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『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版



加藤 哲郎 著
『モスクワで粛清された日本人――30年代共産党と国崎定洞・山本懸蔵の悲劇』



評者:神田 文人



 旧ソ連の崩壊によって,これまで秘匿されていた資料がつぎつぎに流出し,表面化した。その結果,秘密のベールに閉ざされていたコミンテルンや共産党関係のダーティーな部分がえぐり出され,世界中を震撼させているといっても過言ではない。
 「日本共産党の顔」であった野坂参三は僚友山本懸蔵を裏切り,しかも野坂はソ連共産党のスパイとして戦後も日本共産党の指導者でありつづけた。その発覚は1992年9〜11月に『週刊文春』に小林峻一・加藤昭が連載したドキュメントである。ソ連共産党文書保管所で野坂の手紙が発見されたのが契機であった。それを改稿して『闇の男 野坂参三の百年』も93年10月に刊行された。野坂はそのとき100歳を越えていたが,共産党の調査=訊問をうけ,事実を承認して除名された。加藤哲郎「歴史における善意と粛清―『闇の男野坂参三の百年』の読み方」(『季刊 窓』19号)は一歩踏み込んで,野坂に売られた山本が国崎定洞らを密告していたことに迫っている。同じように旧ソ連の資料を使った和田春樹「歴史としての野坂参三」は『思想』の1994年3〜5月にかけて連載された。
 最近刊行された加藤『国民国家のエルゴロジー――「共産党宣言」から「民衆の地球宣言」へ――』は,戦前のソ連への亡命日本人,密出国で消息不明の日本人全部の洗いだしを目指し,国境の意味を問い,国民国家の在りを問題にしている。それによれば確認された日本人の粛清の犠牲者は25名,その他に粛清された可能性の高い人物約60名の名前を挙げている。また名越健郎『クレムリン秘密文書は語る』は,晩年の岡田嘉子と知己であった関係から,岡田・杉本良吉の越境事件を第一に取り上げているが,それだけではなくほぼ2年前から問題化していた日本共産党,日本社会党へのソ連の資金提供の疑惑についても系統的に論証している。
 もっとも資金提供についていえば,『文藝春秋』の1994年12月号の大野和基「新証言CIA対日秘密工作の全文書」が,10月9日の『ニューヨーク・タイムズ』に暴露された記事の内容を紹介している。それは1958年,岸内閣の大蔵大臣であった佐藤栄作がCIAに反共勢力拡大のために選挙資金を要請したというものである。どちらも外国の資金を秘密に要請し,受け取っている点では同列である。しかしアメリカの情報は外交文書の原則公開に照らしてのものであるが,ソ連の場合は全く秘密主義に終始してきたのに,国家体制が崩壊したことに起因している点で異なっている。
 かつて1968年のプラハの春のとき,流出した資料を使って,アメリカのジャーナリストのクレア・スターリングが1948年のチェコ革命のときのマサリク外相の「自殺」事件について調査し,他殺の疑い極めて濃厚であることを『チェコ戦後史の謎――マサリク外相の死』という本で明かにしたことがある。そういう激変のときでなければ資料が出て来ないのが社会主義国の通弊である。日本も情報公開は後進国で,政権交替のときに前政権の腐敗が暴露されることがあるが,しかし社会主義国ほどではない。ソ連崩壊後つぎつぎと明るみに出る社会主義国のおぞましい歴史を見聞すると,目的のためには手段を選ばなかった社会主義国だったからとはいえ,今後もどこまで新たな事実が暴露されるのか,空恐ろしい気がする。

 

 ところでここで取り上げる著書もソ連,コミンテルンから流出した資料を利用して,の成果である。著者は1970年刊行の川上武・上林茂暢『国崎定洞』を読んで以来本書の主人公の国崎定洞に関心をもち,その足跡を追跡して,1977年に医学史家の川上および松井坦と共編著『社会衛生学から革命へ――国崎定洞の手紙と論文――』を公刊していたが,今回は『季刊 窓』19号の記事を敷衍して国崎がスパイの嫌疑を受けて銃殺されたこと,および他の犠牲者のことを明らかにしている。結論からいえば,国崎を売ったのは山本であったということである。一体ソ連における日本人共産党員の世界はどうなっているのであるか。また,日本共産党は野坂が山本を売ったとして野坂を断罪し,山本を評価したが,その山本が仲間を売っていたのであれば,一体こうした歴史,指導的幹部の評価をどのように辻妻合わせをするのであるか,他人ごとながら気に掛かることである。
 本書の構成は序章「粛清の解剖学」で粛清の思想的前提を述べた後,1〜9章で国崎,山本,野坂等のソ連における行動を明らかにし,さらに終章の「杉本良吉・岡田嘉子の越境と宮本顕治のマンダート幻想」,エピローグの「地獄への道は,無数の善意で敷詰められていた」を付け加えている。著者は「あとがき」で,旧ソ連公文書館の「国崎定洞ファイル」入手については『闇の男』の著者たち,翻訳の協力者の藤井一行富山大学教授,沖縄出身のアメリカ共産党員らのファイルについてはフジテレビ報道局の熱田充克等のほか多数のひとびとの名をあげ,さらに長時間のインタビューに応じた運動関係者の千田是也,石堂清倫,山本正美・菊代の諸氏,30年代の日本人粛清最初の犠牲者の勝野金政,根本辰の遺族達に謝意を表している。それら多数の人の協力を得たとはいえ,本書をまとめるについては著者の努力,能力に負うところ大であったのは否定できない。国崎の調査についての執念と,ソ連崩壊以前から精力的にコミンテルンや国家論研究に従事してきた著者にして初めて可能になったと思う。
 今回新たに発掘された資料は「国崎定洞ファイル」約20点というが,とくに決定的ともいえる重要な資料は『季刊 窓』19号に藤井教授によって全文が翻訳紹介された,コテリニコフと山本懸蔵との,さらにコテリニコフと国崎定洞および野坂龍との会談記録であった(p.83)。共産党でいう「会談」とはおそらく「尋問」であったろう。山本,国崎を担当したコテリニコフは,粛清最盛時には人事部長として有名となるが,1934年当時はラジッチ=ドラチコヴィチ編『コミンテルン人名事典』にも登場していない一機関員にすぎなかったという(pp.46〜47)。しかしイデオロギー世界においては主流派に属するかぎり絶大な権限を振る舞うことができたのである。
 さて,本書は調査進行中の中間報告であり,例えば執筆当時確認できなかった「スドー・マサオ」については『毎日新聞』の94年6月7日に情報を求めて記事を発表した。その結果,『国民国家のエルゴロジー』では,遺児ミノル=スドー・ミハイル・マサオヴィッチによる,戸籍名「須藤政尾」の父探索の結果も記されている。中間報告であるため随所に推理,推論が登場する。また多数の関係者の調書や回想録が利用され,叙述も十分に整序されていない感が残る。そこで本書の構成にしたがって整理することをしないで,巻末に収録されている便利な年表を参考にしながら,私の読み取った理解に基づいて本書を紹介し,その上で感想を述べることにしたい。
 国崎は東京帝大医学部助教授の1926年9月,社会衛生医学研究のためにドイツに渡った社会衛生学の草分けで,もし帰国していたら社会衛生学講座の初代主任教授になったであろう人物である。しかし社会科学に傾倒して日本との秘密連絡の任務に従事し,ドイツ人女性フリーダと結婚,1928年11月9日,長女タツコをもうけた。翌年末「革命的日本人グループ」を結成,レーニン『帝国主義論』の翻訳出版等に従事,日本との連絡の窓口になった。もう30年以上も昔のことになろうか,私は石堂清倫氏から「和田哲二」というペンネームでのレーニンの『帝国主義論』等の翻訳者が国崎であると教えられたことがある。しかし私は本書の著者のように調査はしなかった。今回の著書をみて著者の執念を思わずにはいられない。
 ところで,野坂が1928年の3・15事件で逮捕されながら,30年2月に眼病で保釈されたという「公認の事実」が信用できないことは今日では明らかである。一方肺結核で病床にあったため逮捕を免れて警官の監視下にあった山本懸蔵が,妻の関マツの演技および医師馬島〔 〕の援助で重症の肺結核を装い,事件後間もない同年5月初旬に脱出,6月にはソ連に密出国した。これについては当時,5月15日の『無産者新聞』の「われらの山懸雲がくれ」の記事,30年2月号の『戦旗』の久坂栄二郎「×ケン萬歳」等で山本の活動振りが評価,宣伝された。爾来,公認の党史では一貫して共産党の輝ける指導者の一人として位置付けられてきた。
 ところが,この脱出劇については当時から疑問視する声があったことについて石堂清倫氏の証言を紹介している(p.102)。日本の優秀な特高警察網を潜り抜けることが可能かどうかという疑惑である。著者はその頃の山本が「『特高のスパイ』であったとは考えにくい」(p.155)という前提で,山本が28年夏のコミンテルン第6回大会に出席,さらに,29年夏,ウラジオストックから3人の船員をクートベに推薦,入学させた等について述べている。しかし同じ頃片山潜の次女で非党員の千代子の入ソがコミンテルン執行委員会で問題となり,さらに同年秋のクートベ入学志願および片山との同居に山本が反対,実現しなかった。そのため片山と山本との間に違和感が生じた。皮肉にもその頃山本推薦のクートベ学生松田の日本大使館への逃亡事件が発生したため,片山は山本の行動に疑問をもち,コミンテルン東洋部ないしは組織部とともに山本を告発し,査問したのではないかと著者は推理する。
 この間の28年3月,国崎の推薦でフランスから入ソした勝野金政が片山の私設秘書となり,『自伝』執筆に協力していたが,片山療養中の1930年10月末,山本の告発で逮捕され,また国崎にクートベ入りを推薦された根本辰は国外追放処分されたと推定している(pp.169〜182)。当然,片山の山本不信は増大した。片山は,山本の日本脱出を援助した医師の馬島を招請して山本についての疑問を問いただした。それは1930年12月,片山が自伝執筆に最後の気力を振り絞っていた頃であろうと推理している(p.202)。
 一方1931年3月20日,日本を脱出した野坂夫妻は4月はじめウラジオストックで山本に再会した。この脱出が本人がいうように党代表としてのものか,当時の党の最高責任者であった風間丈吉のいうようにレーニン・スクールヘの勉学のためのものであったのかは問題である。野坂のいう「党代表として」という「自白」は証拠とはいえないであろう。著者は,片山と山本の不穏な対立を懸念した風間が,両者の緩衝的役割を期待して送り込んだのではないかと推理している(pp.207〜8)。さらに野坂の証言で山本は難を免れ,正式にコミンテルンの日本代表になったと推理している。
 この間,ベルリンで家庭をもった国崎はコンと称し,1929年5月,東京帝大助教授を依願退官し,以後在独生活を続け,1932年9月4日ソ連に入国し,片山と頻繁に会ったというが,1年余り後の33年11月に片山は病没した。国崎のモスクワ入りは片山の要請であり,国崎は片山の「第3の自伝」のドイツ語訳に従事したのであろうという(pp.225〜230)。そうした片山の側近であったとすれば片山の死は国崎にとって大変な痛手であった。しかも翌34年6月,逮捕投獄されていた勝野が釈放された後,日本大使館に逃げ込んだ。そして7月31日出国して日本に帰国する。国崎推薦の勝野のこの行動は国崎への疑惑を深める。さらに野坂の要請で入ソした共同印刷活版工出身の伊藤政之助が,国崎との関係を怪しまれて野坂の査問を受け,譴責処分を受けたという。 1936年5月に野坂の渡米後日本共産党のコミンルン代表となった山本は,8月4日,共産党の許可なく密出国して30年6月のプロフィンテルン大会に出席したことなどを理由として伊藤をコミンテルン国際統制委員会に告発,伊藤は10月29日に除名された。翌年銃殺されたらしいという(pp.281〜282)。
 こうした状況は国崎にとって決定的に不利であった。伊藤の拷問による自白で国崎は「日本帝国主義のスパイ」とされ,1937年8月4日逮捕され,12月10日銃殺された(p.283)。つまり,国崎は山本に売られたのだというのである。国崎以前にも須藤政尾,前島武夫,ヤマザキ・キヨシらが犠牲になっていた。恐ろしい粛清時代であった。全員が疑心暗鬼の状態にあったというべきである。しかし山本自身も安泰ではなかった。 1937年11月2日に無実の罪で逮捕され,39年3月10日には銃殺刑に処されたのである。原因が野坂の密告にあったことは今や周知の事実である。当時アメリカにいた野坂はモスクワの状況を詳細に検討した上で,保身のために山本を売った。 37年8月,ディミトロフ宛てに電報を,アンドレーエフ宛てに示唆の連絡を送り,11月にはディミトロフにメッセージを送ったという(『闇の男』)。さらに野坂は山本逮捕後も38年2月と39年2月22日の2回にわたってディミトロフ宛てに手紙を送った。その結果山本は銃殺されたのである。疑心暗鬼のソ連社会にあっては自分が生き延びるために他人を売らなければならなかった。
 著者は「すべての日本人を『偽装スパイ』と疑うソ連の秘密警察」という一節を設けて38年以降の犠牲者のことにも触れている。そのなかには杉本良吉・岡田嘉子,寺島儀蔵,野坂龍(野坂夫人),関マツ(山本夫人)等16名の名前を挙げている。これが不十分だったことは『国民国家のエルゴロジー』ではさらに人数は増えていることが示している。それにしても凄まじい粛清劇である。杉本・岡田の国境脱出劇について岡田は一時期朝鮮人の医師と結婚していたと自伝で述べていたが,実態は僻地の収容所に入れられた後国家保安省の監獄に移され,対日戦略要員として養われていた。しかしその事実を,出所後明かしてはならないと約束させられていたから真実を語らなかったことが今では明かにされている。悲劇の原因の一端はソ連を理想の国と認識した杉本らにもあるが,二人の越境亡命について「資本(もとで)」としてソ連に送ったというような発言をする宮本顕治の発言(p.308)は全く人間性を欠いている。
 資本主義社会によって疎外された状況から人間性を回復し,経済的不平等を社会主義的計画経済で克服しようという理想で始まり,その実現社会であるとみられていたソ連においてこれほどの人間蔑視が行われていたことをどう考えたらよいのか。それに同調した日本共産党の指導者が権謀術数家に過ぎなかったことは如何に考えるべきか。レーニンは正しかったが,その後のスターリン,ブレジネフが間違っていたというような論理でごまかせる問題ではない。

   

 序章の「粛清の解剖学」で著者は凄まじいまでの粛清がなぜ起きたのかという背景について述べ,その理由を4点挙げている。それは以下の通りである。
 第1は「ソ連共産党によるコミンテルン支配のメカニズム」である。コミンテルンは本来世界共産党で,各国共産党はその支部である。したがってソ連共産党もコミンテルンの一支部にすぎない。しかしソ連以外に社会主義国のない状況下で,しかも本部がモスクワに置かれている限り,コミンテルン執行委員会における「ソ連共産党代表団」の比重は圧倒的だというのである。コミンテルン内の各種の組織の頂点にはほとんどの場合,「ソ連共産党員がいた。公式にソ連以外の共産党代表が頂点に立つときも,ソ連共産党員が補佐役になった。それらを実質的に支配したのが,コミンテルン執行委員会内ソ連共産党代表団であった」という。この理由を敷衍すれば,もしソ連共産党員であったとすれば粛清の嵐は少し和らいだかも知れないということになる。たとえば国崎定洞が入党したのはドイツ共産党だった。著者はその例証として,かつての日本共産党副委員長だった袴田里見はソ連共産党に入党したことを誇っていたことを挙げている。
 第2に「コミンテルン執行委員会機構内ソ連共産党細胞の役割」について述べ,コミンテルン執行委員会の官僚機構に働く,数百人のソ連共産党員の問題を取り上げている。
 第3には,第2の具体的な機構としての,「組織部(ORG)・人事部・国際連絡部(O−MS)など,執行委員会官僚機構の中枢部」を指摘し,先に述べた山本や国崎を尋問したコテリニコフのことを例に挙げている。
 第4に挙げているのは「コミンテルン国際統制委員会(IKK)」である。この組織がスパイの逮捕・投獄や処刑等を管轄していた機関だったからである。
 私はこの4項目は背景説明としては不十分と考える。第2,3,4の理由は全て第1の理由のバリエーションで,あえて区別せずに一括してもよい。要するにコミンテルンという組織は 「世界共産党」で各国はその支部だといいながら,ソ連共産党の世界戦略のための下部機関に過ぎなかったということである。現在問題にすべきことはもう一歩踏み込んで,その原因を明かにすることであろう。さらにいえば何故コミンテルンのような組織が作られたのか,何故ソ連共産党のような組織で,ロシアで革命が実現したのか,という類いの問題である。
 この点について若干私見を述べると,私は諸悪の根源はマルクス主義のイデオロギー,レーニン主義のイデオロギーだったと思う。いままで幾つかの短い評論で書いてきたことではあるが,簡単に要約すると次のことである。マルクスもレーニンも「政治的民主主義」についての理解を欠いていた。経済問題の分析だけで「新しい世界」の実現を社会主義革命に託した。その際レーニンが援用したイデオロギーは「プロレタリア民主主義はブルジョア民主主義に優る」というものであった。プロレタリア民主主義を代表するのは共産党であるということから,総選挙では敗北したにも拘らず議会を解散させて一党独裁体制を樹立した。
 これと密接に関連する党組織論が「民主集中制論」である。これは民主的な装いをこらした集中制で,党内の横の連絡を否定し,上意下達の関係だけで党運営を図るもので,党内民主主義を否定し,独裁者を生み出すイデオロギーに他ならない。何故なら部分は全体に,下部は上部に服従することを強制する組織論だからである。すべての社会主義国が一党独裁で,書記長なり,大統領なりが独裁者になったのはこうしたイデオロギーがあったからである。こうしたイデオロギーが生きている機構においては独裁者への批判は反逆と見なされる。権力を握っていない国の共産党においては批判をすると除名される。権力をにぎった社会主義国においては除名では終わらない。銃殺による処刑までが一般化したのである。
 本書に書かれていることで宜なるかなと思ったのは,『レーニン全集』未収録のレーニンの手紙・メモ等のなかから「革命的テロル」指令が発表されているということである(p.51)。これこそ私が指摘した点を象徴しているのではないか。私は総選挙で負けたのに権力を握って放さなかったレーニンが民主主義者とは思えない。「革命的テロル」を主張してもおかしくないと思う。それを継承したスターリンが粗暴な人間で,書記長に適さないといっても始まらない。一党独裁が生み出した不可避の産物だったのである。
 最後に本書でもう一つ感心したことについて触れておきたい。それは日本共産党について,とくに宮本顕治について率直に批判を展開していることである(序でにいえば,アンドレ・ジイドと対比での宮本百合子の「壊れた鏡」の指摘も的確である)。その象徴は「スパイ・リンチ事件」である。共産党はあくまで「スパイ査問事件」と強弁している。その件について著者は何箇所かで「スパイ査問致死事件」と書いている。私もあの事件のことを調べたことがある。共産党がいうような被害者小畑の体質だとか,自傷事件というようなこととは全く連う。小畑の死体検案書は全身に大小無数の内出血の斑点があった。これは法医学の教科書に照らして窒息死である。彼は殺されたのである。ところで私は自分が編纂した『昭和史年表』では「スパイリンチ事件(小畑達夫が窒息死)」とまでは書いたが,「致死」までは書かなかった。それを著者は書いている。これは率直である。もっといえば「殺人事件」だったのである。
 それはともかく,今社会主義崩壊の現実に直面し,また日本共産党の余りの醜態に,個人的には憤慨し愚痴を零しながら,なおかつ沈黙を守っている「進歩的文化人」が多い。 1945年の敗戦は日本人に価値観の転倒をもたらした。そのとき軍国主義的教育者は占領軍の強制で,教壇から排除されたり,民主主義者に転換した。今回の社会主義崩壊は社会主義者にとってはそれにも匹敵する価値観が転倒する事態であったと思う。しかしほとんどが沈黙を守っている。これはいかなることであろうか。日本共産党批判があるのか,ないのか。あっても沈黙しているというのは思想的退廃ではないだろうか。もっと率直であって良いと思う。そうした状況の中で著者の率直な記述に敬意を表するものである。こうした社会主義の恥部の解明の一層の進展を期待したい。





青木書店,1994年6月,358+ID頁,定価2,987円

かんだ・ふひと 横浜市立大学文理学部教授

『大原社会問題研究所雑誌』第435号(1995年2月)



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