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『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版



大須賀哲夫・下山房雄著
『労働時間の短縮 ――その構造と理論

評者:小越洋之助

 1 労働時間短縮問題の今日的状況と本書の位置

 労働時間短縮問題は今,難しいところに来ている。日本の長時間労働やサービス残業はいっこうに改善されない。そのなかで,とくに1990年代不況と国際的な競争激化の論理,労働分野の「規制緩和」政策のなかで,労働時間短縮問題自体の焦点がボカされ,労働時間の「弾力化」が拡大している。この時期にあって,労働時間問題の所在が過去において何であったのか,また特に高度成長期から現在にかけて,どのような時短の成果と限界があったのか,労働運動の立場からはどのような基本視点が必要であるか,などの解明が改めて必要とされている。

 日本の労働時間問題に関する専門書は,雇用問題や賃金問題の研究書と対比すると驚くほど少ない。なかんずく戦後の労働時間短縮について,経済学関連の研究者による実態調査を踏まえた専門書はそうであろう。そのなかで,本書は「労働時間短縮」という実践的タイトルを全面に掲げ,その時短を実践的課題として認識しつつ,日本の労働時間研究の空白を埋めることを意識していると思われる。以下,内容の紹介と評者の若干の感想を付したい。

 2 本書の構成

 さて,本書の構成はつぎのようになっている。

はじめに─労働時間概史─
前編 労働時間戦後日本史
 第1章 交代制勤務者の労働と生活と意見―1960年代三交替制職場の疲労調査の事例―
 第2章 70年代と時短問題
 第3章 80年代の労働時間問題
後編 時短の理論と構造
 第4章 労働時間と生活時間・余暇の学説小史
 第5章 「余暇」をどうとらえるか
 第6章 労働時間短縮と雇用問題
 第7章 人間性回復と労働時間短縮
 第8章 時短と生活問題―人間らしく生きる―
 第9章 生活時間の構造
 あとがき

 本書は大須賀哲夫・下山房雄両氏の共著であるが,「あとがき」に明記されているように,大須賀氏の執筆部分は第1章のみで,あとはすべて下山氏の記述である。労働科学研究所時代の同僚であったことが両執筆者の関係である。「あとがき」によれば,労働心理学の分野で多くの業績があった大須賀氏が不幸にして病魔に侵され,生前,下山氏が大須賀氏に著作の刊行を期待し,氏の死後,下山氏によって著作刊行の段取りが具体化できていたにもかかわらずさまざまな理由でそれを実現できなかった,という下山氏の「思い」があり,それが「共著」とされた理由であるとされている。

 3 本書の骨子

 前編 ではまず,はじめに―労働時間概史―において欧米と日本における労働時間の実態,その短縮の歴史,労働時間短縮立法,労働運動の労働時間短縮の影響などが概説されている。欧米ではイギリス工場法からフランスの週35時間制まで,日本では戦前,戦後の労働時間とその短縮史が概説される。この章はコンパクトに世界と日本の労働時間史をむうえで有効である。とくに戦前と戦後の日本の労働時間長期統計が作成,掲載されている。この統計資料の整理・作成には大変なエネルギーがかかったと推定されるが,この箇所は本書のその後の叙述の展開において,説明の理解をサポートするだけでなく,この箇所だけをとりだして独自に活用できる利点がある。

 第1章(交代制勤務者の労働と生活と意見)は,大須賀氏が1960年代の紙パルプ関係のある大手企業の基幹工場の代表的職場(抄紙機係,調成係)における男子労働者を選定し,その疲労度調査を実施した結果に基づき執筆したものである。

 調査対象は日勤(AM.7:00~PM.14:00,7時間)夕勤(PM.14:00~21:00,7時間)夜勤 (PM.21:00~AM.7:00,10時間)の三班三交替,「日勤→夕勤→夜勤の順に各勤務(直)を1週間づつ続ける」交替制勤務,さらに2週間連続操業,その最初の日曜日(休転日)は機械の運転を停止し補修(夜勤者のみ出勤し運転),翌週の日曜日(「連操日」)は機械はそのまま動き,直の交替が行われるという職場であった。したがって,「連操日」には,夜勤者は通常の夜勤直(土曜日の21時〜日曜日の7時まで)ののち,11時までの残業4時間を行い(合計14時間連続勤務)月曜日の7時から日勤に替わる。(この間の勤務間隔は20時間のみ)という特に夜勤者の蓄積疲労が懸念される職場であった。

 大須賀氏はフリーカー検査(中枢性疲労の変動を調査するとされる)を軸に「腱反射閾値」(しつがい腱反射測定として筋肉と精神疲労にも有効とされる)「タッピング検査」(「最大の意志的努力の下での手指の運動機能」測定方法)も活用し,いずれの検査結果においても交替制勤務は蓄積疲労をもたらすが,特にこの職場での夜勤は,(1)深夜勤務が10時間と長いこと(2)労働密度が過大であること(3)夜勤勤務が7日と長いこと(4)夜勤→日勤への移行の間隔時間がわずか20時間であること,などから,生理疲労と区別された蓄積疲労が残存していることを具体的な数値を示して検証している。大須賀氏は,夜勤直の睡眠時間が平均して6時間半にも及ばない,と生活時間の数値も示し,職場労働者の「意見」を検討し,深夜勤を含む交替制労働者の特徴は慢性的疲労感であり,日勤,夕勤での起床時での「気分がわるいこと」は蓄積疲労の反映である,と認識した。そして氏は「労働科学はその歴史的性格から実践的科学」であり,「疲労調査には臨床的使命が課せられている」という明確な立場から,4つの提案を行なっている。すなわち,(1)夜間長時間労働の制限(2)連勤を廃し,勤務間隔時間を長くすること(3)夜勤のサイクルを4日以内にとどめること(4)夜勤の仮眠を公認すること,である。最後に(1)〜(3)の解決のために,四班三交替制の採用,そのための所定労働時間の短縮を提案している。この章は労働心理学の立場から交替制勤務の非人間性の実態を科学的データにより説得的に示し,それを改善するための提案を行った有意義な章である。評者はこの分野においての全くの門外漢で,多くを学ばせてもらったというのが率直な感想である。

 第2章(70年代と時短問題)では,著者は高度成長期の時短が「合理化」と引き換えの個別資本の労務管理政策として行われたこと,総資本の政策としては「経済成長」優先の立場であったことを指摘する。(著者は1950〜70年代の20年間は労働時間の延長・短縮が交替し,後半10年間は前者の相殺でしかない,と認識し,またこの時期でのレジャーブーム,余暇論は労働時間の短縮ではなく,生活時間の内部構成の変化→レジャー消費の増加である,と位置づけている)しかし,70年代は総資本(国家)の政策も,時短が「主体的な政策目標」として質的に転換した,として「70年代の通商産業政策」(71年5月。12%の時短,週5日制の一般化,年次有給休暇の増加の主張)を,批判的ながら評価する。そして,高度成長期の時短が70年代以降も継続する可能性を考慮し,(1)労働密度の増大=資本の労働支配(人格支配を含む)の内包的強化との関連(2)自由時間における資本の労働者支配の強制の関連,を労働運動からの時短の評価基準とする意義を強調する。この(2)については,資本は時短によって自己啓発などで生活時間管理さえ行い,「自由時間の不自由化」さえ進めているとされる。また,労働運動の側での時短の制度要求は不明確であるとして,とくに労働基準法第36条の改正問題を強調するように提起している。

 第3章(80年代の労働時間問題)では,「弾力化」の評価と時短の関連を強く意識している。この時期はアメリカの「外圧」「前川リポート」など時短問題がクローズアップし,『労働白書』などでも時短の消費拡大効果が指摘された。また,1988年は労働基準法の労働時間規定が改訂された。下山氏は賃金と社会保障の増加なしの個人消費拡大効果に疑問を呈す。また,労基法改訂における「弾力化」(変型制,フレックスタイム制など)については,社会政策学会での諸論者の発言を引用しつつ(1)「長時間残業,休日出勤の常態化による長時間勤務」が存在する現状では,労働時間の弾力化は現在でも行われていること(2)この下での所定労働時間の「弾力化」は残業賃金の節約であること,を指摘する。そして労働時間をめぐる協約体制の違いを明確にし,当時の日本の労働組合・総評が労基法改訂当時から「弾力化」の評価が甘かったことを批判する。著者によれば,フランスではCGT,FOが協約レベルでの対抗から弾力化に反対し,ドイツではDGBは当初「労働の人間化」推進の延長でこれを捉えていたが,その後軌道修正した。しかし日本では企業別組合の協約体制では社会的規制がなく,しかも「会社派」幹部によって協約の有効性がさらに制約されている。したがって,協約「一本」や「万能」の方向は警戒すべきである,と結論づけている。

 後編では第4章(労働時間と生活時間・余暇の学説小史)において戦中,戦後,高度成長期における日本の労働時間決定の学説を簡潔に整理・紹介している。大河内一男,藤林敬三,氏原正治郎,戸塚秀夫,山本潔,内海義夫,藤本武,篭山京,伊藤セツ氏らの所説が対象とされている。著者は労働力再生産確保・労働能率拡大の観点からの「最適労働時間」論を中心に,論者によりその力点,基準の差異を整理している。また,労働者階級の時短闘争を労働時間決定の基本要因とする見解,労働者家族の消費生活の時間的構成の研究を紹介している。簡潔であるが労働時間理論を明解に整理した章である。

 第5章(「余暇」をどうとらえるか)はすでにふれた70年代以降,支配層から時短=余暇増加論が提起されたことに関わる。著者によれば,それは労働の濃密さなどを背景として多くは「合理化」の視点から提起されたことである。著者の時短論の立場は労働者状態の根本的・全面的改善の立場からの「全体としての労働負担減となる賃下げなしの時短」であり余暇も同じ観点である。すなわち,著者は肉体的休養のみの立場の余暇を否定する。そして余暇の対抗軸として「資本に管理された不自由化された余暇」と「自由な余暇」を対置する。前者は研修制度など職場の延長である。他方,後者は「資本の管理をはなれ,労働者自身の責任で,みずからの意思と選択のもとで過ごす」余暇である。そこにはスポーツ,趣味,娯楽以外の社会を改革していく社会主義運動,学習運動も含まれる。したがって,著者の立場は「自由時間」の厳密な概念規定にも行き着く。すなわち,著者によれば,自由時間とは,「労働以外の時間」であり,労働時間から生理的生活時間や家事時間を除いた残りを自由時間とする見方を批判する。生理的生活時間は資本の指揮命令からの拘束と同じカテゴリーで扱われる危険があるし,逆に社会的文化的欲求の充足時間にも労働力再生産的側面があることが理由であるとともに,余暇を個人レベルの自由時間に限定し,それに埋没させることを問題としている。そのような立場からの著者の具体的対案は労働者が余暇を組織化するための公的レクレーション施設の設置や余暇費用の低廉化などである。

 第6章(労働時間短縮と雇用問題)では,70年代後半以降の経済危機において,労働省が時短による雇用促進にシフトするなかで,著者が「労働白書」「中基審建議」「労働次官通達」を詳細に検討し,その時短・雇用促進政策を批判的に解明している。例えば「建議」「通達」においては(1)日本の労働時間は高度成長期に短縮し,「すでにかなりの水準になっている」とするが,これは日本の長時間労働の確認を回避していること(2)時短が「生産性の労働者への成果配分」であるという理念は事実としてこの間生産性向上,実質賃金停滞,時間延長となっていること(著者はこの点で生産性理論は「反資本の論理」である,とされているが,評者も同感である。時短に関しては生産性の成果配分論は「進歩的理論」となる!)(3)週休2日制,年次有給休暇消化で欧米と格差があることについて,第1にそれは労働時間との関係で問題にすべきこと,第2に年休付与日数の劣位も問われるべきこと,第3に年休不消化の原因それを慣行,慣習に帰すべきでなく,予備要員配置をせず,著しい出勤率を前提とした企業の生産・営業計画の立て方を問うべきこと,などと批判している。さらに,時短と雇用拡大について,著者はこの時期の労働省の奨励金,給付金による雇用政策は一部を除きほとんど機能しておらず,「労使の自主努力」の強調による時短の誘導政策も,格差解消を政策目標としない矛盾した政策であると批判する。なお,著者は時短による雇用否定論(日経連),時短による短期的雇用効果なし論などをも検討し,これに反論している。

 第7章(人間性回復と労働時間短縮)では,改訂労働基準法における本則で週40時間制(本則)46時間制(付則)各種変型制の導入について,労働者の残業上限の設定要求が排除され,その一層の形骸化を指摘している。すなわち,「基準法改定基準の従来からの形骸化が解決できないばかりか,今後は週40時間制の看板のもとに長時間労働が存在しつづける」との評価である。その理由として,著者はすでに協約で週40時間に到達している大企業職場において,過度の長時間労働による人間生活破壊が起きている事実を指摘する。(評者も全くそのとおりであると考える)そして,著者は新たに「労働生活の人間化」という概念を提起する。その意図は,労働の場におけるゆとりと,労働の外部での自由時間の拡大という双方を人間らしくするためにである。なお,これに関連して,著者はILO文書の意義と限界をも明確にする。すなわち,ILO条約(例えば156条約)は男性を含めた職業労働と家族的責任の両立を指摘する積極面をもつが,他面では人間生活をその「二元の環」に閉ざし,「搾取の新形態に適合的なマイホーム型の労働者生活の創造」につらなる,と評価する。著者がマルクスの思想にある「労働者階級の知的発達,社会的政治的活動にたずさわる可能性の保障」も「人間らしい生活」に含ませているから,このようなILO基準における限界の指摘となる。そして大型の自由時間を社会全体が保障するために,「計画年休」の意義を強調している。

 第8章(時短と生活問題)では,「過労死」が労働時間の条件悪化と明確な相関関係をもつなかで,1990年代における労働時間の現状が「せいぜい時間延長の趨勢が多少停滞している程度」であったこと,そのなかで,人間性回復のために,著者が時短の停滞を突破するポイントを統計データをバックにして述べている。第1は「完全週休2日制」の確立である。(その確立は大企業51%,小企業でわずか2%)著者はこれを週40時間制の未確立と位置づけて,中小企業の問題である,とする。(1988年大企業39時間27分,小企業44時間57分)著者はこの解決は日本では協約では企業別でしかなく,組合組織化は中小企業分野ではわずかであるから,立法以外にはない,と結論している。第2は残業規制であり,実働時間では大企業と小零細企業との格差がない(1989年大企業178.3時間,零細企業180.5時間)という現実を直視する。三六協定の存在に見られる残業上限規制の欠除は日本がILO第1号条約をいまだ批准できないことであり,この点では英米も同様であるが,すでに第3章でも指摘されたように,日本は協約のしばりが殆どきかない,という点で最も問題である,とされる。第3は年次有給休暇(88年労基法改定による10日〜20日)の消化問題である。データでは年休消化状態は悪化しているが(1988年における付与日数15.3日に対して,取得日数は7.6日で消化率5割。1980年取得日数8.8日,消化率61.3%)著者は,その根本原因として企業の労務管理に求めつつ,労働運動の側の時季指定権の留保→年休保留→未消化の問題をも指摘する。これは著者が一貫して強調する社会的計画的年休の必要性と関連づけられる。ただし,「結び」において,著者は現在の労働組合は「人手不足」を労働条件改善に結合させた総評労働運動よりもその組合機能が低下している,とし,そのなかでは「残業をしない,年休を取る,育児休暇を取る」ということを意識的に行う「強い個人」「非会社人間」的行動の登場も変革契機として評価している。「個人重視」という新たな体制的イデオロギーを逆手にとった提言であろうか。

 第9章(生活時間の構造)では,著者はT労働時間を(a)純勤務(b)勤務前後(c)家での勤務(d)通勤時間に分ける。またU「自由」時間として(a)工場事務所内休憩時間(b)内職時間(c)家事労働時間(d)生理的生活時間(e)社会的文化的生活時間に分類し,それぞれの項目についてコメントを付している。次に,労働科学研究所が行った各種生活時間調査を基礎資料として生活時間の実態分析を行っている。特に社会的文化的生活時間について,1960年代以前の拡大の意味,60年代以降の拡大の理由を述べている。さらに戦前・戦後の比較(1941年と1965年。NHK資料による)に基づき,労職間の格差縮小,規模別格差の拡大という特徴を示す。著者の評価によれば,労務者=生産労働者の労働時間はこの間かなり減少したが,これは戦後大企業労働組合に組織された労働者の地位向上=社会的文化的時間の拡大であった。(なお,関連して著者は資本主義国と社会主義国の比較も行っている)

 生活時間問題で著者が次に注目したのは「最低生活時間」の測定である。著者によれば,『資本論』における労資対抗の「一つの結節点」は,労働時間の延長は「自由時間の圧縮」であるから,「労働時間と「自由」時間との対抗」として現れるとされる。そのような視点から,労資対抗関係において最低残しておくべき「自由時間」の長さ,すなわち「最低生活時間」(あるいはその逆の「最高労働時間」)が問題にされる。著者は1960年代末の労働科学研究所調査により,それを通勤時間,休憩時間を加えた「収入生活時間」の長短別集計結果で検証している。すなわち,その上限は独身者10時間30分,既婚者11時間半,(この意味は例えば「所定拘束時間が8時間,既婚者に1時間をやらせるとすると通勤範囲は往復1時間半以内がのぞましいということ」)実働時間の限界は既婚者8時間半,独身者7時間半,これ以上の延長は睡眠の切り詰めになる,と結論づけている。

 4 若干の感想

 さて,以上の本書に関して,若干の感想を付して責を果たしたい。

 第3章にもふれられていたが,1980年代は「過労死」が大きな社会問題となり,日本の労働者の長時間労働が国会でも問題にされ,銀行のサービス残業問題を労働基準監督署が立ち入り調査をするということも行われた。内需拡大・市場開放を迫るアメリカからの外圧もあり,宮沢内閣の「生活大国五ヶ年計画」(1992年7月)では「ゆとりのための労働時間短縮」として,計画期間中に年間総労働時間を1800時間とすること,完全週休二日制,計画期間中に「大部分の業種において週40時間制を実現」すること,「所定外労働の削減を図るため,時間外・休日労働の法定割増率の引き上げについて具体的に検討すること」「時間外労働協定の適正化指針等の適正な活用を図る」「年次有給休暇の取得促進のため,連続休暇を取得する慣行の確立など計画的付与制度の活用等により,その完全取得を目指す」などと公式の政策文書に書かれたことがあった。

 ところが,このような政策的文書の結末,結果としての実態はその後どうなったか。

 1990年代のバブル経済の破綻・長期不況のなかで,日本の財界・大企業は国際競争激化の論理から「弾力化」や「規制緩和」政策を推進している。そして,「労働時間から成果」を合い言葉にして,年俸制や裁量労働制など成果主義人事・賃金管理,さらには雇用の流動化政策を行っている。労働時間短縮はおろか,労働時間概念すら破壊されつつあるのが現状であろう。それは,本書において下山氏が明確に指摘するように,大企業の企業内組合も企業の利益に協調しているから,時間短縮やサービス残業の規制を追求できないどころか,労働時間概念を破壊し残業手当を削りとり,労働者が長時間労働を自発的に促進する裁量労働制を容認する組合も登場した。労働行政も「労使自治」の論理によって企業の論理に追随する政策展開に終始している。政策的に時短は形式的に進んだようにみせかけるが,実質的には進んでいない。政策文書が公約であるならば,労働者に対する国の責任が問われるはずである。

 このような現状において,本書は労働者階級の立場から,このような政策展開を批判し,事実に即した労働時間の分析,その歴史的変遷,現状を示している。そして,「労働時間の短縮」それ自体の社会的意義─人間性回復と社会的進歩の意義─を正面に掲げた書である。著者の依拠する立場,論理は明解であり,それぞれの指摘は現在の労働時間短縮を阻害させる要因を鋭く分析しており,有益である。例えば,当面の時短の趨勢を左右する重要問題として罰則つきの上限設定や個人拒否権を法制化した残業規制の意義を指摘していることなどはその一例である。

 もちろん本書は著者が折にふれて解明してきた論文の収録であるから,分析時期,資料,解明された内容について重複があり,体系的であるとはいうことができないかもしれない。また,叙述も理論家としての下山氏の面目躍如という一方,入門者には平易であるとはいいがたい。また,評者には,「弾力化」・「規制緩和」によって,8時間労働制=標準労働時間制の意義が崩されているとき,その意義をもっと強調してほしかったとか,変型労働時間制・裁量労働制の適用範囲拡大,男女雇用機会均等法の改定と関連した女性保護としての残業規制廃止,それをめぐる論点など現在の労働時間問題をめぐる複雑で新しい問題を本書において展開してほしかったという個人的感想をもっている。

 それはともかくとして,本書の読者は,そのなかで今日の情勢のなかで,労働時間問題を検討する分析視点や事実の評価,その理論的理解が深まることは確実である。

 感想の最後として付記すれば「あとがき」における「現在製造現場のみならず事務作業までへの立ち作業の導入,看護婦への二交代制の導入など,コストダウンにつながる『合理化』が次々と行われているが,その際にこの60年代の労働科学研究所調査に匹敵するような調査はまず行われていない」という文章には著者の深い思い入れが込められている。その意味を評者なりに表現すれば,労働者への労働強化,労働時間延長を一方的にもたらすさまざまな手段が,科学的調査ぬきで平然と選択されている現状について,世はあまりにも鈍感になっていることである。それは今後労働者側だけでなく,経営者側にも思わざるマイナスの結果を惹起させかねないのではないか。その意味で,今日の情勢のなかで,大須賀氏の労働心理学における科学的調査分析に基づく論文を含めたこの書が多くの読者を得ることを願いたいと思う。


大須賀哲夫・下山房雄著『労働時間の短縮――その構造と理論』御茶の水書房,1998年7月,A5版,194頁,1800円+税

おごし・ようのすけ 國學院大学経済学部教授

『大原社会問題研究所雑誌』第487号(1999年6月)


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