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『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版




兵藤 つとむ著
『労働の戦後史』(上)(下)



評者:熊沢 誠



 ほぼ半世紀にわたる戦後日本の労働組合運動の軌跡をたどることは,思えば心労にみちた作業である。多くの資料を収集し,しかるべく配列するだけでも,それは根気のいる営みとなる。そればかりではない。産業社会が「成熟」するにつれ労働組合というものは過去の遺物になってゆくという史観を拒むかぎり,率直にいってここ20年来の日本の労働組合はかなり急速にその保つべきアイデンティティを失いつつあるようにみえる。そうした状況を見すえるならば,ふつうの労働者たちの発言のあかしである労働組合運動の歩みを描く筆の運びは,どうしても重くなるだろう。
 『労働の戦後史』は,このテーマに挑戦するにふさわしい研究蓄積を擁する兵藤つとむ氏が,その心労に耐えてまとめあげた「正史」的作品であり,必読に値する絶好のテキストということができる。
 本書には著者の力量をうかがわせるに足るいくつかの長所がある。兵藤氏は,近代化以降の日本の社会的伝統にある制約を受けたものとしての戦後の「労働」を,敗戦からほぼ現時点にいたるまでともかく描き切っている。その叙述の密度は濃く,提供する情報量にくらべて紙数は上・下計536ページにすぎない。また,アカデミズムに裏打ちされたスタンスのほど良いバランスは兵藤氏に特有のものであって,ある事実や政策表明の情報の次にかならずといっていいほど続く「ここに留意しておくべき点は…」のくだりにおいて,読者はさきの惰報に関する周辺の事情や問題点を知り,はじめの直感的な評価を相対化されるよう導かれる仕掛けになっている。要するに兵藤氏の扱うテーマに関するかぎり,叙述は安心できる(reliable)のである。
 労使トップレベルおよび政府による政策表明の資料が精力的に渉猟されていることも,本書のメリットのひとつである。このメリットの裏にあるデメリットを私は後にとりあげるけれども,本書の与える情報のこの点だけをピックアップしてくわしい年表をつくってみるだけでも,読者は戦後労使関係・労働政策に関する政策表明史の概要をよく勉強することができよう。ほんの一例をあげれば,すでに1947年に経済同友会が日本企業を経営,資本,労働の三者によって構成される協同体とみなす考えを示していたこと(p.72)などは,日本的経営の沿革に関心をもつ私などには実に興味ぶかかった。
 産業,企業レベルのテーマでは,新日鉄を代表とする鉄鋼業,日産やトヨタなどの自動車産業,それに旧国鉄における労務管理および労働組合と,両者の出会う場である労使協議制の推移に関する考察が充実している。とりわけ八幡製鉄所(新日鉄)や日産自動車に関しては,兵藤氏のいささか大まかにすぎる時代区分,「戦後再建期」,「高度成長期」,「オイルショック後」のいずれの段階においても具体的に紹介されており,そこでの労使協議の推移は本書全体のひとつのメインストリームと言ってよい。そこで発揮された「組合主義」の徹底性については私はいささか著者と評価を異にするけれども,ここでも私の当面の関心事にかぎっていえば,63年ころの八幡製鉄労組が要員問題を(説明・報告事項ではなく)協議事項とせよ,人事異動の人選に(人事考課ではなく)先任権を適用せよと主張しはしたものの,ほどなく経営の専権に固執する会社側に屈してゆく(pp.246-48),そして70年代後半以降の人員削減や賃金体系の能力主義化に対しては,もはや組合は人事考課の運用に関して経営側に「慎重な姿勢」をもとめるのみであって,人員削減数の修正や賃金査定幅の限定といった経営権の実態的なチェックは忌憚なくいえばゼ口になる(pp.343-48,371-79)―そんなプロセスの描写が,いま顧みて意義ぶかく感じられるのである。
 そのほか私には,たとえば戦前の大正末期に一定層の労働者が大企業に従業員として定着する過程(pp.15-16),産業報国会運動の建前と職場の実態との乖離(pp.27-29),60年代後半に意識化された日本的能力主義管理がさしあたり終身雇用の慣行化によってこそ支えられたという関係(pp.192-96),それに現場協議制の獲得から反マル生闘争を経て,昇格・昇職における日本的先任権,「三四三方式」の確立にいたる国鉄労働者の闘い(pp.265-70)をめぐる考察などが,おもしろく説得的であった。読者はそれぞれの関心に応じて,本書のなかから,労使ナショナルセンター分裂・統一史,春闘史,日経連「宣言」史,労使協議史…をとり出すことができよう。本書はそうした勉強の素材を豊富にたたえている。

 だが,本書に対する私のメリット評価はほぼ以上のかぎりである。内容のくわしい紹介も省略して,これまでにも多くを学んできた先輩の苦労の産物に私好みの偏った視点から長々と批判を綴るのはあるいは非礼に類するかもしれないが,「労働の戦後史」は私にとってもあまりに切実な課題であるゆえに,以下,主として兵藤氏の研究方法,叙述対象,労働運動評価の基準などについて,端的なタッチで批判的な見解をのべたい。
 そのひとつ,本書では目線が高すぎる。かつての兵藤氏とは異なり(誤解でなければ!),ここでは関心がふつうの労働者の職場と生活から離れている。これは「労働史」といえないのではないか。
 ここからはいくつかの系論が派生する。第1に,用いられる資料が政府や労使のトップレベルによる,組合側についていえばせいぜいが単産や企業別組合のリーダーによる政策表明文書に偏っており,その表明された政策の真偽や結果を検証する傍証となるような資料の駆使は意外に手薄である。この点は「言うは易く行うは難し」と反撥されもしようが,たとえば加工がそう難しくはない労働関係の時系列統計は,しかるべき時期区分に従って用いられるならば,上の意味での傍証となる。賃金闘争の背景を語るならば成長率や物価上昇率や有効求人倍率,その成果を論ずるならば賃上げ率や分散係数,賃金コスト上昇率や労働分配率,時間短縮要求の真摯さの程度を評論するならば残業,サービス残業ををふくむ労働時間など―そうした数値的検討はまず不可欠ではないか。本書にみる暦年統計の無視は,ほとんど理解に苦しむほどである。
 もう一群の傍証資料になりうるものとしては,とくに60年代後半以降,職場の実態に瞳をこらして組合主流派の政策を撃つようになった反主流派の文書,それに鎌田慧や斎藤茂男の著作に代表されるようなすぐれた職場ルポがある。最近では川人博による過労死110番運動のレポートや笹山久三による郵政職場の描写が示唆的である。だが,悪しきアカデミズムというべきか,兵藤氏は多数派組合の公式文書と,現行労使関係に異議を申し立てる人びとが語る機会をもたない「中立的な」調査研究のみを信頼できる資料とみるかのごとく,上の諸資料に無関心なのだ。その結果として兵藤氏は,高度成長期以降徐々に主流の座を獲得した「組合主義」──日本的経営の下でこの派が多数派になる事情を理解するに私はやぶさかでないつもりであるけれども──を,人べらし,過大なノルマ,サービス残業や有休の返上,多面的な人事考課の支配のなかで心身を疲弊させる人びとの目線をもって検証するスタンスを失っている。たとえば職場における労苦のありかを明瞭に示す自動車総連1980年の意識調査を重視する(pp.413-14)曇りない眼は,宙をさまよっているというべきであろう。換言すれば,たとえば鉄鋼労使協議制の評価は,炉前チームからx人削減しようとする会社に抗して組合がy人にとどめさせた(x>y),そんな報告をもってなされるべきなのである。
 これと関連して,組合幹部と平組合員との間に生まれる距離をあまり気にしていないことも,本書の問題点のひとつといわねばならない。山ねこストライキというものがほぼ皆無の日本では,いわゆる「幹部裏切り」史観の説得性はとりわけ低い。しかし日本でも,団体交渉の基本単位が企業連に集約されてゆく60年代後半あたりから,組合活動の中央集権化・トップリーダーによる職場分会の統制は際立ってきており,よの「距離」の自覚は「表明された政策」の批判的検討にとって必須のものであるように思われる。日産自動車労組の80年代については兵藤氏もこの点に無自覚ではない(p.342)が,60年代のこの労組に対する好意的な紹介もふくめて,本書にみる労働運動の評価が全体として「幹部主義的」である印象は否めない。
しかし労働組合の意義はなによりも労働が日常である人びとにとってのそれなのだ。
 第2に,本書の考察対象はあまりに製造業・男性・ブルーカラー本工労働者に集約されすぎる。いわゆる「3M」(manufacturing,male,manua1)の枠組みが固すぎ,労働者の階層別ニーズと既存の労使関係との関係があまり問われていないのである。もちろんどの論者にもそれぞれの研究史に制約された手慣れた分野というものがあって,本書でもその分野ではいかんなくつよみが発揮されるゆえ,これは外在的批判にすぎないかもしれない。けれども,いま「労働史」をふりかえるなら,現時点における問題の浮上や研究者の新しい問題意識をも汲み上げて,ホワイトカラー,女性,非正社員などの状況と運動もしかるべく史的考察のなかに位置付けられねばならない。
 労働者構成の点からみてこの人びとの重要性が高まっているから,というばかりではない。女性や非正社員は,被差別的な処遇をうけることを通して,男性正社員の住むエリアであった年功制そのものを支えてきたのだ。そして企業別組合の運動の評価には,この人びとのニーズが総じて組合規制の外におかれてきたという事実がどこまでもからみつく。それなのにたとえば本書での女性労働者の扱いをみれば,彼女らは86年雇用機会均等法のくだりで突然登場するかのごとくであり,戦前「女工」の労苦も,画期的な近江絹糸「人権闘争」も,高度成長期の電機工場やオフイスでの単純労働への動員も,性差別是正を求めるさまざまの裁判闘争も,その性差別に対する労働組合の責任もふれられないのである。1983年,小企業労働者,パートタイマー,非正社員など,もっとも組合機能を必要としながらも企業別組合から疎外されてきた人びとによる,地域一般労働組合の試みがはじまった。この企業横断的な,女性比率の高い「コミュニティユニオン」は今では少なくとも60組は数えるけれども,この画期的な試みの意義が本書では無視されていることも,上に述べた傾向と無縁ではあるまい。

 さて,本書に対するもうひとつの批判は,労働組合,労働運動そのものについての著者のイメージにかかわる。そのイメージのわかりにくさが,2で述べた論点を不問にふしても,表明された公式組合の政策に対する兵藤氏の,ときおりは批判的なスタンスをわかりにくくしているように感じられる。
 たとえば,組合幹部の政策表明文書のなかでは「労働組合主義」という言葉が飛び交った。高度成長時代の民間労組から台頭した「組合主義」がついに勝利を収めて「戦線統一」が実現したという言い方もある。私見では,労働組合が主要には経営,副次的には政府,政党,そして「国民」との間に自立的な関係を築くことが組合主義の絶対の資格にほかならないけれども,一般に戦後革新勢力の思想はこの日本に台頭した「組合主義」の真偽をきびしく問うことがなかった。兵藤氏においても,本書にみるかぎり労働組合主義とはなにかはひっきょうあいまいであって,賃上げのいわゆる「経済整合性論」に対して労働者の生活要求を経済運営の与件とさせるという立場から正当な批判の矢を放っている(p.301)ことを別にすれば,氏は民間労組の「組合主義」を批判のやすりにかけることを避けている。
 組合主義の実在をはかる基準は,ひとつには,ふつうの労働者の生活ニーズ,とくに職場内のそれがいくらかでも満たされたかどうかであり,もうひとつには,ついに要求が拒まれたとき争議が敢行されたかどうかである。日本の「組合主義」は,この後者の基準からみて有資格だろうか? 試みに戦後の争議損失日数の時期別年平均をみよう――1956〜65年:504,66〜75年:484,76〜80年:161,81〜85年:44,86〜90年:21,91〜95年:12(『労働統計要覧』各年,単位万日)。諸外国よりも際立っているこのように徹底したスト離れについては,この「労働史」の関心の外なのか,なんらの情報提供も評価もされていない。しかし 「ゆとりのための労働時間短縮」を掲げる80年代の日本の労働組合が,ドイツやイギリスのなかまとは異なって,一度も時短ストなどを試みたことがないという事実は,まさに「注目しておくべき点」であるように思われる。
 このことと関連して本書では,労働者の職場内外の生活に蓄えられた欝屈の解放としての争議そのものについて描くところが少ない。深刻な労働問題が受難の個人による提訴や「110番運動」にあらわれるようになった──そのこと自体がまた考察を要する状況である――80年代以降についてはもとより,いくつかの大衆参加の争議が頻発したそれ以前についてもそうだ。さすがに扱われているいくつかの大争議に関しても,それに先行する経営側による「異端」の差別と排除,争議中の暴力や弾圧,労働者の抗議行動の具体性と雰囲気などは脱色されている。研究者としての兵藤氏は,ある種の労働運動史にみられる(権力による)「弾圧・陰謀」史観,(「右派」幹部による)「裏切り」史観を極力回避しようとしたに違いない。その努力は,日本的労働の伝統および日本的経営の展開の必然的な成り行きとして事態をみる立場と相まって,描写をクールにしている。しかしその努力とスタンス選択のモメンタムとして,この「労働史」は職場生活や争議の臨場感とエトス,組合内権力者への鋭い批判精神などを喪ったのである。
 兵藤氏は,結び近くに,くりかえし,80年代末以降の連合が「生活の質」の問い直し,「ゆとりある生活」の獲得,「産業優先型から生活重視型への経済社会の転換」,「社会的公正」の確保などを主張していることに注目し,ここに生活者の視点に立つ新しい「組合らしさ」の台頭をみている(pp.486-87,493,517)。また「個別賃金重視」の春闘戦略は,氏によれば 「経済整合性論から脱却の一つの道すじ」(p.520)である(実際にそう表明されているのか?)。さらに最近の商業労連や電機連合が,能力主義管理の浸透を基本的に肯定しながらも同時に「生活を保障する最低基準の確保」と「能力や業績を公平に評価する仕組み」を求め,また仕事そのものの充実をも政策の視野に入れていること(pp.532-36)にも,著者は新しい期待をつないでいる。
 「事柄を決める当の人びとの選択に対する評価はいろいろありうるとしても,人びとが苦悩の末選択した道である以上,そのなかから活路を探るほかないのではないか」と,兵藤氏は「あとがき」に書いている。上述の紹介部分は,このスタンスの典型的な応用例ということができる。最初に書いた労働史家の憂欝を思えば,わからないではない。しかし,どこかがおかしい。そう,「事柄を決める当の人びと」として兵藤氏が設定するのが組合のトップリーダーにかぎられているところがおかしいのだ。上述の「新しい」組合政策への評価には,高すぎる目線,トップリーダーの政策表明文書への依存,政策評価基準としての労働・職場・生活の不在,たとえば電機産業の開発技術者は「研究ノルマ」をコントロールできるのか,商業労連はデパートに出店する関連企業からの派遣店員への疑う余地のないしわよせの是正にかかわろうとしているのか,それらが問われていないこと―そういった本書の問題点がまさに典型的にあらわれている。早い話が,これまでの労働組合は,「生活重視」ではなく「産業重視」とでも表明していたのだろうか?
 『労働の戦後史』は,ほとんど類書をみない意義ぶかい作品であるだけに,後続する研究者の界隈に,これからの労使関係研究にあたって選ばれるべき方法と視点をめぐる多くの討論をまきおこすはずである。




東京大学出版会,1997年,2800円+税

くまざわ・まこと 甲南大学経済学部教授

『大原社会問題研究所雑誌』第472号(1998年3月)



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