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間 宏 編著
『高度成長下の生活世界』

評者:下田平 裕身




 1970年代半ばの第一次石油危機から,80年代,90年代前半と,日本ばかりでなく,世界的な規模での経済社会構造の根底的な変化を経てきた現在,あの激動の高度成長時代は,はるか彼方の歴史時代として急速に遠ざかりつつあるような印象がある。 1サイクルも2サイクルも変化の時期を隔てた今の時点で,あの高度成長の時代とは何だったのかを問い直そうとする本書の問題意識は興味深い。なぜなら,本書の編著者である間宏教授が指摘されているように,高度成長によって生じた経済的社会的変動については,一定の分析,評価が共通認識として定着してきたのだが,改めて,今の時点で,高度成長の時代を問い直すべき新たな意味が生まれてきているからだ。
 それは,一つには,これまで高度成長期の社会変動は,もっぱらそれ以前の経済社会構造がいかに変化したかという視点で捉えられてきたことに関わる。こうした視点からの認識は,大量生産・大量消費に基礎をおく大衆消費社会の到来とそれがもたらしたさまざまな変動への着目に代表される。だが,私たちは,今,高度成長の終焉から始まる巨大な変化の時代に直面している。それは大衆消費社会が危機を迎えている時代と表現していいかもしれない。この変化の時代に立って,大衆消費社会の形成期を振り返れば,あの歴史的な時期の評価について,異なる視野が拓けてくるかもしれない。間教授も強調されているように,何よりも現在の変化とその方向を読みとるうえでの重要な鍵があの時代のうちに含まれているにちがいない。
 さらに,もう一つの問題は,これまでの高度成長期の社会変動の分析がかなり巨視的なレベルでの分析に傾斜してきたことに関わる。たしかに,「大衆社会化」というキーワードに象徴される社会変動の規模の巨大さとその性格を考える限り,こうした認識の傾向は当然のことであった。 しかし,今の時点から見れば,このような巨視的な社会変動のなかで,個々の生活主体はそれぞれの生活領域でどのように変化に対応し,また,自らどのように変化を遂げていたのか,という問題意識が浮かび上がってくる。なぜなら,80年代,90年代の激しい変化の中で,個々の生活主体は,以前よりもさらにむき出しの形で社会変動の波にさらされ,より孤立化し,今後の変化の方向性にとまどっているからだ。現在時点から高度成長時代を捉え直し,逆に,高度成長時代から現在の時代を捉え直すという本書の問題意識は,個々の生活主体の視座に立って,それぞれの労働と生活の領域で高度成長下の社会変動のただ中をどのように生きてきたかを改めて探り直そうとする方法と深くむすびついている。
 「あとがき」によると,本書は,経営史,労務管理史研究に大きな足跡を残された間宏教授の還暦を記念する意味をこめた共同研究の成果として刊行された。「高度成長下の生活世界」というテーマでの共同研究を基礎として,間教授を中心とする12人の研究者の論文が収録されている。ひと昔前と連って最近の還暦記念論文集のスタイルは,個別研究の論文を集めたものではなく,―つの共通テーマに基づく共同研究の形をとるものが多いようだ。にもかかわらず,「還暦記念」であることから,こうした刊行物を読む場合,やや斜視的な興味ながら,1人の大きな学問的影響力をもつ研究者が次の世代の研究者たちにどのような広がりと影響を与えているかという点でも面白い。現在の社会科学の風潮においては,もはや「学派」といった強い集合体は形成されない。しかし,多くの研究者を育てた先輩研究者の「学風」とでも表現するべき影響力の存在は否定できないし,また,社会科学の継承と再生産にとって,それはきわめて大事な要因であろう。
 この点で本書を読むと,この共同研究の參加者たちには,たしかに間教授から端を発する―つの「学風」が流れているのを感じとることができる。それは,社会に接近するうえで,大状況的議論や理論から出発するのではなく,事実が進行している現場における調査から出発する姿勢,とくに,現場で生活している主体の視座から社会を捉えようとする姿勢である。こうした姿勢は,「高度成長下の生活世界」という研究テーマにふさわしいし,逆に,こうした姿勢のゆえに,このような研究テーマが問題関心として浮かび上がり,設定されたといえよう。さらに,研究参加者たちの問題関心領域の広がりも注目される。本書では,間教授自身の執筆による高度成長期の総論的な把握と「科学技術の発達と生活意識の変化」という議論から始まって,「男性ホワイトカラー」「女性労働者」「労使協議制の定着と組合機能」「高度成長と兼業化」 「中小製造業の世界」「近隣型商店街」「家族」 「レジャー産業の展開と労働者の余暇」「教育問題の変容」「高度成長と開業医」などの多様な広がりをもつ「生活世界」(労働を含む広義の生活世界)が扱われている。このような問題関心の多彩な広がりも,また「学風」といえようか。
 興味深いのは,それぞれの執筆者によって,「高度成長期」をめぐる歴史感覚が徹妙に異なっている点である。これは,執筆者の属する世代の感覚の違いによるものでもあろうし,また,取り上げる領域の性格にもよるだろう。それは,一つには,先にも述べたことだが,「高度成長期」を分析するうえで,それ以前の時期との対比における新たな関係の形成に焦点を当てるか,むしろ高度成長期に現れた関係のそれ以後の変化ないし崩壊を強く意識しながら分析するかの違いである。例えば,間教授自身が執筆されている「男性ホワイトカラー」では,第2次大戦前の階層構造と対照させながら,「会社人間」の形成に焦点が当てられているし,「労使協議制の定着と組合機能」では,大企業の労使関係のある安定的な構造が高度成長期に形成されたことが強調されているが,「近隣型商店街」や「レジャー産業の展開と労働者の余暇」 「高度成長と開業医」その他の論文では,むしろ高度成長期に形成されてきた関係のその後の急速な解体が強く意識されている。もちろん,形成か崩壊かの二者択一的な問題意識に立つことを主張しているのではない。例えば,「女性労働者」のように,そのテーマから言って,高度成長期がいわば形成の起点であって,それ以後の時期に発展していく領域もあるし,「高度成長と兼業化」で分析されているように,「農民」としては解体していくが,成長後の時期にも「土地持ち労働者」として,したたかに生き延びていく主体もある。ただ,ここで言いたいのは,高度成長期における新たな関係の形成と,そこで形成されたもののそれ以後の変容ないし解体(すでに高度成長末期に始まっていた)の把握をさらに深めることが私たちの今後の課題であろうということである。
 この点で,本書の様々な分析はいくつもの重要なヒントをあたえている。その中でいくつかを取り上げるとすれば,一つは,高度成長期からの変容,ありしものの解体のなかで,私たちがこれから新たに築くべきものが示唆されているという提起である。とくに,「近隣型商店街」の分析における「生活者」の概念……トータルな「生活」の場から発想し,問題解決をはかろうとする人びと,生産と消費が常に自らを含む 「環境」内でなされるがゆえに,生産と消費に対する責任主体は自分自身であることに自覚的な人びと,大量生産・大量消費・大量廃棄型の生活スタイルに対抗的な生活態度をもつ人びと……の提起や「レジャー産業の展開と労働者の余暇」における指摘……レジャー産業による組織化が浸透していくなかにあっても,人々の生活の中に息づき,生活のなかに商品化されずに「埋め込まれている余暇」を存続させていく条件や環境を意識的に温存していくことがきわめて重要なことに思える……}こ注目しておきたい。このような視角から高度成長期を捉え直せば,これまでに見えてこなかったものがもっと浮かび上がってくるかもしれない。
 この文脈においてかなり気になるのは,本書の全体的な構成において,大企業のホワイトカラーや女性労働者,大企業の労使関係がく先進部門〉,農民や中小製造業,近隣商店などの領域が〈後進部門〉という位置づけをあたえられていることである。こうした〈先進〉〈後進〉の概念は,まさしく高度成長期ただ中に形成された発想であった。この分類が無意味であるというのではない。ただ,現在時点の問題意識からすれば,何が〈先進〉で何が〈後准)であったか,それ自身が問い直されることになるだろう。〈先進〉〈後進〉を単純に変化の速度の問題としても,本書の分析自身が明らかにしているように,いわゆる〈後進〉とされた領域でも変化は驚異的な速度で進んでいた。また,むしろ 〈後進〉とされた領域の中にこそ,現在の変化方向を考える上での多くの示唆が含まれているような気がする。高度成長期の〈先進〉〈後進〉の概念はもはや通用しないというばかりでなく,おそらく積極的に解体すべきであろう。あえて一歩を進めて言えぼ,本書のように現場の生活者の視座に立つ分析をたどればたどるほど,〈先進〉とされた領域こそは,生活者としての〈解体〉がもっとも加速的に進んだのではないかとさえ思えてくる。
 この論点は,本書の構成の中で中核的位置を占める〈男性ホワイトカラー〉の理論的な位置づけとも関連してくる。間教授は,高度成長とともに到来したライト・ミルズ的世界……大衆消費社会における典型的な人間像としてのく男性ホワイトカラー〉像をビビッドに描き出しておられる。それは,伝統的なブルーカラー像とホワイトカラー像,中小の商工業者像,農民像などの人間像の解体とともに形成されてくる大衆消費社会における理念型としての人間像である。だが,飽和に達した大衆消費社会が危機に直面している現在の視点から再評価すれば,この〈ホワイトカラー〉という人間像がいかに過渡的な,もろい理念型であったかが見えてくる気がする。この理念型は,高度成長期に出現すると同時にいわば変容・解体に向かっていたのではないか。
 この共同研究の参加者たちのように,個々の生活者とその営為に視座をおいて観察するとき,、巨視的な意味での大衆消費社会の理念型的な人間像の形成に参加していく側面と同時に,÷ハ(ほ興か(量甕か詞藻ぶ刄λ・ゞrペス+兪のなかで,この問題をもっとも餅明に提起している研究は,一つの家族の高度成長期の生活吏を追跡した「家族」の分析であろう。この分析は,大衆消費社会の進展という巨視的な状況と個別の生活主体との関わり方を意識的に描き出そうとしている点で興味深い。 この家族は,1950年代,60年代,70年代と大衆消費社会の深まりの影響を全面的に受けるなかで,自らの生活を組み立てていく。ここでは,働き方,住居とその様式,食生活,衣服のスタイル,電化製品を中心とする消費財の増加,子どもの教育など,労働と生活のさまざまな側面で,一つの家族が大衆消費社会に適応していく過程が描き出される。それは,高度成長とともにとめどもなく登場し続ける「モノ」への適応過程だった。しかし,この分析は,同時に「モノによっても変わらない側面」にも注目する。「モノ導入の選択を行うことによって,むしろ変化よりも持続が焦点化され,伝統がより単純化された側面があった」という。この論者の「変化以上に持続の側面を明らかにしていくことも,高度成長という変動期を考える際のポイントになると思われる」という指摘はきわめて示唆深い。
 大衆消費社会の社会的経済的圧力にもかかわらず,個別の生活主体において,く持続されるもの〉への着目は,次の時代の変化を考えるうえでの鍵となるような気がする。ただ,この 〈持続〉については,動態的な過程での概念として捉えておかねぼならない。それは,いうまでもな〈変容しながらの〈持続〉を意味するだろう。あるいは,〈個〉の外側にある社会経済環境に抗しながら,場合によれば,新しいものを創造することによって,初めて〈持続〉が可能になるのかもしれない。
 「家族」の分析で鮮明に提起されているこの 〈変容〉と〈持続〉への着目は,本書の他の分析においても,基礎的な問題意識として共通に流れているようだ。例えば,中小製造業の労働者の移動の基礎となる〈技能〉,兼業労働者のあフ方,近隣商圏における小商店と消費者の行動,労働者の余暇行動などにおいては,〈変容〉しながらの〈持続〉,そして,そこから生まれるかもしれない〈個〉の側からの大衆消費社会の変革の可能性の観察がポイントになっている。この共同研究の段階では,まだ,個別の生活領域の分析の間の連関が問われるまでには至っていない。さしあたっては研究参加者の個別の問題関心に沿った生活のさまざまな領域の分析が並列されているにすぎない。 しかしながら,ここに紹介したような底流にある基礎的な問題意識がそれぞれの生活領域の分析を拡散させずに,一定のまとまりをあたえている。今後の研究の進展において,個別の生活領域の連関がより論理的に整理されていくなら,これまでの認識とは異なった「高度成長下の生活世界」の全体像がより鮮明に浮かび上がってくるかもしれない。





文真堂,1994年4月刊,324頁,定価3,296円)

しもだいら・ひろみ 日本女子大学人間社会学部教授

『大原社会問題研究所雑誌』第439号(1995年6月)




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