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『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版



上原章三・増岡敏和 編 『一燈を凝視めて』

赤木健介遺稿集編纂委員会 編 『赤木健介追悼集』

塚平広志・相波三郎著 『伊那谷を花咲く大地に
            ――農民解放の先駆者鷲見京一の歩んだ道



紹介者:大野 節子



(1)2人の共産党員と3冊の本

 三・一五事件につづいて労働農民党に解散命令が下った1928年から,既に65年の歳月が過ぎた。労働農民党の党員数は,27年末に1万5千人余と記録されている。その大半は各地の支部で活動した青年党員たちであろう。弾圧と戦争のなかでかれらの進んだ道は一つではなかったが,敗戦後も運動を担いつづけて生涯を全うしたものも少なくない。ここに紹介する赤木健介も鷲見京一もそうした1人である。赤木健介は本名赤羽寿。「赤木健介」はおもに1940年検閲への考慮から「伊豆公夫」にかえて使い,戦後も文学関係ではこれで通した。本稿ではもう一つの,31年の処女出版以来筆名とし実践活動でも使った「伊豆公夫」で紹介したい。青木書店刊『日本社会運動人名辞典』でもこちらを採用している。
 偶然であるが,伊豆も鷲見も1907年に生まれた。戦前戦後を通しての共産党員であり,戦後の共産党分裂では「書簡派」側の組織にあった。しかし育った環境,生活の場や活動の領域は全く違う。検事を父にもつ伊豆は高等教育を受けて(学生社会運動の故に完了できなかったが),知識人として「十数ジャンルに亘る多面的な活動と業績を残した」。他方,鷲見は長野県下伊那郡鼎村の小作農の長男として生まれ,小学校高等科を卒業,終生この地で活動して鼎町議も務めた下伊那を代表する農民党員であった。その違いは自ずと本の体裁や内容にもあらわれていると同時に,そこには厳しい時代を生きた共産党員の共通の世界も見える。
 上原章三・増岡敏和編『一燈を凝視めて――赤木健介拾遺集』は,詩人の増岡敏和氏が伊豆の「遺言」によって編纂したものである。遺言は1)赤木健介エッセイ集2)伊豆公夫史論集3)赤木健介詩歌補遺集の出版であり,『拾遺集』で1)と3)が果たされたわけである。但し90冊という膨大な,共編著を含む単行本は対象から当然除外された。歌人上原章三氏作成の,巻末におかれた「著作目録」で単行本を一覧できる。また増岡氏は「戦前の『挫折』時の文章や,一九五〇年以降数年の日本共産党の『不幸な分裂』時の文章は除いた。生前本人が『正しくなかった』といっていたからである」(353ページ)という。『追悼集』は75人の手記からなっている。添付の略年譜も上原氏の手になるものである。

(2)伊豆公夫=赤木健介(l907年3月2日−1989年11月7日)

 2冊の書物は,「日本マルクス主義と知識人」について考えさせるものを含んでいる。短歌「日本のレオナルドといわれ/気負ったこともあった/いまは日本の無名の一人である」もそうである。これは『拾遺集』の冒頭を飾る「絶詠・ふゆあしは」の1首で,1989年の作品である。
 この歌の背後には,『拾遺集』の編者が除いた前述の二つの挫折の時期がある。伊豆自身は,戦前,1942年の歌集『意欲』の巻頭においた戦争賛美の「決戦」七首については「私の戦時中のレジスタンスの汚点」,「終生の汚辱」(『拾遺集』298,353ページ)といった。共産党分裂問題では,『追悼集』の山畑武雄氏や上原氏の文に伊豆の気持ちが記されている。上原氏には伊豆を詠んだ「『六全協ではじき出された』と言ふときの/自棄的なひびき/――ベッドの健介」がある。「六全協」で伊豆は日本共産党アカハタ編集部文化部長を退き,「一兵卒として組織に留ま」った。
 『追悼集』には,自分が負った「二つの傷を克服する上での」伊豆の「態度は立派」というものが少なくない。そのなかで,藤間生大氏(「足あと」は,当時「一二月八日を中国人との戦争からアメリカとのそれにかえるとする感慨をもった人は知識人のうちにも多かった。伊豆さんもそうした『心境』のもとに『動揺』でなくて確信,『挫折』でなくて高揚,のうちに『決戦』はつくられ」たといい,「『恥辱』の作品に内在するアジア観」の問題性をとりあげた。また藤間氏は『拾遺集』のあとがきは「伊豆さんに学ぶ契機を操守の一貫性という,倫理的な評価に重点がおきすぎてはいないだろうか。伊豆さんの足あとは欠陥や挫折をふくめて,多面的で豊かであると,私にはみえる」という。
 『拾遺集』『追悼集』ともに,いき届いた編集で,御苦労も多かったろうと思われる。また戦前戦後の左翼運動に関する種々の事実がそこには記録されている。前者では「回想」の部に,九大法文学部聴講生時代の憲法学の「恩師」山之内一夫との触れあい(「前人未到の憲法講義」)はじめ,姫路高校生時代から「唯研事件」での入獄までの戦前の活動と人的交流を伝えて興味深い。『追悼集』には戦後の選挙活動から日常生活までが,伊豆をよく知る人の率直な筆で書かれているのも貴重である。
 『追悼集』にもでてくる敗戦直後伊豆の評論活動の場であった左翼評論雑誌『人民評論』『世界評論』『社会評論』は,大原社会問題研究所で復刻が予定されている。

(3)鷲見京一(1907年6月20日〜1976年12月17日)

 本書は,鷲見が生前「過去の社会主義運動,日本共産党の一員としての活動など」の記録を準備していたのを,没後,塚平広志氏(元『赤旗』日曜版編集長代理)と鷲見の甥の相波三郎氏が引継ぎ執筆したものである。執筆では正確さを重視し,既刊書をはじめ各種資料に目を通し聞き取りも重ねて,手堅く纏められている。そのなかには獄中で受け取った「リンゴ箱二個分,一五〇人余から約四百通」の手紙があり,獄中生活を扱った第7章でいくつか紹介された。付録に「偲ぶ会での追悼のことば」と年譜がある。
 内容上では,戦前では「日本共産党の創立前後から三・一五事件,四・一六事件までの活動に重点を」(あとがき)おいている。共産党創立前後からとしたのは,下伊那の百姓一揆の伝統や先進的な青年運動が「彼を育み,成長させた,運動に駆りたてていった」からである。鷲見は1929年1月,21歳で下伊那では最初に日本共産党に入党し,三・一五事件後の「長野県での党再建の責任者を引き受け」,四・一六事件で検挙,下伊那の公判グループ14人のうちで最高の懲役六年の判決を受け,35年1月に非転向で出獄した。戦後の政治活動は,日本人民党結成準備から始め,共産党へは党本部からのよび出しの後だったことは,注目される。
 「戦後は,農地改革から農地の集団化,共同化をめざした民主的な農業改革に多くの紙数をさいた」(あとがき)。それは,戦後50年代半ばまでの日本共産党の困難な時期の鷲見の党活動の記録が「『本書』全体から見て,やや欠けたきらいがある。その理由は,調査と資料の不足であった」(同前)という事情のためではない。鷲見が「模範的な農民」だからである。村の農地委員長や長野県農地委員,あるいは日本ミチューリン会副会長をやり,下伊那農地改革協議会編「下伊那に於ける農地改革」(1950年)にも執筆した。これらの鷲見の活動の部分に,本書の重要な特徴が認められる。
 古島敏雄ほか『農民組合と農地改革 長野県下伊那郡鼎村』(東京大学出版会,1956年)は,書名にもあるように鷲見の居村の農地改革から農業改革への進行過程を調査分析している。古島らが鷲見たちの運動を先進的と評価するが一面では批判したの対して,本書は「事実を無視した評価」と退けている(245ページ)。さらに議論を深めてほしい問題である。
 本書では鷲見の「共産党員としての素朴さ,私心の献身」(275ページ),困難にあって「ふんばるというのが特徴」などの資質を描いている。佐々木敏二『長野県下伊那社会主義運動史』(信州白樺,1978年)では,入党から検挙・公判での鷲見の評価は,「党の組織を必要以上に大きく見せ,それによって下伊那の運動に大きな損害を与えるような陳述が少なくない」など,厳しく,否定的である(427〜438ページ)。本書はこれに対して「入党わずか三ヶ月の鷲見にとって,若さと未熟さからくる弱さもあったことは事実だろう」,だが共産党中央の組織責任者間庭末吉から組織の秘密がすべてバラされたショックで一時は脱党を口にしたが立ち直ったと記している(125,128ページ)。
 鷲見と同じ鼎村出身で三歳先輩に羽生三七がいる。石川真澄『ある社会主義者 羽生三七の歩いた道』(朝日新聞社,1982年)にも,鷲見の名前はでてくる(197,219,228ページなど)。鷲見への評価はいろいろありえようが,かつての仲間で,戦後社会党県議になった福島国雄もいうように,1920年代はじめは「青年運動が大きく,華やかにできた時代でした。しかし小作人を中心にし,農民運動をするというのは当時としては容易ではなかったわけです。そのなかでとにかく農民運動に専念」し,運動だけでなく土地改良なども先駆してやる「本当に実行する人」(282ページ)の,本書は伝記である。






上原章三・増岡敏和編『一燈を凝視めて――赤木健介拾遺集』ながらみ書房,1992年,353頁

赤木健介遺稿集編纂委員会編『赤木健介追悼集』1993年,251頁

塚平広志・相波三郎『伊那谷を花咲く大地に―農民解放の先駆者鷲見京一の歩んだ道』鷲見京一伝刊行委員会,1992年,315頁,2,000円

おおの・せつこ 法政大学大原社会問題研究所兼任研究員

『大原社会問題研究所雑誌』第423号(1994年2月)



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