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『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版



野村正實著
『熟練と分業――日本企業とテイラー主義』



評者:中村 真人


 1993年,野村正實が2冊の著書を公刊した。一つは『トヨティズム』,もう一つがこの『熟練と分業』である。野村は,自動車産業,電気機械産業などの分野の現代日本企業について,その生産と労働をめぐって実態調査を蓄積してきた。『トヨティズム』は,その名のとおり,自動車産業に取材しながら,日本企業の生産と労働のあり方を論じている。それに対して本書は,労働組織に関する問題について,一方で小池和男説批判を手ががりとして検討課題と基礎範躊の明確化をはかりつつ,他方で電気機械産業,工作機械産業などについて自ら行なった実態調査を踏まえて積極的な立論を試みるものである。したがって,両書は相補的な関係にある。そして,取り上げられている事柄の性質上,本書のほうが地味な印象を与えるけれども,内容を見れば『トヨティズム』に対して従属的な関係にはなく,むしろ独特の問題提起が示されており,また大胆さゆえに議論の余地は十二分にあり,独自の魅力によって着目されるべき書物となっている。

 本書前半は「論争」と銘打たれて,小池和男説への批判論文3篇を収める。小池説は,日本の労働関係と人事管理を肯定的に評価する1980年代に支配的となった論調の代表としてとりあげられている。まず,小池和男の『仕事の経済学』(東洋経済新報社,1991年)から,「知的熟練」,「年功賃金」,女性労働,労働組合,以上4点引用符「 」は野村による)が論じられる。なかでも「知的熟練」は小池説の基本概念的な位置にあり,野村・小池間の議論もここを中心に交わされている。小池は日本大企業の「生産労働者]の熟練には,一企業内での広範囲の職務経験により比較的に広い幅の技能を形成し,企業特殊的な知識を蓄積するという,ホワイトカラーに通じるような「知的」性格があるとし,これを日本企業の効率性の要因として評価する。しかし,この「知的熟練」概念は,長期雇用慣行下にある大企業の男性正規従業員にしか該当しない。それだけでなく,大企業生産部門の男性正規従業員であっても,ライン労働などにたずさわる不熟練・半熟練の直接生産労働者にしか妥当せず,保全,検査,工機部門などの専門工の分業上の地位と熟練形成とを説明することができない。
 野村は,製造業大企業の製造部門(開発・試作部門に対して)だけをとった場合でも,その労働力編成には,専門工という熟練労働者,生産管理技術者,不熟練・半熟練的な労働者,さらに技能に関して下位にある下請企業労働者や「パートタイマー」など非正規従業員といった,労働者の諸類型が見出されることを指摘する。さらに,これらが相互にどのように編成されているか,が検討されなければならないことを提起する。そして,この発想から見直すならば,日本企業の効率性なるものを,直接生産労働者の技能のあり方に帰して高く評価するといった議論が,根底から疑われなければならない。
 小池説の基礎にある「知的熟練」論は,企業内外の労働力編成のあり方についての単純すぎる認識にもとづくことが既に指摘された。それでは,なぜ,この野村による議論以前に十分な批判がなされなかったのだろうか。野村は,小池と彼の批判者たちの双方が「氏原正治郎の熟練論」を共有していることを原因と考える。論文「大工場労働者の性格」(氏原正治郎『日本労働問題研究』東京大学出版会,1966年)をはじめとする二,三の論考に提示された氏原の「熟練論」は,現代大工業労働者の労働を,間接管理下の親方労務者に統括された旧型熟練が解体したものとして消極的にしかとらえておらず,あらたに現れた企業内分業と技能形成方式の積極的な像を描いていない。しかもこの「氏原熟練論」は,その後の研究関心の変化のなかで発展させられずにきた。以上が,「東京大学社会科学研究所を中心としたいわゆる東大グループ」(p.64)による研究史の検討にもとづいて主張される。

 後半部「実態」では,まずはじめに電気機械企業TV工場の基板組立工程がとりあげられ,量産組立という類型の職場での労働力編成が検討されている。そこでは,大きく内製,構内外注,構外外注という3部類の労働力が作業に携わっている。基板組立の自動化は88%から98%と高いが,これは自動化することがコストから見て有利にならないような業務を構内と構外の外注によって行なうことを条件としている。また,内製部分の内部でも,生産技術者,特別の教育訓練を経た高技能者,自動機を扱う技能者,単純作業に従事する女性作業者という少なくとも4類型の労働者が観察されている。これらの間には知識水準と技能についての違いが見出され,テイラー主義的な分業があるとされる。「多能工化」,ジョブ・ローテーションといっても,それはこうした労働力群の枠を越えない範囲でおこなわれ,しかも生産技術の応用による熟練排除によって可能になっているという。
 これと対象的ともいえる類型が,次に取り上げられている中規模の工作機械会社の事例だ。FMSラインでは,高い熟練技能をもつ(あるいは持つことを期待されている)労働者をOJTとローテーションによって高位平準化することが追求されている。これはドイツの「労働人間化」プロジェクトがめざす革新的労働組織に類似している。こうした「非テイラー主義的」な労働組織が日本の工作機械会社で自然発生的に実現しつつあるのは,どのような条件によるのか。まず,工作機械製造はロットが小さくリードタイムが比較的に長い非量産の業種に属する。次に,現場の作業労働者は全員が工業高校卒の男性である。しかも長期雇用慣行のもとにあり,これと照応して賃金は属人的である。こうした企業内の労働力の均質性は,16%と内製率が低いこと,つまり単純労働に依存する労働集約的諸工程を下請会社へ外注化することにより,可能となっている。野村は一連の観察から,労働組織の特徴を「量産」対「非量産」,「男性生産職場」対「女性のいる生産職場」という2つの軸で4象限に分けて,企業の類型化を試みる。革新的労働組織に類似した「非テイラー主義」が「非量産」「男性生産職場」にだけ現れ,しかもそれが「非量産」「女性のいる生産職場」である工作機械下請企業の「テイラー主義」によって支えられていることが示されている。また特に自動車企業が「量産」「男性生産職場」とされて,同じ「量産」でも「女性のいる」電子企業と対比され,類型化により個々の調査対象の相対的な位置が明らかにされているのは,実態調査を基礎とするこの種の研究にとって忘れられがちだが必要な手続きである。
 最後に,日本企業の技術革新の特徴が,ドイツ,フランスを始めとするヨーロッパ企業と日本企業との国際比較調査研究に依拠しながら論じられている。そして,ME技術の導入を規制するために電機労連とその傘下の大手企業に組織された労働組合(野村の用語では「企業内組合」)が行なった労使協定締結運動が,不十分にしか取り組まれていなかったという事例が取り上げられ,日本の労働組合が新技術導入に対してとる容認的な姿勢と,そのような姿勢の原因とが検討される。

 いくつか論点を挙げよう。第一に,本書がもつ意義は,何よりも,社会政策学から発展した労働問題・労働経済研究という潮流に属する研究者が,現代日本企業の生産方式と労働組織の特徴を解明しようとするところにある。労働過程・生産過程の内部で具体的な労働がどのように編成されているか,ということについての理論は,氏原とその後継者たちによる労働問題研究によっても,また隅谷三喜男によって構想された労働経済論によっても,十分に発展させられてきたとは言いがたい。しかし,彼らにおいても,経済活動にたずさわっている労働力が,いかなる種類の労働力群からなるかを労働の質にもとづいて識別・分類し,さらにそれら相互の関係――労働力編成――を明らかにすることが,課題として意識されていなかったわけではない。氏原にあっては,この課題は労働過程・生産過程の内部W(Pm・A)…P…W’ではなく労働力商品の流通過程A―Gに即することによって追求された。
 本書では「氏原熟練論」について多くの紙数が割かれている。しかし,氏原は「熟練論」なるものを明確に構想したと言えるのだろうか。「大工場労働者の性格」で労働過程が関心の対象となっているのは,「近代産業が要求するところの労働過程が労働生活におよぼした影響」(前出の氏原『日本労働問題研究』p.351)という点についてである。また同じく,熟練については,大工場労働者の一般的性格を規定する要因として,労働力の供給構造とならんで検討されているのである。本書の「氏原熟練論」は野村の構成になるものである。むしろ,氏原の仕事の流れは,「大工場労働者の性格」ののち,「労働市場の模型」(『日本労働問題研究』所収)で労働市場の階層的構造を特徴として描き出し,「労働市場論の反省」(『経済評論』第6巻第11号,1957年11月)で日本の労働市場を複数の市場の複合体として把握しようとする関心を明確に示し,京浜工業地帯から南関東一帯に広がる地域の労働市場を対象とした『日本労働市場分析』(高梨昌と共著,東京大学出版会,1971年)へと向かった。すなわち,氏原は,労働力編成の問題に対して,新規学卒者労働市場調査および一連の京浜工業地帯調査に素材をもとめつつ,労働市場論によって解決を与えようとした。
 この営みは,労働市場論を基礎にもった労働問題研究の確立をもたらし,その潮流から豊かな成果を生み出した。しかしそれはまた同時に,労働過程・生産過程の内部に視点をすえた労働組織論の未展開をも結果することになった。野村の試みは,この欠落を発見し,その補填をはかろうとする。
 第二に,労働組織についての研究が試みられていながら,労使関係の認識は未だその基礎の上に十分に展開されていないように思われる。たとえば,野村の「企業内組合」論は,現代日本の労働運動に対して分析以前に否定的評価を背負わせている。そのような議論には,労働側からの抵抗の契機が,どのようなメカニズムによって,どのような形で体制内化されているか,という関心は,存在しうる場所がない。仮説の裏付けとならない事実はたとえ存在したとしても無視する,というような研究姿勢を問題視したのは,他ならぬ野村による小池説批判だった(p.50)。実態調査研究の豊かさは,調査者自身が意外感に打たれるような,新たな事実発見によって,既に立ててあった仮説が粉砕されてしまうという経験の繰り返しによって与えられると私は考える。「企業内組合」論は,1980年代労働研究との対話すらできない硬直化した党派がもつ労働運動についてのドグマに類似している。

 最後に,もう一つだけ述べておきたい。野村の一連の労作は,社会政策・労働経済研究の範囲を超えて,企業と労働に関しての社会科学的研究の諸領域にとって刺激に富むものである。「会社という組織の分析にたいして労働研究がどのような寄与をしうるのか,他分野の研究者にも魅力的な企業論を提示することが求められているのではないだろうか。」(p.139)との提案に私も賛成する。ただし,次のことは気になる。「日本の労働研究では」「日本における議論では」といった口調で既存研究が論評されている。しかし,このように一般性を含意する表現をとるのであれば,もう少し広い視野が必要ではないだろうか。日本の労働研究は,東京大学社会科学研究所に関わりをもった研究者だけが担ってきたわけではない。このことは本書中でも確認されている。だが,さらに労働研究それ自体が,社会政策学会に拠る労働経済研究者だけでなく,歴史学者や政治学者や労働法学者をも包含した,学際的領域である。特に,経営学を専攻して生産管理や労務管理を研究してきた人たちには,生産方式と労働組織についての議論の蓄積がある。「日本においては,最近まで,テイラー主義についての議論はなかった。」(p.121),「……こうした問題設定はまったくなされなかった。……日本の労働研究は,企業内分業を意味する“work organization”,“Arbeitsorganisation”に相当する専門用語をもっていない。」(p.70)といった論述は,日本で労働を研究してきた経営学専攻の人たちを当惑させるかもしれない。彼らの研究成果がどのように評価されるにせよ,それは研究が存在しないことを意味しない。
 さて,本稿は『熟練と分業』評であるために,『トヨティズム』の方に良く達成が示されている国際比較に裏付けられた側面については言及しなかった。ともあれ,結語として,1990年代労働問題研究の現状批判的潮流が,これら2冊の労作を共有できたことを喜びたい。




御茶の水書房,1993年,vi+237頁,3,500円

なかむら・まさと 駒沢大学経営学部助教授

『大原社会問題研究所雑誌』第429号(1994年8月)



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