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『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版




中山 章 著
『イギリス労働貴族――19世紀におけるその階層形成



評者:松村 高夫



 イギリス労働史学界では,労働貴族論をめぐって一定の研究蓄積と論争がある。その論争は,19世紀中葉イギリスで生じた社会運動・労働運動の体制内化ないし右傾化の原因を説明するものとして,E. J.ホブズボームが1954年に発表した論文「19世紀ブリテンの労働貴族」に端を発した論争である。ホブズボームは,労働貴族を規定する6つの指標を設定したが,そのなかで所得水準とその規則性を重視し,労働貴族の労働者階級全体に占める規模を,(1)賃金率と(2)労働組合員数から推計し,約10%と算出した。R. ハリスンはホブズボームが経済的分析に注目したのに対し,政治的分析を行い,開明的ブルジョアと労働貴族の連合が,1860年代の第二次選挙法改革運動を担ったとする分析を通して,労働貴族が,常に,どこでも,反動的勢力であったわけではなく,第三・四半期には特定の条件のもとで進歩的役割を果したことを示した。さらに,R.Q.グレイやG.クロスィックは,それぞれエディンバラとケント州ロンドンという地方史研究のレヴェルに焦点を合わせ,社会的分析を行ない,ある特定地域で労働貴族層がいかに形成されるかを明らかにした。
 一方,H.ペリングは,労働貴族概念は「歴史的真実にとって有益であるより有害である」として労働貴族論を否定し,19世紀がすすむにつれて,労働貴族層が形成されるどころか,労働者階級は技術革新に伴う熟練工の没落の結果ますます均一化していったとした。ペリングによれば,労働貴族概念はマルクスが予言したような社会主義革命がイギリスでは生じなかったことを言い繕うためにマルクス主義者が鋳造した用語にすぎないというのである。 A.E.マッソンも労働貴族を「労働史上の大きな神話である」として否定した。
 ホブズボーム=ハリスンとペリング=マッソンの間で論争が生じて以降,労働貴族論争にはさまざまな論者が加わり,イギリス労働史学界の主要なテーマの一つになってきたが,この論争の背後には,各論者の歴史理解の根本的差異,即ち,断続説対連続説,悲観論対楽観論,マルクス主義史観対非マルクス主義史観が潜んでいるので,19世紀の生活水準論争と同様に,終着点は容易に見いだせないという状況にある。
 本書は,この労働貴族論に真正面から取り組んだ労作である。第1章「19世紀イギリスに固有な現象としての労働貴族」では,エンゲルス,レーニンの労働貴族把握からはじまり,ホブズボーム以後の多数の論者の主張が整理・紹介されている。弟2章「アーティザンと労働貴族」では,機械工業と綿工業のアルティザンが詳しく分析され,「労働組合に組織されたアーティザンを労働貴族とみなすことにする」と指摘される。さらに第3章「社会成層とリスペクタビリティ」では,世代間職業継承や結婚類型を通して,アルティザンのある部分がアルティザン・エリートとしてひとつの階層を形成していたことを,グレイやクロスィックや松村の研究に依拠して指摘し,さらに協同組合と友愛組合を軸に労働者のリスペクタビリティを分析する。そして,「個々の労働者が,そのリスペクタビリティを表示するには,どのような集団に加わっているかが重要であって,その点で,数ある諸制度の中で協同組合,加盟友愛協会,そして労働組合が重要な役割を果たしたのである」(p.162)と結論づける。さらに,リスペクタビリティを中産階級の社会的規範であり,労働貴族はそれを受容したとするウェッブやコールの捉え方(=伝播説)に対し,ソルフセンは,リスペクタビリティをはじめとする「労働者の文化は,決して中産階級の理念に全面的に浸潤されたものではなく,一面ではそれに厳しく対立する特徴を示すものであったと論じている」(p.166)とする。
 第4章「トマス・ライトにみる尊敬されうるアーティザン」は,労働者階級の内部に労働貴族層が存在したことを同時代人が示したものとして,ホブズボームやR. ハリスンによって引用されたトマス・ライトの3部作を分析した章である。それは『労働諸階級の性向と習慣』,『偉大なる下層民』,『われらの新しい主人たち』で,いずれも1860年代後半から70年代前半に刊行されたものである。著者はライトの3部作の分析を通じて得られた内容は,本書の第2章と第3章での結論,即ち,「労働組合に組織されたアーティザンが,アーティザン・エリートとして労働貴族層を形成していたということを改めて確認しているといえよう」(p.222)と述べる。最後に「むすび―自由労働主義と労働党の成立」では,「労働貴族を主体とする1840年代末から80年代にかけての労働運動は体制の内部にしっかりと定着することになった」(p.225)のであり,それは「自由労働主義といわれる運動展開に典型的にみられる」(p.226)とする。そして,1900年に成立した労働党(L.R.C.)は,「機構的に自由党から独立することができたが,政策的には自由労働主義の延長線上に立ったことになった」のであり,「いったん制度化された労働貴族の運動を克服することはきわめて困難なことであって,それは労働党の成立にまで根強い影響を及ぼしたのである」(p.239)と述べて,本書は終っている。結局,労働党は「自由労働主義のいわば延長線上に立つ改良主義的労働者政党にしかなりえなかった」ということを確認するのである。
 このように,本書は労働貴族論争の整理・紹介からはしまって,1900年の労働党の成立とその性格規定まで行った,19世紀後半のイギリス史全体をカヴァーするものである。イギリス労働史学界の諸々の業績を充分にとり込み,本書全体を通して論理的に展開された労作であることは疑いえないところであろう。とりわけ,第2章の機械工や綿業労働者のアルティザンとしての位置づけを,生産点における労働編成や組織的組合運動との関わりで具体的に分析した点は大きな貢献である。また,第3章のリスペクタビリティというヴィクトリア人の価値観にメスを入れ,後述するような批判点はあるものの,この困難な課題を具体的に分析したことも高く評価されて然るべきであろう。この2つの章を通じて,ヴイクトリア期のアルティザン・エリートの実像が生き生きと照射され,浮び上がってくる。このように本書を高く評価する評者は,それでもなお,次のような疑問点をもたざるをえない。
 第1は,著者自身の労働貴族論が必ずしも明示されていないという点である。労働貴族論争上の経済的分析,政治的分析,社会的分析の奈辺に位置しているのか,そのいずれでもないとすればいかなる新しい視点を提示しているのか,著者のスタンスが捉えられないのである。労働貴族肯定論者のなかでも,ホブズボームのような経済的要因を労働貴族の形成条件とする伝統的マルクス主義の方法と,かれの労働貴族論を「経済決定論」であると批判し,文化や価値を重視するグレイやクロスィックたちの方法との間には,大きな差異がある。第1章でも第3章でも両者の説が並置され紹介されているので,著者自身の位置が明らかでないのである。伝統的マルクス主義と「文化的」マルクス主義は,イギリスでは平和共存しているのではなく,厳しい緊張を内にはらんだ関係にある。
 第2は,以上の点に起因すると思われるが,著者が全く方法論を異にし見解を異にする(ある場合には対立的な)諸研究から,「自由自在に」引用し,自らの論理を展開している点である。例えば,第3章のリスペクタビリティを論じた個所(pp.164―175)では,ソルフセンとグレイ=クロスィックは基本的に同一理解とされ,クロスィックの方法が本来は,一方ではJ. フォスターの「硬直した経済決定論」を克服する試みであっただけでなく,他方ではT.ソルフセンの「イデオロギーと意識の分析において,両者を思想の相互作用から説明する本質的な概念論」(G.Crossick,Artisan Elite in Victorian Society,p.14)を克服しようとする試みであったことが全く忘れられている。さらに,労働貴族否定論者のH.ペリングの主張まで引用される(p.169)。いまひとつ例を挙げれば,それは「むすび」のところにみられる。ウェッブ,コール,ベアー,ホブズボームという断続論者からの引用とクレッグ,ペリング(B.C.ロバーツまで入っている)という連続論者からの引用が,著者に都合の良いように「自由自在に」なされ叙述されると,評者の頭は混乱するのである。
 第3は,「むすび」で指摘されたように,労働貴族の主導する労働運動を改良主義的運動として一色に塗りつぶすだけでなく,それを労働党成立まで延長させている点である。著者は結局,労働貴族の理解を,労働貴族=「労働者階級のブルジョア化」としたエンゲルスまで逆戻りさせているのであり,ホブズボーム以降の労働貴族論争のなかで明らかになった諸々の点(労働貴族といえども戦闘性を示すことや労働貴族は独自の自律的文化・価値を有すること等々)が「むすび」の論理展開では排除されている。著者にとって,労働貴族論争とは何であったのだろうか。たんなる論争のための論争であったのだろうか。労働貴族の「改良主義的運動」を1900年の労働党成立まで延長するさいには,新組合主義や社会主義団体の意義を過小評価する手続きが必要になるのだが,著者はそれを,連続論者で労働貴族否定論者のクレッグの所説を利用して行っている(p.236)。これは著者の方法論上の混乱を示している。
 第4は,本書全体を通して,どこまでが著者の労働貴族研究整理であり,どこまでが先行研究による整理に依拠しているのかが,明瞭でない,という点である。第4章のトマス・ライト論は,A. リードの論文(著者も論文名を挙げ,「比較的包括的に分析した」(p.180)ものとしているが)の詳細な分析を越える内容は殆んどないと評者には思われるし,また,J. フイールドの労働貴族論整理の論文は明記しながら,安川悦子,見市雅俊,鈴木幹久,岡村健次,原剛,小野塚知二,佐喜真望等のイギリス労働貴族論争を扱った日本人の先行論文を一切無視しているのは理解に苦しむところである。





ミネルヴァ書房,1988年12月15日発行,3800円

まつむら・たかお 慶応義塾大学経済学部教授

『大原社会問題研究所雑誌』第374号(1990年1月)



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