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『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版




渡辺 雅男 著
『技術と労働過程論』




評者:増田 壽男



〔I〕

 本書は労働過程の一般理論の構築をめざして,次の七つの問題点を念頭において分析を試みたものである。1)技術の本質が中立的か否か,2)ME技術は機械を超えたか,3)科学技術は現代にのみ特有か,4)経営主体の転換,資本家支配は消滅したか,5)オートメーションのもとでの労働支配,労働過程は消滅するか,6)労働組合の制度的確立,労使協調で階級対立は消滅したか,7)社内の管理組織,「分権化」の意味。
 著者はこれらの問題について労働過程の一般理論を技術論と統制論で構成することによって答えようと試みている。本書での著者の主張点は大きくいって四つあるといえよう。第一は労働過程分析からする技術の本質とその展開の問題であり,第二はわが国の技術論論争を止揚する技術の本質把握の問題であり,第三は欧米の労働過程論争による統制論をいかに展開するかという問題であり,最後は前記の七つの設問に対する技術論と統制論の分析からの一定の結論を提出するということである。

〔III〕

 以下簡単に紹介することにしよう。まず第一の問題について,著者はマルクス『資本論』における技術論を詳細に検討し,技術の本質を次のように把握する。「技術とは生産力の実現のために自然の一般的法則の経験的あるいは科学的応用として成立し,行為そのもの(労働),その手段(労働手段),その対象(労働対象)を素材的(質料的)契機とする主体と客体との媒介様式である」(55頁)。そしてこの一般的技術規定の具体的・現実的上向過程として一つは技術の主体転換――労働の技術から資本の技術へ――,他の一つは形態転換――経験的技術から科学的技術へ――の論理を追求される。
 資本の往復による労働過程の価値増殖過程への変化は,主体的契機である労働と客体的契機である生産手段との結合様式である技術を「可変資本と不変資本との結合様式である資本の技術へ転化」(73頁)させ,技術の所有者の変化だけでなく,技術の内容も主体による客体の媒介・規制・統一が,「主体化した客体(生産手段の資本属性)による客体化した主体(疎外された労働)の吸収・抑圧・統制へと転化させる」(同上)。資本の技術は絶対的にも相対的にも最大限の剰余労働を労働者から引き出す技術であり,「人間的自然のもつ豊かさを掠奪する技術」「自然の豊饒度の持続的源泉を掠奪する」(74頁)ものである。そして氏は資本による労働の包摂が実現する場としての手工業経営,マニュファクチュア経営,工場制機械経営における技術の形態変化を追求する。
 手工業経営の労働過程は手工業的性格であり,ここでは資本は労働過程の技術的性格を変化させず形式的に従属させる。マニュファクチュア経営では技術的基礎は手工業的であるが,協業・分業という「社会的労働過程の質的編成」と「量的な規制と比例性」により,資本は労働を実質的に包摂する段階に移行させる。工場制機械経営は以前の経験的技術による手工業的技術と異なり,科学的基盤のうえに形成された新たな労働手段たる機械によって行なわれ,大工業は巨大な自然力と自然科学とを生産過程に合体させ労働生産性を飛躍的に高める。
 次に第二の問題について,著者は労働手段体系説が客体的要因において労働対象を除外している点,労働過程の全体的考察のなかから論理的に労働手段体系が技術であることを導出していない点を批判する。また意識的適用説については,行為の様式,仕方が具体的作業の内容によっても規定されていること,労働過程が設定された目的と作業様式が実現されるためには充用される労働力・労働手段・労働対象の一定の量的比率で媒介される仕方様式が成立しなければならず,このような質的・量的諸要因をすべて目的に還元することは無理であると批判する。そして戸坂潤,福井孝治,大谷省三の三氏のなかに両説を止揚する芽を見出し,両見解の統一性を高島善哉氏の「技術が単に生産力の特定の一契機においてのみ把握されるのでなく,それらの諸契機の統一において,すなわち生産諸力の構造関連それ自体において把握されなければならない」という見解に見出される。
 第三の労働と統制の問題について,著者は労働が本源的に有していた統制権を資本が奪い経営権の名のもとに労働にとって疎遠なものたらしめる過程は,資本が労働の搾取を行うための不可欠な前提であるとする。絶対的剰余価値生産を主眼とする形式的包摂の段階にあっては労働の外延的大きさ(時間的長さ)が統制目標であり,相対的剰余価値生産を主眼とする実質的包摂の段階にあっては労働の外延的大きさだけでなく,内包的大きさ(強度と質),生産力(技術),生産性(節約)が統制目標である。
 この実質的包摂の段階は個別的労働過程ではなく社会化された労働過程を支配する段階であり,資本はこの社会的生産過程のうちにそれを支配するための独自な統制構造を築きあげるとし,『資本論』ではそれを「権力分割および代議制度なしの私法的かつ独裁的な専制支配」であるとしている。
 テイラー主義について著者は労働強度の標準度を人為的に高める策略の体系であるとし,フオード主義同様それは労働過程の技術を変革することによって生産性の向上を計ろうとするものであり,個人としてみた主体がどれだけの量および質の客体(生産手段)を処理しうるか,その直接的関連(技術的関連)を変革することに戦略目標がおかれているとする。ただフオード主義と異なり労働過程の客観的諸条件(機械・原料)を通じての変革よりも主体的諸条件(労働能力)を通じての変革(労働強度)に力点がおかれているとする。
 以上の技術論と統制論によって著者は前記の七つの問題への回答を出すのであるが,技術の本質は体制的であり,中立的であるが,それはこれを抽象から具体への重層構造のなかで把握して初めて可能であるとする。第二のME技術の発展は制御機能が機械体系から自立したものでマルクスの自動機械体系で把握できるとする。ただしマルクスの時代は初歩的なシーケンス制御であり,現代は電子工学メカニズムによる複雑なシーケンス制御と初歩的なフィードバック制御であり,両者は段階を異にする。さらに「道具から機械への発達」という手足などの器官的制限からの解放と人間の神経器官,感覚器官,頭脳器官がもつ器官的制限からの解放であり異なる意義をもつとする。
 第三の科学技術概念に関しては,機械制大工業は科学技術を基礎とするので,現代技術を近代技術から区別する概念としては誤まりであるとする。第四の経営主体の転換については,今日の経営者階級の意義を「資本(所有と充用)の社会化」の全体性のなかで考える必要があるとする。第五のオートメーションのもとでの労働支配については,これは労働の消滅を意味するのでなく直接労働から間接労働(自動機械の監督・規制・保守)への労働過程の質的転化である。この過程から「止揚された個別労働」が出現する。個別労働の止揚は,第一には個人の労働内容が止揚され,労働は「自然力を規制する人間の努力」へと変化し,労働内容は個別性でなく一般性が与えられる。第二には個人の労働形式が止揚され,労働は「社会的活動の組合せ」へと変化する。これらは抽象的な労働内容であるが,現実的には労働支配の態勢であり,これは二重の労働凝縮の条件を必要とする。一つはテイラー主義にみられる「与えられた時間により多くの力を流動させる労働者の能力」の形成であり,今日では目標管理運動や小集団活動,「労働する人間化」ないし職務再設計運動といった洗練された手法が開発されている。他の一つは労働凝縮の客体的条件であり,機械の構造の改良を労働強化のために利用することであり,「機械の速度の増加」と「見張るべき機械の範囲の拡大」であり,フォード主義が最初の試みであった。
 第六の労働組合の制度的確立の問題については二つの「進歩」として表現できるとし,第一は労働組合の法的承認であり「団結禁止法の廃止」をもって特徴づけられるし,第二は団体交渉権の法的承認であり,これは労働協的,団体交渉,苦情処理手続きの制度化と,労使双方の側での専任スタッフの出現によって特徴づけられる。これは積極的な面では資本による労働支配の専制的・私法的な段階から立憲的・公法的な段階への発展である。つまり労働現場に疑似的な法律(労働協的),裁判(苦情処理手続き)の諸制度が導入され,これらが疑似的な官僚(組合専従者と労組対策担当者)により運営され,資本の恣意的・専断的支配で不可能かつ不必要になったのである。ただし第一の「進歩」が賃上げを市場における製品価格への転嫁と労働現場における生産性向上(労働の強度増大)によって相殺したように,第二の「進歩」も団体交渉を空洞化し,より効果的労働支配の態勢へと利用することを資本家・経営者に要求する。労使協議制度や経営参加制度の活用による「労使関係の安定化」はまさにこのことを意味する。
 第七の管理組織の問題については,労働が個人的過程から社会的過程に転化した瞬間から労働過程の組織的編成が問題になる。労働過程の組織とは機能的編成と権威的編成をいかに統一するかである。ファヨ−ルの言葉を借りれば社会的労働過程の機能的編成は「職能の専門化」と「指揮の一元性」との統一として,社会的労働過程の権威的編成は「権限の分化」と「命令の一元性」との統一として存在する。統制組織のこうした諸原理が歴史的発展を貫く基本的矛盾である。<

〔IV〕

 以上著者の主張点をみてきたが,以下若干の問題点を指摘することにしたい。
 まず第一は,著者の労働過程把握からする技術の本質規定の積極的意義が現代の技術の分析においてはっきりしないということである。氏はME技術とオートメーション,科学技術の現代的意義について述べている。 ME技術とオートメーションについては,制御機能が機械体系から自立したもので基本的にはマルクスの自動機械体系で把握可能であるとする。ただしマルクスの時代の制御は初歩的なシーケンス制御であったが,現代は電子工学的メカニズムによる複雑なシーケンス制御と初歩的なフィードバック制御であり両者は段階を異にするし,制御の自動化は,機械が手足などの器官的制御からの解放であったのに対し,人間の神経器官,感覚器官,頭脳器官からの解放であり異なる意義をもつとする。
 このようなME技術やオートメーション把握は労働手段体系説の人々とほゞ同じであり,氏が積極的に提出されている手段体系説と意識的適用説との止揚の観点からの分析がはっきりしない。このことは技術の発展の具体的展開の不明確さにあるように思われる。氏の手段体系説の批判の中心である労働対象の変革の現代技術における意義は追求されていない。鉄鋼業や化学工業における原料転換の意義は重要であると考えるが,これらの技術における位置づけがはっきりしていない。さらに労働対象とは範疇を異にすると考えられるエネルギー革命についての問題もある。工作機械を中心とするオートメーションの分析であれば,労働手段体系説で十分説明可能であると考えるがどうであろうか。原料転換やエネルギー革命,交通運輸革命,プロセスオートメーションとメカニカルオートメーション等の現代技術の体系の総合的把握にとって,私は手段体系説では不十分だと考えているが,氏の止揚の視点もかかる全面的な現代的技術把握にとって積極的に生かされなければならないと考える。
 さらに氏が科学技術を経験技術と対比され,科学技術が機械制大工業の基礎であって現代をことさら科学技術革命の時代とするのに反対されているが,問題点は科学技術の内容の変化ではなかろうか。ニュートン力学を基礎とする機械体系とアインシュタインの量子力学を基礎とする現代とでは,問題が異なると思われる。トランジスタからIC→LSIと展開する半導体技術の展開なくしては,自動制御はありえなかったのであって,これを機械制大工業一般に解消することではないと考えるがいかがなものであろうか。
 第二はME技術とオートメーションの分析において,氏は自動制御は機械体系から制御機能が自立したものであり,マルクスの時代の自動機械とは異なるが機械制大工業の範囲内であるという主張についてである。私はプログラム制御とフィードバック制御による制御の自動化とマイクロコンピューターという制御機が,「言語機能の物質化」であることによってコンピューター・ネットワークの一環に組み込まれ,個別企業の枠を越え,全国的・全世界的規模に拡大する可能性を持っている点で,機械制大工業の範囲を出た新しい生産様式の萌芽とみてよいと考える。問題は氏の技術の発展分析において,かかる問題を考えるにあたって,具体的にどのような有効性をもっているのか示されていないということである。著者の情報処理技術についての積極的な分析を期待したいと考える。
 第三は労働組合の法的承認や団体交渉権の承認の持つ意義に関する問題である。著者は一方ではこれを専制的・私法的形態から立憲的・公法的形態への進歩とし,他方では資本は代償的な「後退」(経営協議会)によって経営権を強化すると述べており,私も両面から分析するのは正しいと考えるが,その場合,経営協議会=労働者の経営参加についても,やはり両面があることが強調される必要があると考える。経営協議会は経営への労働者の直接参加であって,資本対賃労働の矛盾にとっては団体交渉より,より一歩進んだ形態とみなしうるのであり,これは一方では氏の主張されるように経営権の強化として日本のように利用される場合もあれば,西独の共同決定の場合のように労働組合による経営権の蚕食が進む場合もあるのである。それゆえ労働者の労働過程での実質的民主主義体制の確立にとっても,両面的機能が具体的に分析される必要があると考える。
 以上,若干の問題点を指摘したが,本書が労働過程の一般論として技術論と統制論で,現代の直接的生産過程を論理一貫して分析しようとされている点は高く評価することができよう。今後の上向過程における,著者のより具体的分析を期待したい。





梓出版社,1990年10月刊,A4判,定価3,605円

ますだ・としお 法政大学経済学部教授

『大原社会問題研究所雑誌』第397号(1991年12月)



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