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『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版



杉山章子著
『占領期の医療改革』



 評者:南雲 和夫




1 はじめに

 いわゆるアジア・太平洋戦争の敗戦,そして連合国による占領を迎え50年を経過した今日,わが国では歴史学・政治学・経済学・教育学などの様々な立場の研究者から,今なお占領期に関する幾多の著作が輩出している。
 しかし社会福祉関連の分野については,村上貴美子氏らによる先行研究などが若干みられるものの(注1), 占領期の医療政策そのものに焦点を当てた体系だった業績は殆ど皆無に近い状態だったといってよい。本書はまさに,このような占領史研究のいわば“空白”を埋めるべく執筆された論考と言っても過言ではないであろう。なお著者は現在,医療の現場で就労している医療労働者であることも付言しておきたい。

2 本書の概要

本書の主な構成は以下のとおりである。
まえがき
序章 戦後史の原点
 一 歴史学からのアプローチ
 二 世界政治と日本占領
 三 近現代史の中の占領期
 四 医療史の中の占領期―問題の所在―
第1章 占領軍と占領政策
 一 初期占領政策と新憲法
 二 占領管理機構の成立
 三 占領政策の転換
第2章 占領期の医療政策
 一 公衆衛生福祉局(PHW)の成立
 二 行政機構の改革
 三 予防医学の導入
 四 医療制度の改革
 五 医療保障
第3章 占領期医療改革の展開
 一 占領への準備
 二 占領統治の開始
 三 公衆衛生の諸政策
 四 保健所制度の改革
 五 病院制度の改革
終章 占領政策の評価
 一 占領軍による評価
 二 日本側による評価
 三 占領政策の複眼的把握
あとがき

 まず著者は序章で,占領期研究における視点についてこう述べる。
 「敗戦からほぼ半世紀経過した現在,占領期を歴史研究の対象として検討する視点が求められている。現状分析とは区別された歴史学独自の方法で占領期を研究するためには,扱う主題についてさまざまなアプローチが考えられるだろう」(3頁)。そして,本書で述べられる医療改革については,「占領期の医療政策は,それ以前の日本の医療と全く切り離された状態で開始されたわけではなかった。占領開始前の準備段階において,アメリカ軍は日本の行政制度や医療機関および医師をはじめとする医療関係の人材,疾病構造などについてかなり詳しい情報を得ていた。……占領期の医療政策は,……基本的目的が,軍事的な意味をもっていたことは当然である。しかし,その実施過程は間接統治の民生部門としてGHQ/SCAPによって担われたために,狭義の軍政の枠に収まりきれない広がりをみせた」(12−13頁)としている。
 第1章で著者は,まず占領政策策定の初期には医療政策についての独自の方針は対日方針と基本的指令にも存在しないとし,「占領計画においては,医療政策と呼べるものは存在せず,占領政策の手段として医療が必要とされていた」(21頁)ものと判断している。
 続く第2章では,GHQ/SCAPで医療政策の立案を担当していたPHW(公衆衛生福祉局)の成立とその局長サムスの役割について述べ,一般命令に記されたPHWの任務が伝染病や社会不安の予防,市民の健康管理方法の確立又は再建の促進,基本的公衆衛生活動の早急な整備,健康,衛生,引き揚げに関する検疫についての規準を日本の関係機関に要求することなどが挙げられたとしている。もっともこれらはあくまで,「連合軍の目的」ないし「占領軍の任務を妨げるような病気の蔓延」の防止という目的のために出されたという面を忘れてはならないであろう。またPHWと共に戦後の公衆衛生行政を担った厚生省についても,保健所の整備行政に関しては「PHWは日本の中央集権的行政機構を最大限利用して,技術行政を推進しようとし,厚生省側も同様の方向で協力した。……PHWと厚生省の利害は常に一致していたわけではなく,保健所強化の覚書作成の際のような対立もあった‥‥‥(64頁)と指摘し,占領行政の「受入れ側」である厚生省の協力が必ずしも円滑に進んでいたわけではなかったと述べている。
 第3章では,占領期の医療改革の道程および具体例に沿った分析が行われ,占領政策における医療および公衆衛生の改革について論じている。特に「三 公衆衛生の諸政策」の中では,占領軍を迎えるにあたって日本政府がまず「性的慰安施設」(RAA)を準備したこと,またその一方で性病対策として「性病対策に関する件」(SCAPIN 642)を出したことを指摘しながら,「公娼制度は形式的には廃止されたものの,日本政府もアメリカ軍も,実質的廃止へ動いたわけではなかった。公娼がなくなっても占領軍相手の街娼の増加により,性病の蔓延は相変わらずであった」(135頁)と述べている。そして著者はこれら占領軍による性病対策および公嬌対策の本質を,「『民主主義』を掲げて公娼廃止を指示し,女性を解放しつつ,その一方では女性を性的対象物として扱い,性病予防のためには人権を無視した強制検挙を繰り返した」(136頁)ものと捉え,その二面性を突いている。
 この性病対策と公衆衛生改革の関連については,次の「四 保健所制度の改革」の項でも論じられている。ここで著者はPHWが保健所を性病対策の拠点としてその役割を重要視していたことを指摘し,それが後に性病や伝染病対策のみならず,総合的な公衆衛生政策の拠点としての役割を担わされたものとしている。ただ保健所改革に当たっては,PHWが強調したようにアメリカの一方的なイニシアチブによるものではなく,地域住民の運動や公衆衛生関係者との結びつきによる「下からの」改革の動きが存在したことなどを挙げている(大阪の豊中保健所の例)。そしてそうした潮流が戦後の保健所改革の主流になりえなかったのは,公衆衛生行政の流れが戦前から戦後にかけて「強い兵隊を作ることや軍隊を守ることが優先され」(189頁),「保健所の位置づけや活動は,政治・経済の変動によって容易に影響を受けやすく,不安定」(同頁)だったことなどを原因として指摘している。
 終章では,以上の考察を踏まえた著者の占領期の医療政策への視点が示されている。この中で著者は,占領期の医療政策の対象分野が疾病予防から環境衛生・病院整備・医薬分業・医学および看護教育に至るまで多方面にわたったことを指摘しながら,「占領軍が施策を講じたのは,すべて占領軍自体または占領政策に直接影響を及ぼす分野であった」(228頁)としている。
 そして「アメリカの力なしには得られなかった占領政策の成果を,日本人がどれだけ自らのものにできたかという問題である。……全体としては,占領政策の成果を,日本人の側が十分に受け止めることはできたとはいえない」(234頁)と総括し,占領期における医療改革の不十分さには,それを受け入れた日本人の側の問題点があったと結論づけている。

3 残された課題

 今日の医療問題との関連で占領期の医療政策を考察しようという著者の試みは,高齢社会の進展そして年金・医療問題が国民の関心事になりつつある現在,貴重な試みと評価されてよいであろう。ただ戦後の医療史の歩みで問題とすべきは,著者も「あとがき」で指摘しているとおり憲法第25条を「具体化するためのシステムを欠き,生存権を自ら獲得していこうとする国民の動きが有効に組織されなかった」(271頁)ことであろう。日本の医療は確かに統計的には世界一の長寿国を達成したが,高齢者の医療・福祉政策の現状は必ずしも先進資本主義国に冠たるものとは言い難い状況にある。こうした状況がなぜ生み出されたかについては,占領期以降の政策展開と合わせた考察が今後必要となろう。
 また日本が戦後占領軍に対して,RAAのような施設を提供したことについての背景なども,昨今政治問題化しているいわゆる「従軍慰安婦問題」などとの関連抜きには論じられない側面があろう。この「軍隊と性」の問題は,今秋開催の「北京女性会議」でもNGO団体等によって取り上げられた程国際的にも関心の高い問題ではあるが,国際社会で近代人権法が確立した20世紀になっても国家レベルで「慰安所」なるものを設営し,強制的・半強制的に「慰安婦」を狩り集め軍隊に提供したのは,やはり日本以外に存在しないのではなかろうか。こうした点に日本の政治指導者の人権感覚の遅れと,「民主化」「非軍事化」を掲げて日本を占領したにもかかわらず,RAAのような施設を結果として受け入れた占領軍の「限界」を感じるような気がするのは評者だけではあるまい。
 なお,戦後文部省の管轄にあった伝染病研究所から分離する形で誕生した国立予防衛生研究所(以下,予研と略)の活動について,著者はPHW局長サムスがその創設に関与したこと,また米軍の原爆傷害調査委員会(ABCC=Atomic Bomb Casualties Committee)に予研が協力した問題などを指摘しているが(70頁),常石敬一氏は近著で予研にかつての関東軍第七三一部隊の技師たちが戦後流れていき,うち数人は後に所長を務めたことを指摘している(注2)。七三一部隊については作家森村誠一氏をはじめ多数の著作があり家永教科書裁判(第三次)でも争点の―つとされたが,戦後の同部隊とGHQ,そして予研との関連については不明な点もあり,現代史家による今後の解明が期待されるところである。またアメリカの占領政策を沖縄・韓国との関連で考察する必要性について著者は本書で再三指摘しているが,それはまさに評者が研究対象としている分野でもあり,自らへの問題提起としても受け止めていきたいと思う。

注(1)村上貴美子『占領期の福祉政策』(1987年,勁草書房)など。

注(2)常石敬一『七三一部隊』(講談社現代新書,1995年)。



勁草書房,1995年5月,xi+280頁,定価3,296円


なぐも・かずお 東京経済大学大学院博士後期課程

『大原社会問題研究所雑誌』第444号(1995年11月)



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