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『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版



村田 陽一 編訳著
『資料集 初期日本共産党とコミンテルン』




評者:岩村 登志夫




 村田陽一氏のライフワークも本書の上梓を俟ってはじめて掉尾が飾られることになろうなどとは,著者ご自身も先に一連のお仕事をいったん完成された段階には夢想だにされなかったかも知れない。
 いささか評者の私事にわたることをお許し願うならば,1989年6月下旬,村田氏の事前のお骨折りもいただいた結果,評者はラトヴィヤ科学アカデミーの招待によるリーガ滞在の帰途,同アカデミーのシテインベルグ教授ご夫妻のご案内を得て,モスクワのマルクス・レーニン主義研究所をはからずも訪ねることができた。
 同研究所国際共産主義運動史部部長のフィルソフ教授の研究室で,前部長のシリーニャ教授並びに同部員のゲオールギエフ氏も同席されて懇談は2時間半に及び,事前に依頼しておいた調査結果のひとつとして,32年テーゼのロシア語オリジナル・テキストが同研究所文書館Архималаに現存する事実が明らかにされた。別の機会にも述べておいたように,同文書と思しきものは,1933年にはモスクワでInprekorr所載の独文テキストからの重訳の偽装のもとに公表されている事実を,当日夕食をともにしながら,シテインベルグ教授夫妻には評者から伝えるとともに,同様の点は帰国後ただちにフィルソフ教授らにも書き送った。
 1988年夏のソ連邦共産党中央委員会決議によって,教授らもコミンテルン史上の重要文書の閲覧の自由を初めて手にしたと述懐されるシリーニャ教授の表情は,今も眼前に彷彿とする。
 著者村田氏の文字通りの使い走り役を仰せつかってのリーガ=モスクワ2週間の旅が,本書の上梓の準備過程にどれだけのかかわりがあったものでもないが,村田氏の編訳著としてまもなく本誌に連載されるにいたるシテインベルグ教授の『ヤーンソン伝』とあわせて,国際共産主義運動史の大変動を抜きにしては,本書も編まれることがなかったとの思いは禁じ得ない。
 本書は,Архимала旧蔵の戦前日本共産党関係文書44点を次の3部に編成,収載する。
 第1部 第1次共産党の弾圧から党再建まで(1923‐26年)〈23点〉
 第2部 コミンテルンの日本についての7月テーゼをめぐって(1927年)〈16点〉
 第3部 3・15の弾圧から侵略戦争反対闘争の展開へ(1928‐1932年)〈5点〉
 さらに,福本和夫予審訊問調書及び高橋貞樹予審訊問調書の抄録,党名・匿名一覧,カーリス・ヤーンソンKarlis Jansons 略伝が付録として添えられ,編注と解題が巻末に置かれる。
 本書並びに収載資料(予審訊問調書も含めて)の性格は編注,解題に詳しい。また貴重な創見がそこには満ちている。その要約紹介にとどまるような愚は,評者としてはここでは避けたい。

 第1部で明白にされる史実の最大のものは,1925年6月8日に,開設まもないソ連邦大使館員 embassy collaborator ; сотрудник посольства(著者の「勤務員」の訳語は「館員」と峻別される)の資格で来日,27年2月までコミンテルン駐日代表の重責を負うカーリス・ヤーンソンの活動の一端である。「ヤマト」の仮名を使用してのモスクワとの往復書簡には,シテインベルグ教授の著作に利用されながら,本書には洩れているものもあるものの,25年秋のソ連邦労組代表団来日の経緯も含め,当時の日本の労働運動についての認識が窺える。その内容は極めて具体的であり,第2部収載文書にみえる27年テーゼ起草過程の激しい応酬の伏線として味読に値する。日本共産党再建過程にかんするヤーンソンの物心両面での役割には測り知れぬものがあったことが,第一次史料に即して明白にされる。
 そうであるだけに,たとえば,1925年9月7日付のヤーンソンの書信には,本書収録のロゾーフスキー宛のものと並んで,ピャートニツキー宛のものもあるとすれば,コミンテルン執行委員会書記局に占める「金庫番」としての彼の独自の任務に照らしても,その採録洩れが惜しまれる(アイノ・クーシネン,坂内知子訳『革命の堕天使たち』平凡社,1992年,49,53,72,93−94頁,参照)。

 本書の白眉は第2部にある。量的にも,資料収載の253頁のうち,144頁の紙数がこれに費やされる。付録の両予審訊問調書抄録とあわせて177頁に及び,総頁数の半ばにも迫る。この点でも,27年テーゼ作成の経緯をめぐる第一次史料の収録に本書の最大の意義が見出されてよい。
 もっとも,ここに収められる諸文書の史料批判の作業を介しての史実確定は,かなりの難事業であるといわねばなるまい。山川均の意見書(資料25,26)提出の姿勢には明らかに作為があることは,著者も正当に指摘されるところであるが(358,361頁,参照),ヤーンソンの1927年5月3日のコミンテルン執行委員会日本委員会報告(資料31)がその東京在任中の言動の忠実な再現とばかりはいえそうにもない点も,本書採録の徳田球一=渡辺政之輔派の見解と対比するかぎりでも,十分に推察できる。
 ただ,モスクワ側からすれば,徳田=渡辺派こそがトローツキー=ジノーヴィエフ派にくみする「分派」にほかならず,離日直前のヤーンソンの活動の当否が「分派」結成の意図の有無で測られ著者の注釈は,いささか非歴史的に過ぎよう。(361−362頁,参照)。
 この点も含め,本書の上梓は27年テーゼをめぐる言葉の本来の意味での歴史学的考察を初めて可能にし,また不可欠にするものである。
 その場合,姉妹編に当たる一連の既刊の著作に収録されている諸文書との照合はもちろん欠かせぬが,その他にも,多くの文書の渉猟が必要になろう。例えば,近藤栄蔵(谷権平)がモスクワ在任中に執筆する著作や,ハ・テ・エイドウスのプロフィンテルン機関誌上の論稿も系統的に考察されねばなるまい。
 モスクワ=東京の往復書簡でも谷は登場し,その日本問題にかんする著作刊行にも触れる(29,31頁,参照)。その『日本における資本と労働』Г.Taни,Капитал и труд в Японии,И3д.Πpoфинтерна,1926,107 cтp.は,その出版所からも重視されてよい。
 ここには,「1921−22年の労働運動の分野で最も顕著な事実」として社会主義同盟内の分化が挙げられ,1921年の「日本共産党」の結成,翌22年の総連合大会の決裂がその証左とされて,山川均,荒畑寒村の両人は,アナーキズムから袂別して「今や傑出せるボリシェヴィキ」の語が冠せられる(cтp. 94‐95)。
 近藤の自序には「1926年1月,モスクワ」とあり,ヤーンソンの上記報告でも詳細をきわめるような党再建過程の山川=荒畑派と徳田=渡辺派との角逐の処理にヤーンソンも腐心する折だけに,とりわけ注目を惹かずにはおかない。
 「1921年に共産党は結成された」というヤーンソンの認識も,近藤の叙述を踏襲するもののようである(143頁,参照)。
 ちなみに,ヤーンソン報告の記録は英文タイプで作成され,ペン書きによる補正の痕跡を随所にとどめるにも拘わらず,右の箇所はタイプ印刷のままである。この時も,ヤーンソンの英語の報告は高橋貞樹が通訳したはずであるが,徳田も席上,疑義を差し挟む余裕を失ったものか。
 プロフインテルン執行ビューローに日本代表として席を占める近藤の職責遂行も,エイドウスの補佐なくしてはありえなかったとみてよく,大阪駐在副領事の経歴も伝えられる彼の日本問題分析には重要な意味が認められるべきである。
 本書では,徳田の報告が行われたモスクワの1927年4月26日の会議の議事録にエイドウスも登載される。プロフィンテルン代表として東洋部部長のゲレル(ヘラー)と併記される。ヤーンソンは同夜の会議再開後になって夫人とともに加わる(130,132頁,参照)。これは,ヤーンソン夫妻のモスクワ到着が遅れ,その間の代役はエイドウスが務めていたとも解される。日本労働運動にかんするプロフィンテルン執行ビューロー文書(資料28a)も含め,27年テーゼ起草過程でエイドウスはヤーンソンの最も緊密な協力者であった可能性が高い。
 エイドウスが32年テーゼに対してはヤーンソンともども異論を唱える事実が知られているだけに,27年テーゼが有する意義を鮮明にする上にも,このことは留意されてよい。

 著者と見解を異にする些事のひとつに,27年テーゼ原案(資料36)についてのヤーンソン修正意見(資料37)にみえる Teiseism の表記がある。片山潜の修正意見(資料36)にも同様の表記がみえ,いずれも手書きの8字からなる単語は判読に苦しむところである。「monarchyという用語によっては,天皇制の特異性は表現されないので,“Teiseism”という用語を用いた」との推量のもとに,「帝政主義」の訳語が充てられる(200,377頁,参照)。
 Tenseismとも読み取れるだけに,Tennosei-ismの訛音,「天皇制」の訳語の嚆矢とみてもよく,Tsarism; Цаpизм との連想が働いたことは想像に難くない。著者も認めるように,「帝政主義」の訳語の先例はどうやら absolutism が原語表記であって,その前後にある「専制主義」の訳語の誤植に過ぎぬ可能性もある(山辺健太郎編『現代史資料』第14巻,みすず書房,1964年,37‐42頁,参照)。 27年テーゼの monarchy の訳語としてヤーンソンは「天皇制」に固執したとの記憶がたしか鍋山貞親にはある。
 さらに,ヤーンソンの「天皇制」認識が32年テーゼのそれとは峻別される上で,彼の報告の次のくだりも注目に値する。
 We can not use the slogan “Confiscate and divide the land”because there are so few big landowners in Japan.Our slogan must be “Do not pay rent”.
 ここで存在が否定される〈big landowners〉の表記は,27年テーゼ原案にあっても,成案では,〈large-scale landownership〉に改められる(142,201頁,参照)。封建領主=農奴主=貴族の系譜に連なる欧米諸国の big landownership と日本の寄生地主制とは階級的性格が峻別されるとのヤーンソンの認識が,訂正を余儀なくさせたものかも知れない。
 なるほど,この時期にすでに兆すコミンテルンの「左」旋回が,27年テーゼをヤーンソンの基調報告からかなりかけ離れたものにする点は,著者も注意を喚起するところである(377‐378頁,参照)。しかし,仮にヤーンソン報告を座標軸とすれば,32年テーゼのそれからの乖離は,27年テーゼのそれとは質を異にするというべきであろう。
 32年テーゼの旧訳作成がこのような視野を欠いても,歴史的制約として首肯されるが,27年テーゼにかんして本書が提起する新たな視点に立てば,32年テーゼの正文(露文)・独文両テキスト異同対照表(資料44)も,旧訳語自体に遡っての再検討の余地が残されていそうである。32年テーゼ起草者にとっては同義語に過ぎぬかぎり,「大土地所有者」Grossgrundbesitzerの「地主」помещики(英文テキストではlandlords)への訳語「訂正」も,同テーゼの真意を伝え難い(251頁,参照)。
 「32年テーゼの旧訳がこの国の運動ではたした役割」(334頁)とは別に,同テーゼの正文テキストによる新訳収録は,姉妹編以来の著者の編訳の基本方針に悖るものであろうか。
 32年テーゼが1933年の露文テキスト公表にさいしては重要語句の改竄で事実上の空洞化を招くような欠陥を秘めていたかぎり(383−384頁,参照),27年テーゼと対比しての訳語の再吟味もその欠陥解明には不可避となろう。
 なお,32年テーゼ正文テキストには,露文のものとは別に,英文のものもАрхималаには保管されているとは,1989年6月26日のML研究所訪問で評者が受けた説明である。それには野坂参三の署名があるとのことであった。露文テキストの署名者4人にコミンテルン極東部長ミフも加えて構成される日本委員会がテーゼ起草に当たったとの著者の解釈では,野坂は含められない(333頁,参照)。
 コミンテルンとその各国支部の歴史が過不足なくいまあらためて問われようとしている。本書もまた,大正デモクラシーの意義の再検証にはきわめて有効な同時代認識に満ちている。
 西欧諸国でとみに高まりつつある国際共産主義運動史の本格的調査研究に十分に伍するに足るだけの本書の学術的価値は,一連の姉妹編にもまして国際的にも高く評価されるところとなろう。著者の一層のご長寿を祈念してやまない。





大月書店,1993年,A5判,xiii+384頁,10,000円

いわむら・としお 神戸市外国語大学教授

『大原社会問題研究所雑誌』第415号(1993年6月)



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