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『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版




社会政策学会編
『現代の女性労働と社会政策』




評者:下山 房雄



 1992年5月に昭和女子大学で行われた社会政策学会84回大会―評者の私は学会員であるが事情あって欠席――の共通論題(本書タイトル)報告を中心に社会政策学会年報編集委員会(委員長―高島道枝)によって編まれた書物である。その中心部分の論文タイトルと筆者は以下のとおり―
1 日本における「労働問題」研究と女性
 ――社会政策学会の軌跡を手がかりとして――      大沢真理
2 現代フェミニズムと労働論の再編成
 ――税・社会保障をとおしての家事労働の経済的価値―― 塩田咲子
3 職場類型からみた日本企業の女性活用         脇坂 明
4 男女の賃金格差と「同一価値労働同一賃金」運動    高島道枝
5 社会の高齢化と女性労働               荒又重雄
6 総括 現代の女性労働と社会政策
 ――論点のサーベイ――                竹中恵美子
 竹中恵美子以外は共通論題報告者であり,竹中は当日の座長である。
 学会大会当日は別に三つのテーマのある分科会―その一つは現代フェミニズムと社会政策―と三つの自由論題の分科会が設けられ,計19本の報告が行われたが,そこから3本の報告が本書に掲載されている。うち2本は女性労働に係わる(労働組合女性役員の国際比較 藤村博之,農家女性労働の現段階―直系家族制農業の変貌と農外就労―吉田義明)。
 書評8本も掲載されているが,うち2本は女性労働関連の書物を取り上げている(『欧米女性のライフサイクルとパートタイム』『イギリス女性運動史―フェミニズムと女性労働運動の結合』)。そんなわけで,学会記事,会員業績一覧を含め全303頁のうち約6割が女性労働問題にあてられた書物である。
 日本資本主義史上,男子「職工」が女子「職工」の数を越えるのは第二次大戦への準戦体制においてであった。その意味で戦前昭和史は男子労働者化の時代であった。戦中から戦後にかけて,労働者の女性化と男性化の交代を経た後,高度成長期以降なお今日も続く女性労働力化の時代となった。資本の文明化作用の一つの形態といえるが,技術革新に伴う機械化の進展とサービス経済化という形で進む分業の進化が筋力不要の労働分野を拡大する需要要因と,耐久消費財導入の「消費革命」,教育・住宅費用の膨張などの必要への男性賃金の不充足つまり「貧困」という供給要因に規定されて女性の賃金労働者化の大勢が進行した。当然,女性自立意識の実現のチャンスも増え,そのことが自立意識を強化もした。いまや専業主婦は少数派になった。こうした女性労働の社会化は,あらゆる資本の文明化作用がそうであるように,様々な矛盾を内包しつつ進んでおり,同時にその矛盾を解決しようとする主体,つまり男女平等思想を労働と消費の両生活過程で実現しようとする人々とその人々が依拠する思想―その有力な―つが近代家族に持ち込まれた家父長制に着目する現代フェミニズムであろう―をも生んでいる。
 本書およびその基盤となった社会政策学会大会はこのような時代および思想状況の一反映とみなせる。本書評がこの書物全体についてではなくて,女性労働問題に関わって書かれようとするのもそのような観点からである。
 といっても,竹中論文において,共通論題5報告の要約のうえで,二つの争点の紹介―1)女性労働研究の特殊理論は成立するか 2)社会政策モデルは家族単位か個人単位か―などの総括が既になされており,かつ私は大筋その運びに賛成なので,どういう書評を書いたらよいのか,戸惑う。そこで,書評というよりも,本書から離れはしないが付きもせずに,女性労働問題にかかわるいくつかの論点を提起するという勝手なコメントで書評に代えたい。

 第一に,家父長制の根拠に関わることである。本書にそうした叙述はどこにもないので,現代フェミニズムでは言われてないことのようなのだが,私は男性優位社会の重要な基盤は,筋力が社会的活動において優位を占める生産力水準と考えている。支配階級のトップ=君主の行為たる生殖行為(マルクス『聖家族』)は,男性に限るということにはならない。しかし,その家臣団は戦闘行為を行い,女性の将兵も充分に有用である電子戦争段階の今日以前においては,筋力が戦闘行為に決定的意味を持っていた。生産労働に従事する被支配階級=庶民の側についていえば,やはり機械化以前は筋力が労働の重要なモメントであった。その限りで男性が「えらい」ということになる。
 日本の技術論研究の教えるところによれば,人間労働には動力的側面と統御的側面とがある。前者にとって筋力は決定的であり,労働の主要なモメントが動力であるかぎりで,男性優位の関係が生成せざるを得ない。しかし,動力的モメントは男性筋力から畜力・水力・風力などに移されていく。つまり男がえらいのは,牛馬や象がえらいのと同じである。マルクスの言うように機械は「筋力を不要ならしめるかぎりで」女性労働を社会的労働に登場させ,家父長制の基盤を掘り崩すのである。現代的労働は,生体としての人間を破壊してしまうほど筋力を使わない傾向を一層強めており,筋力に裏付けられた男性優位の関係の基盤はますます喪失していると言わねばならない。男女平等思想実現の物的基盤はこの意味ではすでに整っている。

 第二は,家族賃金が労働力価値分割を経て個人賃金に転化する論理についてである。竹中論文によると,大沢報告では家族賃金が「単なる」―実在しないとの意味に解される―イデオロギーとの見解が提示されたと述べられている(120頁)。しかし,本書の大沢論文ではそのような表現は消えており,マルクス=氏原の賃金論に関わって,家族賃金が「一般」的存在ではなく「特殊」的存在であり,それを一般とみなしたマルクス=氏原は間違いとの叙述になっている(18頁)。
 私はマルクスも氏原も,労働力価値分割との関連で家事労働の問題を意識していたと考えるし―マルクスでは家事の粗放化・合理化の「貧困」化方向が強調され,氏原では家事労働の商品化による家庭内労働の軽減という「文明」化が強調されるとの違いがあるが―,また両者ともに性別分業にもとづく妻扶養型の家族賃金が資本主義一般の存在とはみてはいなかったのは自明とも思っている。
 家族賃金も個人賃金もそれぞれ特殊なのである。いま肝要なのは,家族賃金がどの程度にどういう条件で存在していたか,あるいは現在存在しているかを確認することではないか。この点で興味を引くのは,高島論文が紹介するイギリスの史実である。ここでは,家族賃金は「神話」であり「成人男子の賃金は19世紀,20世紀初期には決して事実において家族賃金ではない」(64,66頁)と明確に言われている。家族賃金は,イギリス19世紀の熟練工と日本の年功賃金下の男子本工・職員層と常識的に考えてきた私には新鮮な事実提起であった。もっとも「専業主婦,子供三人の標準世帯で男子一人の賃金で生活していたのは熟練労働者の5.6%」といった形で示されているデータは,1911年のものなので,19世紀のクラフト・ユニオン全盛時代はやはり家族賃金だったのではとの常識的疑念は残るのであるが―。
 いずれにせよ家族賃金が歴史経過的存在であることは,価値分割が必然であるかぎりで当然なのだが,ここではむしろ資本主義の初期に家族賃金ではなかったことを記しておく。戦前日本資本主義の基盤の一つたる「インド゙以下的低賃金」(山田盛太郎)は,紡績女子労働者の賃金であり,それは全く家族賃金ではなかった。
 また,古典派やマルクスの家族賃金論においては,妻は子供と違って扶養される存在ではないか,少なくとも不明確な存在である。大沢論文では「家族の構成について氏原はふみこまない。ただ生活保障費用が子弟子女の扶養と教育の費用をも含まねばならないと述べるのみである」と批判されているが,実はこの氏原命題はマルクスの労働力価値一般規定―「労働力の生産に必要な生活手段の総額は,補充人員すなわち労働者の子供たちの生活諸手段を含む」『資本論 1巻4章』―をなぞったものに他ならない。このマルクス命題は,妻の扶養費用は含まない方向で明確と読むべきだろう。つまり労働力価値分割の前後いずれにも適用できる一般命題部分が書かれていると解される。
 リカードの場合はたしかに不明確である。「労働の自然価格は,労働者およびその家族を養う為に要せらるる食物,必需品及び便宜品の価格によって定まる」(『原理』5章)と言われる場合の家族は,マルクスの言うように「子供たち」だけなのか,あるいは今日の日本の労働者教育の場で教えられる形の労働力価値概念に対応する家族=「労働者本人ばかりでなく,妻や子供もふくめた家族」(『90年勤通大労組コース教科書』52頁)のことなのか。スミス『国富論8章』の場合は,「最劣等の普通の労働の場合でも,夫婦二人の労働を合わせて,彼ら自身の生活を維持するに足るよりは何程か以上のものを儲け得なければならないことはたしか」との命題で,扶養さるべき家族はマルクス同様に子供のみである。もっとも,男女平等ではない。カンティロンの学説の引用という間接的方法であるが,「妻は子供たちを世話する必要があるため,その労働が漸く自分を養うに足る」つまり単身者賃金とされ,男子賃金の方で職工種族存続のために必要な4人の子供―成年に達するのはうち2人―の必要生活費を含む「彼自身の生活資料の2倍を儲けなければならない」と提示されているのである。
 中世の農民や手工業者がそうであるように,初期資本主義の労働者家族は,男女平等ではないが共働きであり,専業主婦型ではない。専業主婦型家族は,この意味でも経過的存在とみるべきだろう。つまり価値合体がまずあって,ついで価値分割があるということだ。

 第三の論点として「同一価値労働同一賃金」の問題をとりあげよう。現在,深刻な論争がアカデミーの世界ではなくて,実践運動の世界で行われている。それに有用な情報が高島論文にいくつか存在しているのである。
 周知のように,今世紀はじめからの労働運動のスローガン=男女同一労働同一賃金では,男女平等実現はごく狭い範囲・程度でしか実現できないということで,70年代以降の欧米女性運動は,雇用差別撤廃とあわせて女性職種の賃上げのための「同一価値労働同一賃金」要求を重視するようになった。日本においても,職能給型年功賃金のもとでの女性職種の賃上げにこの考えが使えるのではないかということで,いくつかの実践の試みが行われた。看護職の賃金表を一般行政職なみに引き上げるといった成果をあげる所もでてきた。
 ところが,そこに全労連系潮流の活動家に権威を持つ雑誌『労働運動』(93年4月号 米沢幸悦「女性の差別賃金是正のたたかい」,6月号 斉藤秀吉「職務評価=導入論の害悪」)が厳しい批判を放ったのである。マル経の理論からして「労働の価値」概念はナンセンスという原理論的批判と,団結破壊・差別合理化の職務給導入に途を開くという実践的批判がその内容である。この批判は強力で,コンパラブル・ワースを日本で活かそうとしていた女性運動家が「『労働運動』誌を読んで泣きました」といった風景まで生まれたようである(『女性労働問題研究 26号』45〜47頁)。さて,この論争との関連で,私には高島論文が紹介するイギリスにおける事実のうちで,次のことが注目された。
 (1)男女賃金格差の解消への有効策としての全国一律最賃制の実現可能性が,伝統的な業種別最賃制まで解体されてしまう現状で,展望がないこと,他方雇用差別の解消も遅々として進まないこと,そういう追い込まれた状況で労働審判所における同一価値労働同一賃金裁定に期待がかけられていること(69頁)。
 (2)1970年制定の同一賃金法では,同一価値労働は職務評価制度で同一価値と評価されたものと定義されたが,それでは大企業の一部女性労働者にしか適用できないので,85年の改正で「職務の労苦の観点からみた同一価値労働」を付加し,職務評価で同等と評価されなくともアピールする途を開いた(71〜72頁)。ただしこの新たなアピールの途の活用程度は,高島論文では紹介されていない。
 (3)84〜90年の間に「同一価値労働」で申立てられた件数490件中,受理されたのが105件,申立が認められたのが30件で「成功率は高いとはいえない」(73頁)。
 (4)労働審判所に訴訟をおこすよりも「当初から同一価値規定を利用して,団体交渉をした方が,短期で解決し,費用も少なく,影響力も大」(74頁)。ただし,高島論文では,審判所に訴えを起こしたがその「結果を待たずに団交で要求貫徹したもの」や,審判では負けたが団交で要求貫徹したものの紹介はあるが(前掲の105件のうちそれぞれ14件,3件),当初から団交でやったケースの事実や統計の紹介は無い。
 以上のうち(1)(3)は批判者に有利な情報,(2)は擁護者に有利な情報といえようか。また,日本の場合,同一価値労働規定が立法に無いので,最初から団交でやる以外にないのだが,組合が女性の要求を取り上げない会社派執行部である多数の場合に,それも現実性がないことになる。少数派運動の要求スローガンとしてどの程度に有効かという問題になるのだろう。
 私は男女賃金格差の解消と女性職域の確保・拡大こそが家父長=専業主婦型分業を消滅させるのであって,その条件が未成のかぎりで性別分業が「賢明な」ミクロの選択にならざるを得ない関連があると考えている。この論争が女権運動の前進に寄与する形で解決されていくことを熱望する所以である。

 最後に,男女機会均等法を契機にひろまり,女性運動家から新たな差別を生むものとの批判も強い「コース制」にかかわる論点を提起しておこう。この点について,私はかって次のように述べた。―
 「一定の勤続を重ねる中で,女子が事実上定型的な職能グループに分けられていく従来の制度に対し,採用時に(あるいは制度導入時に)明確に職能で区分されてしまう新制度はどちらが差別的か,評価に難しい点がある。新制度はかなりの程度,間接差別であるが,女性労働者が「総合職」にチャレンジし,その仕事に順当に従事できるような訓練を要求し,家庭生活破壊にならないような転勤配慮を要求するという可能性が開かれたことは一つの進歩ともいえよう。それぞれの場面での緊張・トラブルという心労は避けられないが,社会関係の発展が無矛盾的に進むことは無いのであれば,そこで闘ってこそ人権としての女権は育つ。」(蒼文社87年刊『市民生活と法』7章 男女雇用機会均等法と婦人労働の動向)
 大部分の女性運動家からみてとんでもない見解かもしれない。 60年代の職能給化に抗して電産型賃金つまり本雇い全員一本の生活給型年功賃金を残した例外的企業への「コース制」導入は,たしかに新たな差別導入である。しかし,大部分の企業では女性を低位に格づけする職能給は60年代にすでに導入ずみで,コース制=新差別論は,補助職・基幹職同等待遇要求つまり電産型賃金復活要求か,あるいは本雇い女性は全員補助職には就けないあるいは支援的仕事はしないとの要求になるのかと私は考え,支持し難いと思うのである。
 本書脇坂論文では,もともと男女分業型の男の仕事を「総合職」と呼んで,「ここにも女性を開放した」(51頁)との私と共通の認識が示されている。また,転勤の有無と基幹・補助の職務差異とは別の次元の問題であること,コース制では補助職から基幹職にOJTにより昇進する可能性を狭める矛盾のあることの指摘もある。賛成である。それに私は「普通の人々」=補助職あるいはサポート職のままでの賃率引き上げの重要性を付け加えたい。




御茶の水書房,1993年6月刊,vii+235+60頁,定価4,326円

しもやま・ふさお 九州大学経済学部教授

『大原社会問題研究所雑誌』第427号(1994年6月)



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