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『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版



佐藤 香著
『フランスの労働運動─―暁闇のとき

長部 重康




 

 日本を含めて先進国ではいずこでも,1970年代半ばのオイルショック以降,労働運動の低迷がつづいて組合組織率が大きく低下した。そのうえ80年代末に社会主義の崩壊が始まり,労働運動のイデオロギー基盤も大きく揺らいでいる。
 この長く,先の見えない労働運動冬の時代にあって,もっとも厳しい試練を耐えているのがフランスであろう。かつて本誌が『ヨーロッパ労使関係の動向』(第420号,93年11月)を特集したとき,筆者は「フランスにおける労使関係の変貌と労働運動の危機,(1)〜(2)」を寄稿し,フランス労働運動の苦境を以下の3点にわたって指摘したことがある。
 すなわち第1に,組合組織率が8%程度に落ち込んでしまった。もともと活動家組合の性格を持ち少数精鋭で,先進国には異例といえるほど組織率が低いフランスだが,それでも70年代半ばには20数%をしるしていた。 20年後に3分の1に落ち込んだことになる。イギリスやイタリア,ドイツなどでは40%前後,日本では25%,低い組織率を心配されるアメリカでも15%程度と比べてフランスの異常な低さが光る。
 第2に戦闘性の低下である。年間総労働損失日をみると,76年の501万日が,91年には166万日に減少した。組織率と同様に3分の1以下になった。
 そして第3に,争議において,組合の統制が及ばなくなる「非組合化」がすすんだことである。下部労働者が自然発生的に形成する「調整委員会」の指導が増大している。

 危機的状況にあるフランス労働運動の現況を,歴史的発展を振り返りつつ,包括的にとらえようとしたのが本書である。構成は,以下のように,序章のほか8章より成っている。
 まず序章である。「労働運動はかつて,若者の情熱を賭けるに値する分野であった」が,「現在,われわれの前にみる労働組合運動は,まさに色褪せた存在」となった。著者はこの「労働運動の輝きの喪失」をもたらした原因のひとつが「若者たちをとらえつつある個人主義の傾向」にあると認めるが,それ以上に,われわれが「時代と時代の谷間」に置かれていることにより「いままでのやり方を踏襲するだけではもはや展望が開けない」からではないか,と問題を提起する。あらたな時代とは,ミッシェル・アルベールの『資本主義対資本主義』(原著は1991年発行)に依拠して,80年代以降本格化した国際競争激化の時代,「レッセフェールのみを善とする」時代である,とする。だが労働組合が「新しいプログラムに向けての共同の歩みを期待できる条件は,弱々しい」。
 それでは,なぜフランスの労働組合なのであろうか。これが第1章「労働組合の概要」の冒頭であきらかにされる。著者の個人的事情のほか,フランスの組合が「純粋培養的サンプル」に近いからだ,とする。そして仏労働組合の特質や5大全国センターの歴史を紹介する。
 第2章「複数組合主義形成の条件」では,他の先進国と比べていちじるしい,政治傾向ごとに全国センターが分裂した経緯を分析する。
 第3章「獲得の文化のフランス的特色」とは分かりにくい表現である。著者は,組合の獲得した成果が,その地道な要求活動の積み重ねによるより,大きな政治的騒乱の突発的,偶発的成果である,とする。人民戦線や戦後解放,68年5月,ミッテラン登場といったそれぞれの政治的騒乱期をふりかえり,組合が獲得した成果を検証する。
 第4章「獲得した権利とその問題点」では,労働協約をはじめ戦後の労使関係の制度的発展を跡づけ,その現状をあきらかにする。
 第5章「最近の運動にみられる特徴」では,先にふれた組合の統制を離れた「調整委員会」や「カテゴリックなスト」(職種ごとの特殊性を強調したストの意),「公務員闘争とその限界」,「弾力化」などのあらたな動きをさぐり,最後にFO,CFDT,CGTの主要組合の動向に触れる。
 第6章「指標などにみる組合の衰退減少」では,組合加盟者数の推移や各種職業選挙(従業員代表,企業委員会,労働審判所審判官)の傾向を明らかにして,組合の衰退を立証する。
 第7章「ある社会学者の診断」は,フランスで著名な社会学者,ピエール・ロザンヴァロン(著者はピエール=ローザンバロンと表記する)が1988年に著した『労働組合問題』の第1〜3章(全4章中)の論旨を要約・紹介するものである。労働問題の危機とは,経済状況の悪化,とくに失業や産業再編などを原因とするのではなく,「個人主義の登場と社会性の衰弱」による「組合機能の平俗化」という構造要因がもたらしたとする。
 第8章「新しい連帯の模索」が本書の結論であろう。「階級性とは,論じるに値しないほどに決着がついた」とのロザンヴァロンによる主張を,著者は「資本主義が利潤原理によって成り立つという基本的な欠陥を制御しえていない」ことを理由に退ける。そして勤労者は「連帯の感覚がよびさまされ,運動の効果があるとかんがえられるときは,組合のもとに結集する」として,そのためには彼らに対し「より高度の情報を豊富に提供し,……方向性を先取りする能力こそ重要」だ,と連帯の模索を訴える。

 フランス労働運動については,他の先進国とくらべて,日本語で書かれた研究書が乏しい。それゆえ本書が一定の寄与をなしうることは否定しない。だが正直にいって,読後感は暗い。書評を引き受けたことを後悔しているのだが厳しい批判を試みることもまた学問の発展にとって必要だ,と自分に言い聞かせて,批評させていただこう。
 最初に驚かされたのは,文献リストや引用の仕方の「独創性」である。文献リストでは,たとえばこうある。
 ・(ヴェルディエ,労働法の課題)=ジャン=モーリス=ヴェルディエ,フランス労働法における最近の発展と課題,日本労働協会雑誌No.360
 最初の括弧が著者による引用時の省略法であるが,これが各文献名の冒順に置かれているのは異様である。本文中では,この表記の後にすぐ数字を続け(p.なしに),指示ページをあらわしているが,通例の注記法では,姓のあとに出版年を入れ,p.205のように示す。フランス人の複合クリスチャンネームを表記するには,ジャン=モーリスのように慣例的に=をもちいることが可能だが,名前と姓との間に用いるのは誤りである。ピエール・ロザンヴァロンの如くにする。またなぜローザンバロンと音引きにしたのか,理解に苦しむ。
 論文名は「 」で,著書名や雑誌名は『 』で,それぞれはさむのが常識である。著者はこれを無視しているので,読みづらいことおびただしい。また著者は欧文の雑誌名を大文字で書き始めたり,小文字で書き始めたりとでたらめだが,当然大文字でなければならない。著者名の冠詞も同様である。しかも日本語での『 』と等価のイタリック表記にすべきである。これらを守らぬ著者の独りよがりに付き合ってくれる読者が,何人いるのだろうか。
 出版年は必ず付記せねばならない。著者に限らず日本では,これを無視する学者やジャーナリストが少なくないが,欧米では想像できない致命的な誤りといわねばならない。その作品が扱いえた時代がいつまでか,また視野に入れうる先行業績はどこまでか,を明示する不可欠な情報だからである。
 論文執筆上のこれらのルールを尊重することは,一見些細とおもわれようとも,知的活動を支える基本的かつ不可欠な要件である。筆者は,1年生の入門クラスやゼミの冒頭で,学生に口をすっぱくして教え込んでいる。それを守らなければ,論文は落第である。
 さて著者の文献リストをみてまた驚かされるのは,その少なさと恣意性とである。参照した著書は仏語で4〜5冊,邦語・翻訳では新書版や教科書,概説を中心に20冊ほどにすぎない。時論的な叙述は,もっぱら Liaisons Sociales に依拠しており,他のソースは乏しい。邦語論文では,たとえば冒頭にあげた筆者の論文をはじめ,専門誌として欠かせない本雑誌への言及は―切ない。
 フランスや英米での労働運動研究は,ポスト冷戦を踏まえて,新たな動きがみられる。著者がこれを無視している点は問わずとも,言葉の障害のない日本語で書かれた研究成果を参照するのは,当然の手続きであろう。たとえば革命的サンジカリズムについては喜安朗氏と谷川稔氏の,改良派とCFDT,最近の労働運動については筆者の,また組合運動については田中光雄氏の(ロザンヴァロンの『自主管理の時代』の共訳もある),労使関係については佐藤清,鈴木宏昌,田端博邦氏などのそれぞれの業績を学ぶのは,最低限の義務である。その他最近の文献リストは,たとえば筆者の先の論文によっても求められる。わが国では,イデオロギー過剰からか,しばしば先人の業績へ言及しないという悪しき伝統がある。だが著者のばあいは,こうした悪意からではなく,たんなる知的誠実さの少なさからのようである。
 それゆえ著作の内容は平板で総花的にとどまり,あらたな知見が加わったようにもおもえない。筆者も含めてフランス労働運動の専門家が,本格的な概論執筆を怠ってきたことにも,責任の一端はあろう。
 文章表現においては,生硬さや悪文が目立つ。副題である「暁闇のとき」もその一例だが,広辞苑をひくと「夜明け前の暗いとき」だそうだ。センチメンタルで独りよがりの表現ではなかろうか。
 とりわけロザンヴァロンの著書の要約である第7章では,著者の語学力不足が加わり,誤訳や意味不明な箇所の多さに悩まされる。いたしかたなく,何年か前に読んだ原著を探し出して,最初の50ページほどを著者の要約と照らし合わせる,という苦行を強いられた。確認できたことは,著者は「要約」を隠れ蓑に,原著のニュアンスに富んだいい回しやむづかしい箇所はすっとばし,逆にそれを原文にはないありきたりで感傷的な文章で埋めている事実である。要約のまずさや誤りには目をつぶり,最初の数ページに散見される,明確な誤訳や著しい不適訳に限って紹介しておこう。
 *「CGTは,織物工業に勢力をもっていた」(著書p.180)―「伝統的産業部門(産業の織物,つまり産業組織において,伝統的特徽をもつ鉄鋼,石炭,造船などの斜陽部門の意)の比重が大きい」(原著p.18)
 *「組合離れの重要性を説明しうる」(同)―「度合い,大きさ」(同)
 *「しかし,このような波動(組織率の――評者)は,1970年以来現れていない」(p.181)―「これ(政治的動揺と組織率の変動との結びつき)は,1970年代末以降すっかり消えてしまった」(p.19)
 *「労働者主義の起源的な閉鎖性」(同)――「組合設立時にあったある種の労働者主義ヘの閉じこもり」(p.20)
 *「いわゆる『recentrage』へ方向転換した……CFDTにして,もっとも強い痛手を受けている」(p.182)―「CFDTの例がもっとも注目を引く。『再中心化』(活動の中心を据えなおす)を目標にすえ,組織率低下を免れようと努めたにもかかわらず,他の組合と同様の痛手―よりひどい痛手ではなかったにせよ―を被ったからである」(p.22)
 *「この本の主題を,代表システムの歴史的形成とその崩壊,特に企業にみられる最近の新しい状況が特殊歴史的様式としての『労慟組合形式』を本質的に変化させていることにおくのである」(同)─「本書においては,それぞれの劇的社会(ギアツの「劇場国家」を踏まえているのであろうか)での集団利害を代表し社会問題を調整する,特定の歴史的様式である労働組合形式の変容を探求したい」(同)
 第1節の3ページ分を読んで,とくに目立つ難点をあげただけで以上の如くである。他に,*「組合の平俗化」(p.182)─「陳腐化」,*「加入から顧客へ」(p.184)─「組合員(組合の成員)から顧客(利用者)へ」(p.40),*「組合が目指してきた機能の外的分散化」(p.183)─「組合運動が有する社会的有用性の機能分化」(p.34),*「個人主義の登場と社会性の衰弱」(p.185)―「個人主義の台頭と社会問題の衰退」(p.45)などのような判じ物じみた表現が散見される。
 また*「人は,ただ一点からだけしか自己規定をするものでなく,多くのディメンションのなかに自己を置き,それぞれに一体化の関係を結び,それを拡大してゆく」(p.186)をよむと,なにやら深淵な哲学が語られているような気になる。原文は「ひとりの人間はただ労働条件によってのみ規定されるのではなく,自己をとりまく環境のなかで,多くの絆に結ばれている」(p.47)という当然の指摘がおこなわれたにすぎない。
 ロザンヴァロンは,緊密な文体と豊饒な表現とで定評がある。かれのポレミークな著書が,このように貶められて紹介されることには,かれと故ジャン・ブーヴィェ先生を共通の師と仰ぎ,かつてパリで親しく話を交わす機会をもった筆者としては,やりきれない思いである。著作権の点でも,問題は生じないのだろうか。
 最後の第8章で,著者はロザンヴァロンの悲観的な分析に疑問を投げかけ,労働運動の再生を訴えているが,ここでも論理的展開は希薄である。基底還元的に資本主義の利潤追求原理を糾弾するにとどまり,センチメンタルな言説に酔っているように思える。
 今日の労働運動はフランスにとどまらず,ロザンヴァロンの分析した社会の激しい構造変化に加えて,あらたにポスト冷戦による社会主義の崩壊,という激震に見舞われている。本書では,この前提の変化が十分自覚されているとは思えない。著書の出版年を無視したつけなのであろう。
 さて本書の著者は,長年労働省中央労働委員会に勤務したのち,1986〜91年に渡仏して労使関係の研究にあたった由である。専門著書を何冊か共著でまとめ,大学で非常勤講師をつとめているらしい。最近,官庁や企業で活躍された後,専門知識を生かして学界に転進される篤学の士が増えたのは喜ばしいことである。ただ学問を志すものとして,知的誠実さにいま一度こころして欲しい。論文執筆上の国際的ルールを守らずに自己流を振りかざしたり,先人の業績を渉猟する義務を怠りわずかな文献で書き飛ばしたり,また表現や文脈の推敲をないがしろにして読者を悩ますのは,願い下げにしてもらいたい。外国研究にあたっては,何よりしっかりとした語学力を身につけることが前提である。
 こうした点で,責められるのは著者ばかりではない。出版社や編集者は,社会的責任を自覚すべきである。最初の読者として,著者に疑問をぶつけ誤りを正す能力に欠けるものは,出版界から足を洗ってほしい。欠陥翻訳の横行に我慢できず,長年厳しい批判を展開してきた上智大学の別宮貞徳教授が,出版社の責任をも鋭く追及してきた事実を真剣に受け取るべきである。
 本書の出版元はまだできて新しいらしい。中央大学法学部の故木内宣彦教授の論文集を出していることを知ったが,かれは筆者の高校時代の尊敬すべき学友であった。書肆の今後の奮闘に期待したいが,あらためてフランス労働運動の概説書を企画して,責任を完うされてはいかがだろうか。 





新青出版,1995年,254ページ,定価2,678円)

おさべ・しげやす 法政大学経済学部教授

『大原社会問題研究所雑誌』第445号(1995年12月)




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