指摘しつつ,「ポスト工業社会」に必要な「人に共感的で創造的な自己表現ができるストレス耐性のある人材」を生み出すためには,病気や不安を個人の自己成長に変えていくような保健医療文化が必要だと主張する。続く「現代市民社会における病と癒し」(平山満紀)は,現代社会では,マイノリティや弱者のリアリティの顕在化,個人のリアリティの顕在化,これまで無意識に属した事柄の意識化,という3つの位相において社会的リアリティの大きな変動が生じたことを背景として,心的外傷などを抱えた個人が自己を語るなかで肯定的なアイデンティティを再構成していくという癒しのあり方が重要になっているが,既存の社会学理論はこうした現実を十分に分析することができないと論じている。

 第4部は,前半の「差別」に関連する二つの章と,「共同意識」をめぐる二つの章により構成される。まず三浦耕吉郎は,被差別部落調査での経験を素材にして,聞き取りの現場において「何が」語られるかよりも「どのように」語られたかに着目することで,「語られないこと」について感受性を研ぎ澄ますことが必要だということを説得的に論じており,エスノグラフィーの実践に対して示唆を与えるところが大きい。続く章(好井裕明)も同じ「差別」を主題とするが,差別をいかにして社会学的に研究しうるかという論点を提起する。科学的外観を呈する差別研究があたかも「客観的」であるかのように行われていることを批判しつつ,差別する側とされる側という区分を前提することなしに,差別が「非対称性」として具体的に現前する場において「いかにして」非対称性が編成されていくかを,「エスノメソドロジー的無関心」に依拠して記述を行っていくことが,「詳細なる日常生活批判というプラクティス」を可能にする方途であろうと好井は論じる。

 後半は「共同意識」に関連する二つの章が続く。沼田健也は,現在もなお多くの読者をひきつける宮沢賢治の作品について,彼の実践活動も考察対象にしながら,ウェーバーの概念装置などを援用して,宮沢賢治における宗教と科学の意味について分析している。終章では,青井和夫が,オウム真理教の「教祖」がたどったライフコースを主たる題材にして,随筆風にではあるが,人間の邪悪性という重厚な主題を考究している。

 本書全体に対しては,「福祉社会」に関連する重要な他の論点を扱っていない,全体としての統一的イメージを持ちにくい,などの印象もないわけではない。例えば今日,福祉社会のなかで「生命の質」についての議論が深まるのと併行して,脳死・安楽死や出生前診断などに絡んで,どのような生命が生きるに値するのかという「優生学」的な判断を下す言説が生まれているなど,福祉社会において生じている社会学的問題は,本論集が扱っている話題の総和以上に重層的であり,多くの課題を投げかけている。

 だが,このような課題は,むしろこれからの研究者が背負っていくべきものと考えるべきなのだろう。社会学者,社会福祉学者に限らず,福祉社会や現代社会論に関心を持つ他分野の研究者にとっても,本書は多くの示唆と刺激を与えると確信している。


青井和夫・高橋徹・庄司興吉編『福祉社会の家族と共同意識』松戸:梓出版,1998年,312頁,定価3,200円

たぶち・ろくろう 名古屋大学文学部

『大原社会問題研究所雑誌』第490号(1999年9月)


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