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『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版




稲上 毅著
『現代英国労働事情
     ――サッチャーイズム・雇用・労使関係




評者:小笠原 浩一




 本書の刊行は1990年11月のことである。以来,イギリス労働問題研究者をはじめ広く衆目を集めてきた。本書は,そのタイトルから受ける気負いのないイメージとは異なり,博覧かつ緻密で,客観性に優れたお仕事であることから,率爾の書評には馴染み難く,提起されている論点の重大さに比し書評数は異例にも少ない。そうした中にあって,既に菊地教授により的確な書評紹介が行われており(『日本労働研究雑誌』380号),ここで型通りの内容紹介を繰りかえす必要はないように思われる。そこで拙評では,本書の理論的な意義を評者なりに整理させて戴き,現代イギリス労使関係の歴史的位相を捉えるための方法問題を中心に,本書から受け継ぐべき課題を探りたいと思う。評者は雇用・人事管理には全くの門外漢であるから,多分に見当違いな書評にならざるをえない力不足を予め著者にお詫び申し上げたい。

          

 本書の目的は,「1980年代イギリスの雇用と労使関係」の「変化」についてはっきりした見取り図を描くことにある。そのために,1990年初までに主としてイギリスで公刊された大量観察調査,統計分析,事例紹介にかかわる文献資料の包括的蒐集分析を通じて,雇用・労使関係実態における「変化」を政治的次元(「サッチャーイズム」)から自律した動きとして析出し,両者の意義と連関性を論ずるという方法を採られている点に特徴をもつ。著者の描かれた見取り図は,次の2点において明らかに先進的であると思われる。
 第1に,ウォリック・グループにより70年代後半に行われた団体交渉企業内化に関する調査以来,全国協約体制および職場労使関係の上下2方向からの企業レベル労使関係への収斂が指摘されてきていた。著者は,この「イギリスの「伝統的」な団体交渉制度の後退とその「企業内化」の進展」という流れは,企業内労使コミュニケーションの改善など局辺環境の変化と一本になって,「企業内労使関係の成熟化」という「もっとも基本的な趨勢変化」に向かって「たとえ緩慢な動きではあっても,今後ともその勢いを増していくだろう」という見通しを明示された。特に,この「成熟化」は,「無・組合主義」(non-unionism)の力学を内包し,同時に「〈集団的労使関係から個別的労使関係へ〉」というラディカルな変化軸をも内包するものであるから,「伝統的」労使関係が「今後その内部では〈企業〉と〈個人〉にむかって分散し」(「また外部に対しては〈国際社会政策〉との結びつきを強め」)ていくという,先進国に共通の「基本趨勢」として理解されている。
 「伝統的」労使関係の諸特徴を衰退させていくような「変化」が1980年代のイギリス労使関係に生じているのではないか,特に団体交渉制度を中心とした労使関係の骨格部分が企業内化してきているのではないかという認識は,特に80年代後半には現地の労使関係研究世界で臨場感をもって共有されてきた。しかしこの「変化」が,労働組合機能の衰微と組合忌避を伴った経営権の強大化(特に企業内ローカルにおける経営権限の強大化)を基調とする歴史的趨勢であるかどうかについては,著者も紹介されているように議論が分かれてきた。慎重な立場の代表格とも言えるウォリック大学労使関係研究所の企業内労使関係調査グループは,主として労使関係制度の安定性に注目し,組合の利益代表機能を尊重する経営戦略の継続性を重視した。その後90年代に入り,ウォリック・グループの調査と同対象に接近しながら,同グループの大量観察では明らかにしえなかった制度運用実態における組合忌避行動の広がりと深まりを各級マネージャーヘの面接調査によって明らかにする作業が公表され(Work,Employment and Society,Vol.5,no.2 の T. Morris と S. Wood の論文),「変化」を捉える方法論を中心論点としてではあるが80年代の議論が一歩先に進められた感がある。しかしそれでも,経営戦略や労働組合の将来像に関しては即断しがたい状況が依然として続いてきていた(評者はこの点を1993年春の社会政策学会で報告させて戴いた)。狭窄な管見の限りでは,1980年代イギリス労使関係が〈企業〉と〈個人〉(および〈国際社会政策〉)を労使関係の新たな編成軸とする方向への「基本趨勢」を「たとえ緩慢な動きではあっても」辿り始めているという仮説が明示された例は,現地の研究世界にはなかったのではないか。その意味で,かかる仮説提示が,イギリスの研究状況を十分に踏まえた上で,1990年時点で行われたことは,極めて先進的であった。
 しかも,著者は,こうした「企業内労使関係の成熟化」を「日本的」なるものへの収斂と即断することを戒め,〈個人〉が〈企業〉から背理し,「企業化」を制約してゆく可能性を指摘しておられる。おそらく著者は,シングル・ステイタスの導入を初めとする人事システムの改革を達成した企業において,その恩恵に最も浴するべき若年,低グレイド層を中心に高い離職率が症候群のように広範化しており,ハーモナィゼーションが仕事の満足や組織へのコミットメントに必ずしも直結していないイギリスの実情の中に,アングロ・サクソン型「個人主義化」に内在する「手段主義」の側面を慎重に見据えられていると思う。
 第2に,80年代イギリスの労使関係研究世界において,「変化」問題と同じく重要であったのが,サッチャリズムと労使関係実態との関連性という論点である。改めて指摘するまでもなく,サッチャリズムとは,M.サッチャー個人の政治哲学ではなく,戦後イギリス体制を批判し,これを支えた政治的コンセンサスの仕組みを打破してゆこうとする革新プランのことであり,特に福祉国家コンセンサスの上に長期安住してきた2大政党制の枠組みの保守党側からの臍棒であった伝統的トーリズムに対抗する党内革新勢力の思想,戦略,政策を意味している。この点は広く共有された認識といってよい。著者もサッチャリズムをジョゼファイトと呼ばれる保守党内の右派革新派の思想・政策枠組みとして理解されている。これまでイギリスでは,賃金決定の趨勢,組合の内部運営手続きの変化,プロフィット・シェアリングその他の従業員参加システムの展開など個別場面に即した立法政策の機能測定は活発に行われてきた。しかしサッチャリズムの労使関係思想の分析となると,力仕事を見つけるのは難しい。わが国でも,継続中の梅川正美氏の政治学からの分析(最新は,愛知学院『法学研究』35巻3・4号)など,僅かである。そうした中で著者は,簡潔にして高密度の「序」においてサッチャリズム分析を試みられている。そこには,「「伝統的」個人主義」,特にその中心としての「「自由な市場」の道徳哲学」をサッチャリズム理解のキー・コンセプトとして重視され,「その思想的種子は古く,遠く19世紀に遡る」ような復古主義がなぜ現代の1980年代を生き延びえたか,という斬新な問題の立て方の中で雇用・労使関係実態と政策との関係を探ってゆく。その結果,職場や私生活における規範・価値意識レベルでの「個人主義化」という「自律的な形で成長しその社会的重みを増してきた」80年代の「基本趨勢」とサッチャリズムとの間に「増幅」「合流」の関係を見いだされている。特に,サッチャー政権の一連の労使関係立法の意義に関して,これを単にプロ・マネジメントとは捉えず,労働者個々人の「自由」の復権も加えて,総じて「集合主義の砦から〈個人〉を“救出”する」ものと評価されることで,「自由」に対する集団主義的規制の排除を通じて「個人主義化」という時代の「変化」を促進した政策の姿が浮き彫りにされている。

          

 以上のように,本書は,80年代イギリス労使関係像に関して,混沌とした先行研究の内在批判に挑まれ,独自の見取り図を描かれたという点で極めて先進的である。しかも,実態との緊張感を保ちつつ先行研究の整理検討を進められた様子がいたるところに伺い知れる。著者が滞在されていた時期のイギリスは,EC社会憲章の動向や貧困問題の深刻化といった著者ご自身も言及されている状況をはじめとして,「変化」を見極めるには大変難しい状況が錯綜していた。そのような中で,先進経済社会の「基本趨勢」としての「変化」が進展していることを仮説提示されたことは貴重な業績であった。評者は,著者の仮説が今後の研究蓄積の中で生命力を付与されていくためには,少なくとも2つの領域でのまとまった作業がわれわれに課せられた次の課題となってくるように思う。
 1つは,職場実態調査を着実に行い,「変化」の内実を更に深く究明しつつ,それを労使関係の史的類型の異なる他の産業社会における「変化」の実態と比較分析しながら,実態におけるイギリス的個性を抽出する作業であると思う。そしてその結果を,イギリス80年代の「変化」を捉える論理へと収斂させてゆくことが大切だと思う。 80年代の特に後半以降,自動車を中心に現地基幹企業への調査アクセスが難しい状況になっており,現地研究者による職場実態調査が手薄になっている。それでも90年代に入り,ウォリック大学労使関係研究所の2研究者によって実施された運輸一般労組の新規加入組合員の意識調査(簡単な概要紹介は,Research Review,Warwick IRRU, No.6)やフィル・ギャラハン(Philip Garrahan)とポール・ステュアート(P.Stewart)による3つの代表的自動車組立てプラント職場組合組織の自律性に関する調査(中間レポートは,The Role of Social Agency in the Application of New Organisation and Management Strategies, Employment Research Unit Conference,Sept.1992)では,組合組織化および「新しい労務管理」に対する職場労働側の対応に「伝統的」パターンが色濃く確認されている。例えば,労務慣行革新のインパクトを伝統的な職場生産性交渉の手法で吸収してゆこうとするアプローチなどである。手続きと成果配分を重視するアプローチで,変化に対応する場合のイギリス労働組合運動の体質が現れている。そこで著者が分析対象とされた80年代のマクロな「変化」と90年代のミクロな実態調査で確認されている「伝統」を,基幹となる事実の掘り起こし整理を踏まえて,論理的に詰める作業が今後に残されている。つまり,「個人主義化」は必然的かつ長期的に「無・組合主義」と一体化してゆくのか,という論点である。この論点は,次の2つ目の課題との関わりで言えば,イギリス労使関係の「伝統的」要素の成立の論理と矛盾・衰微の要因が,果たして「〈集団的労使関係から個別的労使関係へ〉」という図式で十分に説明しきることができるかどうか,という論点につながっている。
 この場合,日本人研究者の役割としては,比較的接近し易い日系事業所におけるシングル・ステイタス(ハーモナイゼーション)の実態を,移転可能性といった80年代的視点から暫し離れて,多角的に,制度立上げのプロセスの分析にまで遡って明らかにし,それを日本国内の親事業所との精緻な比較に戻してゆく作業が大切になるのではなかろうか。その作業を基にして,最近の「変化」が何故,どの様な論理を伴いながら生じているのか,そして「変化」の中に,著者の表現をお借りすれば「不用意に「日本的」なるものへの収斂……といった安易なイメージを浮かべてはならない」イギリス的な論理がどの様な形で滲み出ているのかを捕捉してゆくことになると思われる。
 2つめは,イギリス労使関係史の文脈に80年代の「変化」を引き据えて,相対化してみる必要性がある。この場合,ドノバン報告当時からの比較的最近の文脈,および世紀転換期以降の今世紀イギリス労使関係という文脈が設定しうると思う。実は評者は,現代イギリス労使関係の「変化」を捉える方法として「1980年代」に注目する積極的な意味を良く理解できていない。と言うのも,評者は“企業内労使関係のフォーマル化”“企業内労務管理の革新強化”といった方向性は基本的には60年代後半の労使関係改革をめぐる国民的議論の中から,象徴的には「ドノバン報告」のプログラムという形で提起されてきたものであって,その後70-80年代の実態の動向は,客観的に観ればその実現過程として理解できるのではないかと考えているからである。最近のイギリスにおける議論でもこの視点が強調されているように思う(例えば,BJIR,Vol.31,No.2の諸論文)。そこで,この観点から,80年代における政策と実態「変化」との関連を問題にした場合,政策に対するもう1つの評価の道筋が見えてくるように思う。つまり,ドノバン以降70年代を通じて,苦情処理や権利紛争に関して立法的手続きが体系的に整備された結果,イギリスの職場労働組合機能の核心部分が立法制度によって代位され,紛争処理における個人主義化が進展した。いわゆる労使関係の「法律主義化」である。「法律主義化」は集団的手段を媒介とする問題解決行動の必要性を低下させ,職場に根づいていた伝統的な組合機能の重要部分を吸収していった。つまり,サッチャー政策はこの面では新奇なものではなかった。むしろサッチャー時代の特に後期の立法改革は,労働審判所の救済基準や手続き要件を過度に厳しく限定することによって,組合人気の回復として時論的に取り上げられている80年代末以降の状況が示すように再び個人と組合機能を接近させてしまったのではないか。従って,「ドノバン」以降,労使関係実態は長期安定型の“フォーマル化”という方向性を辿ってきているにも拘わらず,80年代の政策が短絡的な反組合主義や過度の個人主義に傾きすぎてしまったという負の側面が問題化するかも知れない。つまり,70年代における変化の基本線と変化のロジックが80年代の「変化」を捉える上で意外に重要なのではないか。むろん,保守党内部の権力構造の変動が既に70年代前半に進行しつつあったことの意味づけも,この中で必要になってくる。
 次に,著者の仮説は,いわゆる「集団的自由放任主義」論そのものに対する再検討を,今世紀イギリス労使関係史の文脈に即して行うことを不可避にしたように思われる。「集団的自由放任主義」論は,戦時挙国一致体制の継承として極めて歴史性をもって成立した戦後の労使関係システムが最も安定的に機能していた1950年代半ばに,イギリス労使関係の普遍的な見取り図として理論づけされた。この国の労使関係に「伝統的」とされる諸要素(例えば,産業別協約体制,職場組合機能,立法的干渉の抑制など)は,この時期の一時的な安定の中で実態を持ちえたものに他ならないが,オックスフォード大学に集う当時の代表的労使関係・労働法研究者たちは,この戦後安定期の一過性の到達点をイギリス労使関係の「伝統的」なるものと呼び,かかる論理づけを遡及させてイギリス労使関係史の民主主義的に成熟した特性を描く作業を行った。彼らはダンロップほどには普遍主義を要求しなかったが,少なくともこの特性描写には大陸諸国の労使関係制度に対する優位性の自負が暗示されていた。イギリス労使関係の不動の底流を成してきたこの国固有の“近代性”は,むしろこの国の労使関係の“理性”の表現として理解されていた。例えば,“集団的”労使関係制度が育成されていくための初発条件である労働組合への法人格付与は一貫して行われず,従って労働協約の法的効力も極めて不安定であったが,彼らはこの状況を敢えて「紳士協定」と名づけ,イギリス的“理性”の表現と捉えたのである。
 しかし,今日,「伝統的」なるものの歴史性や行き詰まりがはっきりしてきている。 TUCが,労働組合への法人格承認を射程に入れた「労働基本憲章」構想を検討したり,代表的自動車企業ローヴァー社がシングル・ステイタスに移行し,人間労働を一物一価の法則で評価するような賃金制度を廃棄した事実は,イギリス労使関係の“近代”から“現代”への転換の始まりを象徴する出来事であった。ただし,転換がどこまで本質的な深まりをもつかは未だ即断できないのは言うまでもないが。この意味で,評者は,著者が明確にされた80年代の実態「変化」は未来への趨勢というよりも,“近代”の清算である可能性が高いと見ている。「集団的自由放任主義」論の“理性”が働かなくなったのである。そこでわれわれにとっての課題となるのは,イギリス労使関係の「伝統的」なるものの論理の再検討ではなかろうか。すなわち,労使関係におけるイギリス特有の“近代”の論理,その今世紀における受容・継承の論理,そして閉塞・変貌の論理を探ることである。この作業は,サッチャリズムの「個人主義」を歴史的視点から評価してゆく前提をなすと思われる。また,イギリス労使関係制度の将来像が〈国際社会政策〉あるいは大陸モデルに何処まで接近してゆくことになるのか,それとも「企業内化」に閉塞してゆく必然性を孕んでいるのか判断する上で決定的に重要であると思われる。

 以上,本書を読み終えての率直な印象は“稲上理論は手強い”の一言に尽きる。評者のように方法,視点が未熟な者が,しかも学的領域の違いを弁えず書評させて戴いた理由は,本書が今後の自分の研究方向を見定めて行く上で宝の山に思えるからである。おそらく本書の問題提起を適切に受け止められているとは思えない。著者のご海容を賜りたい。





東京大学出版会,1990年11月,ii+231頁,定価3,399円

おがさわら・こういち 山形大学人文学部助教授

『大原社会問題研究所雑誌』第426号(1994年5月)



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