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『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版




栗田 健 編著
『現代日本の労使関係――効率性のバランスシート



評者:熊沢 誠



 本書は,栗田健氏を助言者とする「現代労働研究会」に集う研究者たちが各自のテーマを実証的に考察する論稿を寄せ,もって全体としてこの現代日本における労働組合,労使関係の特質と課題を浮彫りにしようとする作品である。各章のタイトルと執筆者を,まず紹介しておきたい。
 序章 日本労使関係研究の系譜と課題                         栗田健
 1章 労働組合と国民生活―オイルショック前後の労使関係             森建資
 2章 「雇用問題」の転換―70年代における構図                    佐口和郎
 3章 産業構造の再編と「雇用の女性化」―1973〜85年                大沢真理
 4章 技術革新と労働―日本の特徴                            野村正實
 5章 労使協議と労働組合機能―自動車産業の事例研究を通して          上井喜彦
 6章 能力主義と賃金体系―造船重機械産業の事例研究を通して          橋元秀一
 7章 企業再建と協調的組合機能の基盤―佐世保重工争議の労使関係的側面  上田 修
 8章 労働組合の企業再建闘争―労働者の秩序意識への接近            井上雅雄
 9章 「もうひとつの」労働者運動―日本における労働者協同組合の実状      柳沢敏勝
 終章 日本労使関係の現局面と展望                           東条由紀彦
 執筆者はいずれも有力な論者であり,その寄稿は総じて丹念な実証研究の成果である。この書評では思いきって内容の紹介を省くけれども,本書がそれぞれのテーマについて今後とも参照されるべき学問的な貢献となり,全体としては現代日本の労使関係研究の一つの財産となることは疑いを容れない。
 しかし,にもかかわらず本書は,その志は雄大ながら,おそらくは参加者各自の繁忙のためにか,文献――とくにスタンスを異にする文献の検討も,相互の討論も,執筆そのものもやや時間切れの感じで,ときに論者はその実力を出しきっていないのではないかと思われもする。読み手が傲慢なせいか,率直に言って私が本書から新しく知り得た事実,新しく眼を開かれた視点はそう多くなかった。また,実証の成果を〈日本の特質〉把握に導く論理がいくらか性急に過ぎて,完全な説得性や多岐にわたる発想のおもしろさに欠けるように感じられることもあった。各章への私なりの評価をあえて分類してみよう。
 本書にみるかぎり,私にとっておもしろく全体として説得的だったのは佐口,大沢,野村の論文であった(敬称は略,以下同じ)。とくに従来から「日本型多能工」について見解をほぼ同じくする野村正實から,日本企業における量産メリット追求と「部品とコンポーネントの共通化」による「多品種小量生産」との共存可能性を具体的におしえられたことは,私にとってこの読書の大きな収穫のひとつである。ちなみにこの認識は,いま世界的な論争点になっている〈日本的経営〉の労働過程の性格を把握する一つの鍵といえよう。
 上田と柳沢の寄稿も,インパクトは穏やかながら納得的な内容であった。一方、興味ぶかい指摘にみちていながら,テーマの枢要性からみてどこかに物足りなさを残す作品として栗田と上井の文章をあげよう。栗田論文は,東大社研の歴年の調査研究の読み方について多くの点で共感しうる示唆を与え,また本書の課題設定にかかわる〈日本的特質〉の評価についても熟達したバランスを保っている。だが,研究史回顧も課題説得も,現時点としてはいささか間口の狭すぎる印象は否めない。次に上井論文は,その実証の具体性,その執筆態度の真摯さにおいて,あるいは本書随一の労作かもしれない。しかし着地点においては,後述する井上や東条と類似の,硬質な仮設による力業の無理を免れていないようである。そしてそのことと関連して,私は本書については,8章と終章,1章と6章を,それぞれ別の理由から高く評価することができない。これらの章にも,論者たちの潜在的な力量をうかがわせるに足る鋭い把握はいくつも発見することができる。けれども,これらにおいては論理の道行きがかならずしも明瞭でなく,あるいは結論のなかに〈日本的特質〉が過不足なく位置づけられているとは思えないのである。
 本来ならば,各章一つひとつについて内容をくわしく紹介し,新しい貢献と問題点をあげてゆくべきかもしれない。しかしここでは非礼を顧みず,現代日本の労使関係の現状と課題を考えてゆく際の私なりの関心に即して,複数の章にまたがる批判点だけをあげることにする。外在的な,または「ないものねだり」の感ある批評にきこえようが,以下は,今後に機会を得て筆者たちと議論を重ねたいことがらである。 

 そのひとつ。労働問題,労使関係研究における「3M」からの脱却の必要性が唱えられて久しい。今や労働問題研究のテーマが男性(Male),ブルーカラー(Manua1),製造業(Manufacturing)労働者に限定されてはならないという意味だ。その理由は説明するまでもあるまい。ところが,本書の関心はほとんど全一的に「3M」に限られていて,それが本書の魅力を制約しているかにみえる。
 たとえば女性労働者の位置づけについて。もちろん大沢真理は,「雇用の女性化」とはすぐれて製造業とブルーカラーにおける女性化にほかならなかったことを指摘する3章の結びのなかで,日本の経営や労使関係の議論においては,それらの「成功」に不可欠な「適応と柔軟性」を担わされてきた女性の存在が無視されてきたという持論を展開している。その正当な指摘は,しかし,日本の労働者像や職場構造の特質を論ずる栗田,井上,東条らにも,社会生活のあり方を探る森にも影響を与えているように思われないのである。
 この点はさておくとしても,次に本書への寄稿では総じて,〈労働過程―熟練の配分・分業―労働者の階層形成―ライフスタイルの分化〉という,欧米の良質の労働社会学が蓄積を重ねてきた領域への関心が希薄であるように感じられる。その関心がつよくなければ,日本の労働者像や労働現場がともすれば単色にぬりつぶされる可能性が生まれよう。そのモメンタムとして,事例研究から導き出される命題の適用可能範囲への限定意識がよわくなるのである。
 たとえば野村正實は,伊藤実の「技術革新と労働の質」論への批判の第二点(157頁)において,分業と階層形成というものへの鋭敏さを示している。しかしこうした視点は他の章には意外にみられない。たとえば佐口和郎論文は,60年代の労使関係各主体が漠然と陶冶の必要性を感じていた社会的通用性のある「多能工」が,80年代には内部労働市場型雇用調整に適した即効的なフレキシビリティをみたすだけの「多能工」に概念の内容を変えられてゆく,このプロセスを説得的に描く成功作である。けれども,もう少し各時代の労働過程に即した,企業の必要とする熟練の内容論,熟練の従業員間配分論があれば,佐口の示唆はもっとクリアーになっただろう。ちなみにここでもういちど野村にかえれば,4章に対する私のわずかな不満は,日本の労働者の「動機づけ」について,専ら「大衆動員型キャンペーン」や「人間関係諸活動」が強調されて,個人によって異なるフレキシブルな能力の発揮に報いる個人別の格差昇格という,精鋭男子従業員にはやはりたしかなインセンティヴの役割が軽視されていることであった。
 上田修の佐世保重工労組の反坪内・企業再建闘争分析にしても,当時ではすでに例外的に大規模なストライキに入ることのできたこの労働者たちの社会学的存在,例えばこの地域生活への特別のなじみなどをもっと重視してよい。また「じぎょうだん」の理念と実践を,ときに不十分ながら労働現場にも降りて,穏やかながら問題点の指摘も忘れずに検討する柳沢敏勝の好論文も,この地味な労働現場で汗を流す人びとの労働市場における位置づけの考慮をやはりもう少しとりこむべきであり,世代や学歴を異にする人びとによる他の「ワーカーズコレクティヴ」との比較もほしい。それからもちろん,終章にみる〈従業員民主主義体制〉という規定は,現時点ではとくに〈分業と階層形成〉論を通して相対化されるべきなのだ。例えば,「コミュニテイユニオン」への帰属のほうがむしろ自然な女性非正社員は,〈従業員民主主義体制〉とどのような関係にあるのだろうか?

 いまひとつ。労働者としてのさまざまの存在に対する私の関心は,企業内キャリア展開の成功者たちが運営する企業別組合の機能と,多くのふつうの労働者が職場の日常のなかで痛感するニーズとの距離意識を,労使関係研究にとって不可欠とする主張に導く。まして労働組合の規制が仕事や稼得賃金をめぐる労働者の個人処遇にかからなくなった現代日本では,研究者はいっそうこの距離意識を要請されよう。今の企業社会では,既成の労働組合論や労使関係論が労働問題をカヴァーできる程度そのものが低下しているとさえいえる。それなのに本書には,現場労働者の日々のニーズから組合活動を評価する視点があまりみられないのである。
 例えば6章は,ある造船重機械企業における労働組合のかかわった賃金体系の変化を追うものであるが,率直にいって私には,60年代末に組合が「年功」でなく「能力と職務」に応じた公正な処遇を求めた理由も,80年代における職務給のレインジ化に対する組合の立場も,論理的にはつかめなかった。このわかりにくさは,労働現場の分析の欠如に加えて,組合幹部とふつうの労働者を区別する視点の軽視からくるのではないか。 60年代末には組合幹部が会社の能力主義管理に協調して「能力と職務」による処遇を唱えた,80年代半ばには選別の「雇用調整」に耐えて残った労働者への報償として職能区分内の昇給が認められた―それが私のやや乱暴な推測であるが,ともあれ6章では,現場労働者に対する能力主義というもののインパクトが見すえられていないように思われる。終わり近くで橋元は,「『職務と能力』をめぐる企業の必要性と査定に対する組合の独自機能が欠如すれば,雇用と昇給を代償として,時々の企業の必要への無定型な動員が深化し,労働する人格としての主体性の希薄化につながっていく」(226頁)と,本当に正しいことを言う。だが,ここを凝視しようとするならば,今のユニオンリーダーと労働者の距離意識がなくてはならない。
 一方,上井喜彦は,自動車大企業A社における組合機能の由来と性格,その「開花」と衰滅を描く5章のなかで,その組合機能がby the ordinary workers でないのはもとより,for the ordinary workers も疑わしいとくりかえし述べている。にもかかわらずA労働組合は,たしかにある局面(辛辣にいえば労使のトップ間の人間関係が悪化した局面)には,労働強度,異動,時間外労働などにおいて,経営のフリーハンドを制約する規制力を発揮した。この組合の広義の交渉力は,職制機構と組合の職場組織の人的ゆ着をむしろ槓杆として,役職昇進への介入を通して職制を組合側へ引きよせ,査定や個人処遇に関する彼らの権限をそのまま組合が労働者を間接的に統合する力に転化しているところにある。このまことに日本的にしてこみ入った事情にわけ入る上井の叙述は,具体的で,これが真正の組合主義か,然り,否,然りと迷うあたり感動的ですらある。とはいえ,A労組による現場労働者や左派活動家の抑圧を長年にわたって他の情報源から知らされてきた者としては,やはり,ふつうの労働者によって,ふつうの労働者にとって,というところに組合主義の究極の評価基準を求めざるをえない。「実証研究」は,真否を問わず「他の情報源」は顧慮できない宿命にあるのだろうか。ともあれ,私たちはこの日本においても,評価のむつかしいゆ着のオルタナティヴ,すなわち現場労働者たちがその日々のニーズに即して職制機能の競争刺激的または抑圧的な部分をよわめる,そうした質をもつ組合機能へのまったく絶望から出発することはできないのである。  

 こうして私は,本書の最も枢要の問題提起へのコメントに近づく。それは本書がそこに徹底的に内在しようとする労働者像,組合主義,労使関係の〈日本的特質〉の適否,そしてその徹底的な内在化路線の適否である。
 もっとも,日本社会の特質に相対的に無関心で,そのことが叙述のスタンスを不明瞭にしている場合もある。たとえば,「国民春闘」や単産の「生涯生活ビジョン」が日本の労働者のあるべき生活論を育てることができなかったプロセスを分析する1章がそれにあたる。私の読解力では,森建資がユニオンリーダーの発想のどこを批判しているのかが,個々の局面ではわかっても,全体としてはつかめなかった。外在的な批評であるが,森はまず,賃上げと国民経済,労働者文化と福祉国家体制,組織労働者と国民の関係における〈日本的特質〉の把握から始めるべきであったように思われる。そうすれば,その〈日本〉を肯定するにせよ批判するにせよ,およそ労働組合の「生活闘争」は,1)コストインフレ論を顧慮せず名目賃金の引上げに執着して,そこから惹起される国民経済の困難に遭遇してはじめて高次の経済・社会制度の改革闘争に進んでゆくという産業内闘争の途,2)国民経済の成否を視野に入れて賃上げを抑制し,「社会的賃金」の向上を「制度・政策要求」を通して実現しようとする政治闘争の途,そのいずれかの選択を迫られる運命にあることが理解されよう。
 日本の組合指導者自身のスタンスがいずれにも及び腰であるのは事実であるが,森もまた,一方では1)でないから(賃上げ抑制論になびき要求を制度・政策に収斂させるから),他方では2)ではないから(私的消費生活向上のイメージしかもたないから)と,局面により論点を変えて実践者を批判しているようである。「生涯生活ビジョン」にふれて、鉄鋼労連は「自らの組織再検討に向かうことなく」(52頁)とか,「イギリスにおけるような独自の労働者文化の形成に向かう志向性はまったくなく」(64頁)とか述べるときも,その指摘の重さにかかわらず内容の具体的展開がなく,日本のユニオニストには不親切である。そして森自身のスタンスらしいものとしては,「労働組合が企業に従属した生活のあり方を批判し,内需拡大の重要性を主張することを通じて,企業体制への対抗力とならない限りは…」(65頁)と書くにすぎない。たしかに「広汎な合意」は得られよう。

 さて,本書のライトモチーフ,労働者像―組合機能―労使関係に関する〈日本の特質〉把握は,代表的には栗田―井上―東条の叙述にみられる。三者ニュアンスをいくらか異にするが,概要をあえてまとめれば次のようになる。
 (1)日本の労働者は階級的存在そのものの無化を求める人びとであり,この〈平等主義〉から,一方では1)競争を通じて労働者たることから脱出しようとする志向,他方では2)生産をめぐる「われらとやつら」の領域区分を超えようとする志向が生まれる。
 (2)ここに起因する組合機能は,一方では「公正な競争条件の維持」,他方では2)のA=職制機能と組合のゆ着を媒介とした経営管理への参加,または2)のB=特定条件下での労働者自主管理となる。
 (3)今や上述の1)は,「機会の平等」の整備とともに〈ノンユニオニズム〉に帰着し,2)の〈純粋日本型ラディカリズム・労働組合主義〉(東条)は,市場のインパクトによって挫折を迫られている。
 以上の系論のいくつかの要素は,私自身も80年代はじめから述べてきたところであり(『新編・日本の労働者像』ちくま学芸文庫,参照),うなずきうることである。だが,筆致に抑制のきいた栗田序章を別にすれば,井上,東条の叙述にはなぜか不満が残る。ここでは本格的な評論のいとまはないが,さしあたりその「なぜか」にこだわってみよう。
 その1。系論(1)と(2)の間に,日本の労働者の〈平等意識〉の可視的な範囲が〈特定企業の正社員〉に限定されたことの圧倒的な規定性が挿入されねばならない。本書の寄稿者たちはこのことを百も承知であろうが,本書のかぎり意外にこの環の認識が欠如していて,このことが井上,東条の議論を窮屈にしているようである。
 その2。日本の従業員といえども,競争の規制を願い〈機会の平等〉にとどまらない〈平等を通じての保障〉を求める,〈組織労働者の原像〉と無縁の人びとではない。逆にイギリスの組織労働者も,ひたすら労働力の「商人」として振舞って,決して「やつら」の領域には立ち入らぬ人びとではない。現実はむしろ逆であって,狭義の労働条件を超える経営管理の領域を蚕食してきたのは,総じて日本ではなくイギリスの労働組合なのだ。その点,日英の違いを語る井上雅雄には混乱がある。彼我の相違はむしろ,「やつら」の領域への「越境」が,イギリスでは労働の論理にもとづき組合を通して集団的に行われるのに対して,日本では管理者,経営者への昇進として個人的に行われるところにあるとすべきであろう。
 そこに関連して井上についてはもうひとつ。日本の労働者像に関する「個々人の能力と才覚とをもってする権力ヘの志向性」(290頁)と「生産管理」的越境とは,ひっきょう矛盾関係に立つ。この両者は,井上においてどう折り合いがつけられているのか? 結局のところ,彼がその単著でも情理をつくして分析する「労働者自主生産」型の越境は,労働者の〈日本的特質〉の結晶というよりは,限界状況のもと「職場の主人公たちによる連帯的な生活防衛」に賭けるインターナショナルな組織労働者像が,日本の従業員の内からもついに顕現した営みと考えるほうが自然なのである。自主生産のできる組合は,例えば個人査定を拒みうる質の組合であったという事実は,その傍証となる。そしてそうした高次の経営権蚕食・自主管理に市場経済が不寛容で,体制内ではそのゆくえが危ういこともまた,日本,イギリスを問わない。井上ばかりでなく本書のいくつかの章では,問題を〈日本の特質〉に引きよせて考えすぎている。ちなみに「高齢者事業団」活動についても,終章を書く東条は,それを不必要なまでに日本的なものと位置づけているという印象をうけるのである。

 私自身はといえば,資本主義下の労働者としてのインターナショナルな性格と日本における存在のかたちをつなぐ環として,〈労働社会論〉という方法を用いている。生涯的移動=定着の範囲などによって個々の労働者が自然に属するに至る可視的ななかま集団として,企業社会,職場社会,‘職業社会’地域一般労働社会という〈さまざまの労働社会〉を措定し,その上で,どの国では,どのような要因が働いて,どの労働社会が構築されたか(またはされなかったか)を調べてゆく。そこから見えてくる私の〈日本〉は,歴史のモメンタムとしてさしあたり企業社会が唯一の労働社会とされている国であり,そして存在――例えばキャリア展開――において他の労働社会の構築に赴くことが自然な人びとも,その唯一性に閉じ込められて,たしかに企業社会への帰属がふさわしい「精鋭」男性正社員になろうとする背伸びの無理か,屈従か,あるいはまったきアトム化を強いられている国にほかならない。
 本書の基幹部分は,この「唯一性」を不動の与件と見すぎているように思われる。これまでに私が羅列した不満,すなわち3Mへの跼蹐,労働過程・分業・労働者階層論の希薄さ,組合幹部とふつうの労働者の区別への無関心,そして〈日本的特質〉への問題の過剰の収斂なども,結局はここに帰着するのである。この立場から,最後に,総括を担当する終章に若干のコメントを加えたい。
 東条由紀彦論文は志も高く,折にふれ卓見もちりばめているとはいえ,私には納得できない点が多い。その駆使する文体やコンセプトの世俗的な通用性が疑わしく,メッセージが「自閉的」に感じられること,執筆者相互間に存在するはずの意見の相違が検討されず,他のグループによる調査・実証研究も全く検討されていないこと,したがって〈日本的特質〉を語る素材への目配りが周到でないこと,などがそれである。そして終わり近く,東条は,現状を克服する思想的スタンスについて,こう書いている――日本の労働者の〈平等主義〉,人格的関係へのこだわり,「権威」の希求,実質的差別へのナーバスさ,そこでつくられた「自分の世界」への献身,それらに「とことん依拠する」こと! 「それを突き抜けることによってはじめて,カウンターへゲモニーは」,たとえば「クラフト的伝統」も「自前の協同社会」も「実現でき」,そのプロセスのうちに,かつての追求が挫折をみた,森のいう「現実生活を変えようという意欲」,佐口のいう「高度な技能をもつ職業人」,橋元のいう「自分の能力を自分たちで評価し還元する能力主義」も「『引き受け』られるのではなかろうか」(354頁)。

 「突き抜ける」がなにを意味するのか定かではないけれど,この〈日本的にとことん〉主義が終りに例示されたような三つの課題を「引き受ける」ことができるとは思えない。現代日本が総じてノンユニオニズムの情況にあり,それが労働者像,組合機能,労使関係の〈日本的特質〉の帰結であるならば,たとえば三つの課題を担いうるような労働運動の復権は,ひっきょう〈日本型〉からの〈もうひとつの離陸〉を通して求められるほかはないだろう。東条のようにアカデミックな表現ではないが,その営みはたとえば,単産によるワークルール標準化機能の執拗な摸索,ワークシェアリングの工夫,日本的能力主義の限定・「人格」や「生活態度」が査定されることの拒否,そして職業別の結集をその内に包み込むコミュニティユニオンの強化などである。
 それらは近年における従業員選別の労務管理,雇用形態の多様化とキャリアの分化,新しい労働者世代の意識の変化に即して台頭しうる,日本の労働者の内にも潜在する〈組織労働者の原像〉に依拠して追求される。現状分析として日本社会の特質を凝視することにやぶさかであってはならないが,こうした営みはやはり,日本労働組合運動による欧米的ユニオニズムの伝統の摂取というほかはない。われらの労働世界を硬質な〈日本型〉単色の界隈とみる眼には,この提起はいかにも外在的なものに映るかもしれない。しかし,いま職場の日常においていくぶんかは競争制御的なユニオニズムを切実に求める人びとにとってはどうか。ある意味では私の呼びかけもむなしいが,東条のそれほどにはむなしくない。




労働科学研究所出版部,1992年8月刊,365頁,定価5,500円

くまざわ・まこと 甲南大学経済学部教授

『大原社会問題研究所雑誌』第419号(1993年10月)



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