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『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版



Michae1 A. Weiner  Race and Migration in Imperial Japan
西成田 豊 著   『在日朝鮮人の「世界」と「帝国」国家』




評者:岩村 登志夫




 書名にも伺えるとおり,戦前期を主とする在日朝鮮人の史的考察にlmperia1 Japan, 「『帝国』国家」とのかかわりを重視する著作が期せずして内外の研究者の手で相次いで上梓されることはたぶん偶然ではなく,意義深い。尤も,興味あることに,両著作は視点をかなり異にし,ここでもその一端に触れて書評に代え,両書の豊かな史料収集,多岐にわたる論点,論証のあり方については,読者各位の味読に委ねたい。
 イギリスのシェフィールド大学日本研究センター所長 Michael A.Weiner氏には早くImmigrants & Minorities 第2巻第1号(1983年3月,シェフィールド)論文 Koreans in the Aftermath of the Kanto Earthquake of 1923 があり,The Origins of the Korean Community in Japan 1910-1923,Manchester,Manchester Univ,Press,1989,の前著も知られる。 1991‐92年の日本滞在の上,上梓される新著は,本研究所所長二村一夫氏の「はかり知れぬ援助と助言」が巻頭の謝辞に特筆され,周到な研究態度は巻末のきわめて重宝な文献目録にも窺われる。
 第1章「人種・民族・帝国」に著者の視点は縷述される。「人種主義とは不平等な経済的政治的諸関係の特異な組合せの所産であり,これらの諸関係の持続的な存続の説明,正当化に奉仕する体制支持イデオロギーとして理解されねばならぬ。…人種主義的イデオロギー・政策は内容が固定したものでもなければ,資本主義もしくは19世紀末帝国主義のたんなる結果でもない。」(10,12頁)このように説く氏は,前近代に遡及し,raceにnationを重ねる家族国家観に焦点を合わせて日本の人種主義的イデオロギーの形成を辿り,併せて吉野作造,矢内原忠雄の異端思想を積極的に評価する。
 最終章の第7章「同化政策の限界」の次の一文にも,氏の視点は明確である。「被搾取minority住民の存在は,それが日本の内部の被差別部落民もしくはアイヌであれ,植民地外緑部からの中国人・朝鮮人移民であれ,日本人の人種的identityの具現に役立つ重要な要素となった。…こうして,日本における人種主義的な論議の生産,再生産は客観的経済的現実のなかに嵌め込まれた。問われる論点が失業,賃金もしくは革命的扇動のいずれであれ,人種的要素がつねに介在した。」(210,211―212頁)
 第2章「移民,第1段階」は「日本向け移民(1910-25年)」など3節で成り,1899年勅令の移入制限措置が中国人苦力労働者にとどまる事情としては,「定着朝鮮人communitiesがすでに形成される南満州,間島への朝鮮人の持続的流出の下では,日本向け移民は,1910年の朝鮮人入国規制撤廃にもかかわらず,影が薄く」,日本はなお「農業移民にははるかに吸引力に乏しい見込み」にとどまると説く(53‐54頁)。
 1899年勅令の移入制限措置が朝鮮人を除外するとの山脇啓造氏らの解釈は,西成田氏も従うところながら(41頁),氏が第1章「植民地朝鮮農業の構造と動態―在日朝鮮人の供給構造―」,第2章「在日朝鮮人の人口と生活」で力説する1920年代朝鮮南部農村の「商品経済化,農民の階層的分解,都市的労働市場の展開」 (47頁)と,それにともなう貧農層の朝鮮労働市場経由の日本移入という立論には,むしろWeiner氏の視点が符合する。西成田氏が「はじめに」で前提するように,「朝鮮と日本との間に形成される労働市場」に考察の焦点を絞るとしても,「農業移民を含む東アジア労働市場の構造的総体」をすっかり捨象するわけにはいくまい(3頁,参照)。なお,山脇氏がその『近代日本と外国人労働者』(明石書店,1994年,87頁)で付言するところでは,1899年勅令を朝鮮人には適用せぬ解釈通達も「政府はあえて一般に広く知らせなかった」疑いも残るらしい。
 西成田氏は第3章「在日朝鮮人の就業構造」では1920‐30年代の在日朝鮮人労働者の実態を各道府県別に立ち入って入念に跡づけ,とりわけ,その「階層的分化」(115,125頁)に着目する。この論点は,第4章「在日朝鮮人団体の構成と労働運動」で氏が試みる「組織的強靭性をもつ『民族系』団体」(136頁)の再評価にかかわり,同時期の「『帝国』国家から相対的に自立する在日朝鮮人の社会的ネットワークないしそこで培われる共同性や文化」(141頁)としての在留朝鮮人「世界」の形成が説かれる。Weiner氏が,「移民の文化的,言語的伝統にともかく積極的価値を認める相対的に安定した朝鮮人communitiesの形成」(52頁)を1930年代の日本に見出す視点と,似通っている。西成田氏にも20年代後半から30年代にかけての「朝鮮人集落」形成(63頁以下)の考察があり,氏の「世界」もcommunities(社会,集落)の謂か。
 これと対比して,Weiner氏は第1期の移入朝鮮人の大半をsojournerと呼び,さらに,その7割が土建産業の dekasegi(migrant)1abourと見積って,朝鮮人労働者の抵抗を困難にする要因にthe nature of their employment as migrant labour and the fluidity of the immigrantcommunity as a whole を算えるが,鈴木文治の 『国民新聞』寄稿の見出しも dekasegi chosenjin(Korean Migrant Workers)と表記される(57,61,73,76頁,参照)。後者の dekasegi(migrant),すなわちsojourningとは識別されるべきものとして,前者のmigrant labour はhoboを意味し,watari 1abourの表記がふさわしい。氏自身が在日本朝鮮労働総同盟(労総)の組織基盤に算えるmigratory labourer がそれに相当する (170頁)。
 朝鮮人飯場頭が西成田氏のいう「『民族系』団体」で中心的役割を占める事例は,「階層的分化」にかかわって意味深いが,松田利彦氏がその『戦前期の在日朝鮮人と参政権』(明石書店,t995年,86‐90頁)で説くところでは,「親日派」団体にもその傾向はある。官憲のいう「融和親睦系」団体から「融和」団体とは別個の「親睦・相互扶助」団体が析出できるとする西成田氏は,一般構成員の政治意識が指導層のイデオロギーと乖離する下で,大衆団体としての日常的機能を重視する。 Weiner氏も,在日朝鮮人留学生団体について「民族主義と共産主義ないし無政府主義」の官憲の識別をよそに,「最も急進的な学生団体すらも往々にして民族主義的諸要素を具現し,会員の大半にとっては,特定のイデオロギー的立場よりも,むしろ民族解放が自らの活動の焦点となった」と指摘するが(70頁),在日朝鮮人「世界」の論拠として,官憲の「融和親睦系」の命名に疑義を呈する西成田氏の筆法は,それとはおよそ似て非なるものである。
 これとは別に,水野直樹氏が早く「新幹会束京支会の活動について」(『朝鮮史叢』第1号,1979年6月)で提示する論点も,西成田氏の「親睦・相互扶助」団体認識をもっとダイナミックなものにしたであろう。姜萬吉氏もその『韓国民族運動史論』(水野直樹氏訳,御茶の水書房,1985年,72‐81頁)で跡づけるモスクワの新幹会対策破綻の過程も,西成田氏の視野にはない。

 Weiner氏は第3章「文化政治の帰結」で3・1運動後の朝鮮植民地支配も同化政策の強化にすぎぬと確認の上,第4章「移民1925‐38年」では,第1期のsojournersの側面の継続と併せて,移入総数の激増に加え,阪神・京浜工業地帯の shin-machi, basue-machi に gradual ‘permanence’ of the loca1 Korean communities を見出し,30年代の Chosen Machi (Koreanghetto)の出現を重視する(122一123,140‐144頁)。先述のとおり,西成田氏にも似た視点があり,大恐慌期以降の在阪朝鮮人分布の考察も,1932年の東成区・旭区分離を勘案して是正されてよく(63頁,参照),小山仁示氏がその『戦争差別公害』(解放出版社,1995年,121一122頁)で説く点とも,Weiner氏の見解は符合する。
 その際,小山,西成田両氏も再確認する在阪朝鮮人に占める済州島出身者の高率とその集住傾向は,金文準,趙夢九らの左翼的活動も依存する ethnic な側面にかかわって重視される。
 尤も,北九州炭鉱地帯は Weiner 氏の Chosen Machi 形成の議論からは除外されるが,西成田氏の見解は必ずしも明白ではない。氏は第2章第2節「出稼から定住へ」で福岡県を他の大都市圏と同列に扱うが,官庁統計にいう「定住」層の急増も Chosen Machi 形成の必要条件ではあっても,十分条件とは見做せぬ。また,「同一府県在住期間」も「定住」傾向を占う指標になるとは限らない。兵庫県在住朝鮮人が「定住」層の高率にも拘わらず,「県内在住期間」は短いという氏が抱く謎も,大阪市から尼崎市及びその周辺の武庫村などへの大量転入で解け,それは神戸市でも氏自身が確認する(51‐54,68頁,参照)。
 Weiner氏は第5章「同化と反対派」でも上記の見地に立って,1933年の内務省社会局の策定に在日朝鮮人「同化政策」への転機を見出す。氏に従えば,sojournerから脱却の局地的変容に伴い,all aspects of immigrant life の中央集権的管理が侵略戦争拡大構想の一環としても要請され,20年代の民間や地方自治体主導の(同化政策としても)脆弱な「融和」対策にとって代わる(159頁,参照)。これとは対蹠的に,西成田氏が第5章「帝国『国家』の政策」第4節「政策の転換―『融和』から『同化』ヘ―」で説くところは,第3節「『内鮮融和』政策と融和団体」にみえる「官製融和団体」の独自的機能の積極的評価が前提となるが,その代表的事例の大阪府の内鮮協和会にかんしては,小山氏も,「在阪朝鮮人の『保護事業』に着手したものの,激増する朝鮮人に対してほとんど役に立だなかった」(前掲書,129頁)との見解である。
 Weiner氏は第6章「第2次世界戦争中の朝鮮人動員」では,「 Kyosei Renko の如きたぶんに刺戟的な言葉づかいによって,移民のスケールも,朝鮮人官吏,労働ブローカーのcomplicityも従来往々にしてあいまいにされがちであった。より強圧的な方策に頼るよりも,日本での労働条件について虚偽の説明を加える方が,徴集係官が日本人,朝鮮人のいずれであれ,その割当達成をずっと容易にした。このことが徴用朝鮮人労働者を憤らせる主因になる。」 (197頁)と述べて,一部朝鮮人が担う買辨的役割も否定せぬ。
 西成田氏は戦時と敗戦直後の在日朝鮮人全体像の解明に第6章以下の3章を充て,新史料も縦横に駆使され,総頁数の7分の3にも及ぶ。
 Weiner氏では,local immigrant communitiesもabrupt introduction of thousands of newcomersで「寸断」され,組織的抵抗も「根絶」との指摘にとどめるが(216頁),西成田氏は大量逃亡を以て既存の出身道別色彩の濃厚な在日朝鮮人「世界」が組織的に支える「積極的抵抗」と評価する(251一252,295‐297頁)。尤も,氏が引証する福岡県の数値も,忠清南道など3道出身者に際だつ50%以上の逃亡率は強制連行者数にも照応し,朝鮮人労働ブローカーの暗躍が指摘される点からも,Weiner氏の見方がむしろ裏付けられようか。

 労総の日本労働組合全国協議会(全協)への統合と1928年春のプロフィンテルン第4回大会とのかかわりは,Weiner氏の第5章,西成田氏の第4章第2節で扱われるが,その記述にも微妙な差がある。 Weiner氏は「プロフィンテルン第4回大会の諸決議は,1929年末の独立組織としての労総解散と,共産党傘下の全協へのその合流という結果となったようである」 (171頁)と述べ,西成田氏は,同大会の「合同勧告」が労総を解散させたものという (144―145頁)。
 公刊の大会議事録で確認できる範囲では,「合同勧告」決議なるものは見出せず,日本代議員国領五一郎の付帯意見が却けられたとの推量を裏付けることもむずかしい。国領発言の意義を占う上でも,1929年8月の第2回太平洋労働組合会議における山本懸蔵の「合同」発言も注目されてよい。同年7月のコミンテルン第10回執行委員会総会の山本はいわゆる全般的危機「第3期」論を標榜し,「プロフィンテルン第4回大会・コミンテルン第6回大会諸決議の即時完全実施」を日本の左翼労働組合にも求める(村田陽一氏編訳『資料集・コミンテルンと日本』第2巻,大月書店,1987年,12,21頁,参照)。
 先の姜氏の新幹会論議での12月テーゼ評価とも重なるが,河上肇や小岩井浄らの新労農党構想の展開も左右するインド共産党の経験について,Sanjay Seth氏はその Marxist Theory and Nationalist Politics : The Case of Colonial India , New Delhi , Sage Publications , 1995 .でつぎのように説く。「コミンテルン[第6回大会]の左旋回もインドには直ちには影響が及ばなかった。路線転換のインド共産党への波及にはかなりの時間を要した。‥・1929年7月のコミンテルン第10回執行委員会総会が,いかなる策動の余地も排除する。第6回大会の左旋回が再確認され,拍車を掛けられて,『右翼偏向分子』のブハーリン,ラヴストンその他は執行委員を解任される。植民地のブルジョアジーは徹頭徹尾『反革命的』といまや恪印される。…1929年末までにはインド共産党もコミンテルンの直接の監督下に置かれる。ロイやイギリス共産党の介在は不要とされ,ロイも1929年末にはコミンテルンから追放される。」(133,135頁)
 コミンテルン第10回執行委員会総会の山本も,「合法プロレタリア政党にかかわる日本共産党の誤った問題提起はすでに克服済みである」と誇り,その発言を彩る双子のセクト主義,左翼社民主要打撃論と民族的ニヒリズムは,岸和田紡績争議に顕現して,新労農党も事実上,葬り去られるが,プロフィンテルン週刊機関誌 『国際労働運動』1929年6月1日付第22号の彼の寄稿「太平洋労働組合大会と日本革命運動の諸任務」では「植民地解放」の任務を説いても,労総の合流には触れず,彼の「左」旋回もコミンテルン第10回執行委員会総会で決定づけられた可能性が高い。
 コミンテルン第6回大会の「第3期」論とそれから導かれる「革命的危機」論なるものを特徴づけて,Seth氏も次のようにいう。「よく知られているように,このような分析,及びそれから導かれる諸結論には,たとえ資本主義の展開以上にとはいかなくても,それと同程度には,ソ連共産党の分派闘争,スターリンの権力強化が絡まざるを得なかった。」(133頁)
 西成田氏は「蓄積論的視点と社会的陶冶の視点にさらに政策論的視点を加えることによって,はじめて在日朝鮮人の生活と労働の歴史の全体像を描出することができる」(5頁)という。しかし,氏の「政策論的視点」とは「『帝国』国家の政策」にとどまり,氏が豊富な史料を駆使して全体像の描出を心がける「在日朝鮮人の『世界』」も,「生活と労働の歴史」ではあっても,必ずしも解放運動の歴史そのものではない。
 従軍慰安婦補償やPKO法にかかわって日本の東アジア政策への深い憂慮がWeiner氏の自序にも表明される今日,bipolar world system瓦解の歴史は問い直さざるをえず,在日朝鮮人史の再検討にも,1929年のブハーリン失脚というソ連=コミンテルン史上の転換点は,どうやら視野の外に置けそうにない。
 John Rex氏もその Ethnic Minorities in the Modern Nation State , Basingstoke Macmillan , 1996. で sub-nationalisms in a unitedkingdomを論じて,overlapping of immigrant and national problems を指摘する(143一145頁,参照)。近現代日本の比較史的研究にとっても,在日朝鮮人の史的考察が欠かせぬ所以である。
 Weiner氏については,西成田氏も1993一94年にシェフィールド留学当時,「日本のマイノリテイを研究している教授がいた」と,「あとがき」に回想するが,両著作への正当な関心を誘い,この分野の研究の国際的交流を促す上で,雑駁な読後感も多少ともお役に立てれば嬉しいかぎりである。



Michae1 A. Weiner ,Race and Migration in Imperial Japan , London , Routledge , 1994 ,A5-size , xi+278 p.,ca.¥10,000.
西成田豊著『在日朝鮮人の「世界」と「帝国」国家』東京大学出版会,1997年,A5判,v+358頁,5、460円

いわむら・としお 神戸市外国語大学教授

『大原社会問題研究所雑誌』第468号



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