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『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版



犬丸 義一 著
『第一次共産党史の研究
       ──日本共産党の成立



評者:大野 節子


 本書は書名にもあるように,1982年9月発行の『日本共産党の創立』の増補版である(以下,これを著者にならって「旧著」と呼ぶ)。旧著は,マルクス主義歴史家として著者が永年にわたって進めた日本共産党創立史研究の集大成というべきもので,「基礎的史実の確定」(345頁)に重点をおかれている。書評でも,松尾尊よし氏は『朝日ジャーナル』1982.11.26号で「実証に徹した信頼すべき創立期共産党通史」と評価し,岩村登志夫氏も『歴史評論』1983年6月号で,「東大国史学科の文献考証学の学風」(犬丸旧著325頁)が「幾多の創見となってみごとに結実している」と述べた。
 この小文ではまず,増補版をだすにいたる事情と増補箇所の紹介をしたい。
 増補の理由を,著者は次のように述べる。
 「……増補版たる本書は,旧著に対するさまざまな批判に応えようとしてできあがったものである。」とくに「松尾,岩村登志夫両氏との討論が土台となっており,両氏との学問的交歓なしには,本書はありえなかっただろう」(516頁)。批判の中心は,旧著が1922年7月15日を日本共産党創立日と「確認」したのにたいする疑問否定という,創立自体に関する実証の問題である。これとセットで21年3月結党が主張された。犬丸氏はこのときにできたのはコミンテルン日本支部準備委員会で,時期も4月とする (以下両説一括して「21年春」とする)。
 いうまでもなく松尾・岩村両氏ともにこの分野での業績も大きい。松尾氏は「創立期日本共産党史のための覚書」(『京都大学文学部研究紀要』第十九,1979年3月)で新史料の紹介と分析をされているが,そのなかでも「英国共産党暫定規約」(所謂「新規約」)は本書で重要な意味をもっている。岩村氏には論文集『コミンテルンと日本共産党の成立』(三一書房,1977年)があり,コミンテルン関係資料の紹介でも知られる。この両氏と犬丸氏との論争は,最近の第一次共産党史研究の一断面を示すものであろう。
 岩村氏は,当時のコミンテルンでは,犬丸氏のいう準備委員会を「明確に共産党と呼んでいた」(79頁)と,前掲書で述べていた。犬丸氏が旧著で,宣言規約(旧規約)の採択や暫定中央執行委員会発足をもって「日本共産党が最終的に成立したかのようないい方は不正確である」 (90頁)としたとき,この岩村氏の指摘も念頭にあったであろう。岩村氏は前掲の書評では 「日本共産党は二一年三月の党宣言採択とともに創立されたとみなしてよいかもしれない」などと,さらに議論を進めた。 しかしなお一方では「二二年七月の党創立大会開催」を否定してはいない。
 7月15日創立説に初めて疑問をだしたのは,松尾氏の上掲の書評であろうか。「この松尾氏の驥尾に付して」,岩村氏は論文「お天気と歴史-日本共産党創立神話−」(以下,「思想論文」とする)を『思想』1984年1月号に発表し,7月説を「神話」とよんで新たな議論を展開した。
 犬丸氏が『思想』誌上で岩村説を反論したのは1992年12月である(「日本共産党創立大会問題再論」)。そこで自分が反論をしないでいるうちに「岩村説は学界に影響を与え,最近では,〔共産党〕一九二一年春創立説が一定の市民権を得」(188頁)るにいたったという。増補に踏み切った事情がうかがわれる。松尾氏も「反論は試みられていない」と断りながら21年春説を支持した(188頁参照)。以上が,本書出版までの論争点の推移である。
 こうして出版された本書の構成を示すと,「第1部 社会主義運動の復活」 「第2部 日本共産党の創立」 「第3部 創立後の日本共産党の活動」からなる旧著はそのまま収められた。増補の第一は第3部「 V 『第一次共産党』の解党」である。著者念願の第一次共産党史はこれで完結した。あわせて書名の変更,「終章 第一次共産党の歴史的位置」,「付録 第一次共産党史に関する文献目録」追加もおこなわれた。
 もう一つの増補は批判にこたえての補論で,その要にあたる第2部「補論1 創立大会問題再論」は前掲の『思想』論文とほぼ同じである。第3部の増補は「2 石神井会議における綱領討議再論」,「3 第一次検挙の発端について再論」,「4 松尾氏の書評に答える」,「5 党の構成員とその略伝」の補論四つである。 5以外は松尾氏への反批判を主とし,創立問題は4が取り上げている。 5は「 V 創立期日本共産党の組織と構成」の続編にあたる。中心は84頁にもおよぶ,80人の党員の略伝である。これらの増補でページ数も328頁から517頁へと大幅に増加した。
 


II

 以下では補論1,4を中心にし,創立問題に焦点をあわせて犬丸氏の所論を検討したい。討論の所産という本書の成り立ちを考えて,批判者の論点にも立ち入ることとなったが,重要な論点を見落しているかもしれない。解党部分を含む本書全体については,広川禎秀氏の書評が既に『歴史評論』1995年4月号に載っている。同氏の評価には同感するところが多く,あわせて読まれたい。
 検討の対象は,1) 22年7月・創立会議,2) 創立日・7月15日への特定,3) 21年春・共産党準備委員会設立,の三つの問題である。
 7月の創立会議問題では,著者の結論をまずあげておこう。「以上を要するに,創立会議は,準備会段階の暫定中央委員会,細胞代表委員会,など何回か開かれており,それらを,総称して『創立大会は七月』とされてき,創立日を決めるとすれば,新規約で最高の決議機関とされる細胞代表委員会の開かれた十五日の高瀬宅の会議の日にしたものと考えるのが,穏当ではないか,と私は考える」(213頁)。これは複数の異なる次元の会議を「創立会議」と一括し,一つの組織的過程として創立問題を明らかにした,最も価値ある部分である。
 この「創立会議」開催を否定する岩村氏への批判の論点のうち,とくに重要なものは次の二つである。
 1) 〈山川均とお天気〉  岩村氏が7月15日の気温は27度だったという気象台の記録を重要な論拠として,病弱の山川が出席できるはずはないと,創立会議開催を疑問視するのにたいして,犬丸氏は山川の多忙な毎日を具体的に示した上で,「山川が,当時非合法・非公然を覚悟して,この時期参加した活動・革命的情熱への無理解と私は考えざるをえない。解党以後の時期の山川と党創立期で『方向転換論』を執筆した時期の山川を同一視してはからないのではなかろうか」(194頁)と,反論している。
 2) 〈規約改正問題〉  第一次共産党の規約には三つある。21年春に採択の所謂「旧規約」(48ケ条),所謂「新規約」(24ケ条),23年2月の第二回(市川)大会でさらに修正された「改正規約」(18ケ条)である。岩村氏は新規約=「暫定規約原案の採択は急を要さなかった」ようで,市川大会で修正可決されるまでは「旧規約が準用されたふしがある」,こういう「解釈に立てば」7月に旧規約改正のために「決議機関の招集が必要とされるとの仮説は根拠を失う」と,規約問題からも創立会議を否定する(「思想論文」32−34頁)。
 犬丸氏の反論のポイントは,市川大会まで新規約の「草案をそのままにとどまったなどということかありうるだろうか。それではもう前衛党ではなくなる」,旧規約では「日本での具体的組織活動ができないことを,岩村氏は,見落としているのである」(200−201頁)という指摘にあろう。すなわち「旧規約」は「英国共産党の規約の翻案で,非合法の小さな日本の共産党の実際にあわない」,「とくに,大会の規定が,実際に,非合法で開けないので」,「中心代表委員の総会」=細胞代表委員会を「最高決定機関」と定めた新規約草案は「できるだけ早く決定され,実施されなくては,実際に日本では活動できない」(201頁)。このように,松尾氏の規約研究の上に,新旧規約を比較して「内容上の質的差異」に焦点をおいた著者の分析は注目できる。規約改正とコミンテルンとの関係については後述する。
 創立期日本共産党と党員たちの実状,非合法という現実,コミンテルン支部という条件を基礎にすえて史料を読み分析を進める著者の方法によって,史料が生き説得性もたかまるのが認められる。同時に「前衛党」とは,の問題も提起されているのであろう。
 第二の松尾氏が提起した,7月15日創立日特定の問題であるが,徳田球一の記憶によるとされる記念日決定についての同氏の疑問は,1) なぜ徳田は32年6月までは7月というだけで15日と特定しなかったのか,2) 「いまのところ日付を確定できぬとするのが資料の現状からの結論と考える」という,二つである。
 1) に関しては,創立日を「特定する必要がなかったからであろう」(394頁)と,著者はいう。ここにも共産党の活動の現実とかかわらせた判断がみえる。はじめて「党史が問題と」なるのが31年の公判闘争でのことで,さらに「創立一〇周年を控えて,創立記念日を決定する必要が生まれ」たという。これが10年間の共産党の現実だったということである(174−175,218−219,395頁参照)。評者もそう思うが,今後の研究で具体的に裏付けられるべきことであろう。
 2) については,旧著の「確認された」(175頁)から本書の「ほぼ確実」(394頁)へと変わった。論争による発展である。だが「文献資料がないから,特定できないとなると,戦前の非合法下の共産党史は研究できない……ことにならないか」という。松尾氏への反論は批判のあまり生じた飛躍といわざるをえない。
 この問題では,評者は,広川氏の次の意見に同意したい。「断定はできない日付けをあえて 『創立日』とするか,不確実性を理由に『日付けは確定できない』と主張するかは,認識論の問題でもあり,著者・松尾両説とも成立しうると思われる。……岩村氏の『神話』という書き方も本人の意図はともあれ,『七月一五日創立』を主張するものへのけなし言葉としてひとり歩きしかねない表現である。その限りで著者の批判は妥当である。しかし,本書で著者が明らかにした『一九二二年七月』の多様な党活動の内容を適切に表現するために,今までのように 『七月一五日創立』とするだけで十分であろうか。その意味で,創立日問題はなお議論の余地があろう。」
 

III

 第三の21年春の準備委員会結成問題では,「思想論文」はこれを結党と断定して二つの根拠からこれを主張している。一つは,党規約(旧規約)をもち暫定とはいえ中央執行委員会もつくられたという。党組織の実態である。おなじような疑問は松尾氏からもだされている。もう一つは,1でもみたことであるが,コミンテルン関係文献に通暁する岩村氏はこの論文でも『政治経済労働運動年報』1922−23年版(ハンブルグ)の21年3月結成の記録を有力な根拠としている。
 以上の結党説にたいして,著者はこれを準備委員会と位置づける。著者は26年12月の第三回大会宣言(未公表)には「五年前に創立された」とあることを紹介して,「その際は,二一年春をさしているが,公判闘争以前に,二一年という記述があっても,準備委員会という位置づけが,公判闘争中になされ」(219頁)たと,共産党による決定経過を創立日問題とあわせて説明するが,同時に,その歴史的意義は「コミンテルンとの国際的連絡・結合という点にある」 (391頁)と評価することによってこれを準備組織と位置づける。
 この位置づけによって,コミンテルンとの関係からする共産党創立への道筋が明らかにされた。すなわち著者は「コミンテルンとの関係で,共産党が組織されていくという,時代的制約」(392頁)を指摘し,したがって「主観的に,日本共産党結成の宣言を発したものの,客観的実態が備わらず」(392頁),このためにコミンテルンの「正式の組織的整備」の求めにしたがって「極東民族大会への参加を契機に形式……を整えての党の正式結成・活動開始がはかられたのであった」(201,214頁)。これにつづく新規約決定のことは既に述べた。コミンテルン(片山潜)が第四回大会までに「正式の結党」を指令したという旧著の叙述(151,153−154,170頁。 201頁参照)は,本書でより具体的となった。
 しかし岩村氏が依拠するコミンテルンの諸文献やそれにもとづいたと思われる日本共産党の文書での21年春説について,著者の見解はみあたらない。旧著は「当時のコミンテルンでは,日本共産党は一九二二年四月結成とされていたのであった」(224頁註23)と註記するに止まる。コミンテルンの記述は「誤認であると,村田陽一氏は説き,犬丸氏もこれを踏襲する」(「思想論文」19頁)と岩村氏は批判するが,これにもとくに触れてはいない。『コミンテルンと日本』(法律文化社,1982年)の著者川端正久氏が21年春説を主張する際の論拠も,コミンテルンや日本の紙誌などの諸文献である(同書53頁)。
 岩村氏が誰も疑うことができない「お天気」という客観的事実やコミンテルンの記録をとくに重視されるには,一つは戦前の日本共産党研究では文献史料が乏しく,その正確さが絶えず問題とならざるをえないという史料の状況があるかと思う。したがって同氏が研究における 「手堅い史料批判という共通の土俵」づくりの必要や「文献考証の重要性」(岩村前掲書「序文」,104頁)を強調されるのもまた当然といえる。だが史料批判はコミンテルン文献も例外ではない。「上海テーゼ」では前出の第三回大会 (再建大会)を「創立大会」と呼んでいる(村田陽一編訳『資料集初期日本共産党とコミンテルン』15頁)。こういうこともあるのが,実際の運動の中から生みだされた史料ではなかろうか。著者の考え方を明らかにすることによって,準備委員会説もより説得的となろう。
 「終章 『第一次共産党』の歴史的位置」は本書全体の総括である。ここで第一次共産党の歴史的位置として(1) 現在の共産党の出発点,(2) 明治社会主義の到達点かつ日本マルクス主義の原点,(3) 戦後の日本社会党左派の源流,(4) 「事実上『街頭細胞』の連合」という「構造的弱点」の四つをあげて本書は終っている。
 犬丸氏の著作とそれをめぐる論争が1980年代に生まれたのは偶然ではない。旧著「あとがき」からも明らかだが,それまでに規約をはじめ重要文献の発掘紹介がすすみ,そ一の上に多岐にわたる議論が豊富な史料の裏付けをもって実証的におこなわれえたのである。本書は批判論争が研究には不可欠であることを実例をもって示した。批判をバネとして著者が意図した「第一次共産党の実態の復元を,ほぼはかることができた」(501頁)。
 この点では旧著をはるかに超えた。その代表が創立問題やその議論の副産物である規約問題にほかならない。
 規約と並ぶ基本文書の綱領問題でも,旧著を訂正している。旧著では,松尾氏が前掲「覚書」に収録された石神井会議議事録にもとづいて,綱領「全体を原則的には承認」,天皇制廃止と革命の性質の二つの「部分」は審議未了としたのを支持した(286頁)。補論2で,村田氏が紹介したブハーリンの「コミンテルン綱領についての報告〔抄録〕」(『資料集・コミンテルンと日本』1)資料69)によりつつ,上記の二問題は綱領の「部分」などではないと,「基本問題」での意見対立による審議未了を再確認した(381頁)。規約問題でのコミンテルンの指示よる早急な改正と対照的な綱領審議未了を再確認したことで,著者はやがて解党するこの党の限界の一つを明らかにしたものと考える。
 著者が「第一次共産党」というとき,この党と再建後の共産党とでは「その性格が異なる点が少なくない」(501頁)という認識があり,そこから元来司法当局が使った「第一次共産党」の用語を研究に使ったのであった。第一次共産党の特徴にかかわる概念が「日本マルクス主義」であり,その「原点・源流」としてこの党を位置づけ,実証的には「党の二重構成」を問題とする。すなわち指導者である堺,山川ら明治以来の社会主義者と,その後とくに第一次大戦後の運動の高揚のなかでの参加者との二重の構成に着目し,綱領での天皇制問題や解党問題など重要場面での両者の違いをあげる。後者が日本共産党として現在にいたるのに対して,前者山川らは「左翼社会民主主義集団」=労農派へ,さらに社会党左派へ,という戦後も視野に収めた第一次共産党諭である。
 30余年前から著者がもちつづけてきたこの視点にしたがって,旧著では最後に「党の二重構成」(343‐345頁)をおき,本書終章もこれを引き継いた叙述をしている。前記の第一次共産党の四つの歴史的位置づけがそれである。社会民主主義形成の日本的特徴とも関連するこの視点は一定の有効性をもちえよう。
 だが,そのためには著者も認めるように残された研究課題がある。その一つが解党問題の分析であろう。この党の特徴を集中的に示すこの問題は再建後の共産党のあり様にも影響し,また堺や山川らだけの問題でもない。だから著者も「解党の原因・責任論」(372−374頁)という一節をもうけて,おもに徳田を対象にして解党の原因追究の欠如,責任転化を批判したのであろう。しかし解党の章では諸種の考えや経緯が丹念に追ってあるが,著者による原因の分析はない。原因の一つと考えられる「街頭細胞」連合という構造的弱点は終章に,党内の種々の村立は補論4にあるのだが。
 その上で,独立した補論も多い増補部分を含めた全体的な総括が,終章の歴史的位置づけの前にあったならば,評者のようなものの理解は大いに助けられたであろう。同時に大量の,それも食い違いの多い史料と取り組んで第一次共産党の実証に挑戦する著者の精神気力に感じ入ったことも事実である。
 最後に増補版編集についての意見をあげれば,まず規約のうち必要な関係条文だけでもまとめて掲載してほしかった。関係条文を示しながら議論が展開されているが,わかりにくい。しかし336頁に新規約の最初の10ヵ条をのせてあるだけであり,また規約の出典は233頁の註58 ・ 59などに記してあるもののにわかには見つけられない。
 もう一つ,旧著「あとがき」が本書では削除されたことは惜しまれる。これは30年余にわたる著者の第一次共産党史研究の回顧であるとともに,この分野の研究史の記録でもあるから,今後の研究のためには必見の文献である。



青木書店,1993年3月,517頁、定価 6,180円

おおの・せつこ 法政大学大原社会問題研究所兼任研究員

『大原社会問題研究所雑誌』第449号



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