OISR.ORG へようこそ 法政大学大原社会問題研究所
 

『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版



多田 吉三 著
『日本家計研究史』




評者:伊藤 セツ




 本書のもととなった,著者の若き日の四編の論文「日本家計研究小史」(1957年から1959年)に,私はたいへんおかげをこうむってきた。1960年代の後半,家政系短大で「家庭経済学」の講義を担当することとなった私にとって,この一連の論文は格好のテキストであった。特に,私の関心をひいたのは,多田氏が,欧米における家計研究史の「問題史的区分」をわが国にもあてはめて論じられていたことであった。
 多田氏の数多い論文の中で,次に私にとって忘れられないのは,「家計費分類の思想――家計費目分類の基準序説」(1971年)である。多田氏の問題意識に触発されて,家計費目分類については一時私も深入りしたことがある。このようなことから,私は,多田氏が,1989年に出された二冊の著書には関心があった。一冊は,『生活経済学』(晃洋書房)であり,他の一冊が本書である。
 本書は「わが国における家計調査の成立過程に関する研究」というサブタイトルがついているとおり,内閣統計局による家計調査が成立するまでの,明治・大正期のわが国の家計調査・家計研究の歴史を扱ったものである。著者によれば,本書は,「わが国の家計調査がどのように形成されてきたかという過程を,問題史として秩序づけ,史実にもとづいてこれを実証しようとした」ものである。また,「問題史」と言うことに関しては,氏は,「資本主義の発展にともなう生活問題の推移とともに,問題のとりあげ方も変化し,これにともなって家計の研究方法や技術も進歩してきたという問題史的な見地」と説明しているから,問題とは生活問題と解してよい。
 本書の構成は,1,明治前期における家計にたいする関心,2,近代家計調査の準備,3,家計調査の実験,4,「家計調査狂」時代の家計調査,5,家計調査の方法をめぐる論争,6,全国統一家計調査の成立,7,家計調査のその後となっている。各章で取り上げられている内容の概要は次の通りである。第1章では,明治初期の,殖産興業策のための,国民の生計の総体を把握しようとする前田正名の政治算術的家計研究,中期の貧民のルポルタージュと横山源之助に代表される職工の家計研究,わが国統計学の開祖とされる杉亨二のエンゲルの紹介が扱われている。
 第2章では,明治後期以降,インフレ・物価騰貴のなかでの「生計費問題」の登場とそれに対する議会や社会政策学会の論議,農商務省の生計費調査,森本厚吉の農家家計費の実態調査,呉文聡らによる欧米家計研究の翻訳紹介が扱われている。
 第3章では,大正前半の高野岩三郎の「東京における二十職工家計調査」,月島労働者家計調査と東京市および付近の小学校教員の家計調査が紹介されている。著者は,家計簿という調査票を用いてはじめてわが国で近代的家計調査を実施した高野岩三郎にたいして,月島労働者・小学校教員家計調査からえられた知見はそれほど豊富なものではなく,「わが国の家計調査の創始者としての栄誉を担いながらも,建設者としてはあまり見るべきものがないというのが,かれにたいする正当な評価となろう」としている。
 第4章では,大正後半,高野岩三郎の助手権田保之助名付けるところの「家計調査狂時代」の家計調査が扱われる。
 第1次世界大戦後のインフレの労働者に及ぼす影響や,階級闘争対策,社会政策施行上の課題等,時代の鋭い社会問題を背景にして家計調査が流行したこの時代を,著者は,家計調査の「方法,技術が一挙に長足の進歩をとげ,近代統計調査としての実態を獲得するようになった時代でもあった」と評価して,26の調査の要点を紹介している。
 第5章では,家計調査の方法をめぐる森本厚吉と財政学者汐見三郎の論争をはじめとして調査組織・調査技術や,家計法則に関する研究の進展が紹介される。森本厚吉は「生存をかろうじて可能ならしめる」生活費を「最小生活費」と規定し,わが国で最初の最低生活費の計測に乗り出し,「最小生活費」以下で生活する世帯数を推計した。これにたいし汐見三郎は森本の推計方法や適用統計の限界を指摘し,自ら関係した生計調査の資料を持って持論を実証し,双方の間で論争が展開された。著者はこれを,「統計調査としての家計調査資料を収集する調査企画上の問題と調査組織上の問題」の方法論争としている。この章では,次章の全国統一家計調査へむけて収斂していく家計費目分類や家計調査データの編成指標の蓄積についても触れられる。
 第6章では,内閣統計局の全国統一家計調査の計画,実施準備・経過・結果とその効果・副産物が扱われている。著者は,家計調査が全国的生活問題の解決のための総合的な政策目標の中で役割を果たすためには,当然の成りゆきとして,政策を基礎づけうるような権威をもって調査対象を拡大して統一的で包括的家計調査を実施する段になるととらえている。それが大正15年から1年間実施された内閣統計局による家計調査であった。しかし,その効果については,効果発表の遅れもあって,著者は,エンゲルの指摘するいわゆる「鎮静剤的役割」が適切にも当てはまったと読んでいる。
 第7章は,昭和6年から実施された内閣統計局家計調査と,地方官庁による地域家計調査,要保護・被保護世帯対象家計調査について概要をのべて終っている。
 冒頭に記したように,本書の出発点は,著者の三十余年前の研究にあった。著書は以後書きためた原稿の10分の1を本書にしたという。著者はこの研究の過程を,エンゲルにならって「一つの理念の呪縛」にとりつかれた結果,としている。私は,本書を通読して,それが「一つの理論の呪縛」ではなかったことを物足りなくも思い,また,今日のようにパラダイム転換のめまぐるしい時代に,三十余年を経過した研究をまとめるには,かえってそのことが著者にとって幸いしているとも思った。それが,第一の感想であった。第二に,「問題史的」にという場合,生活問題の現れ方の歴史的形態に沿ってと解釈するなら,この研究のよってたつ学問領域は,伝統的に生活問題を重視してきた社会政策学ということになるであろうか。家計調査はこの他,統計学的にも家庭経済あるいは消費経済学的にも扱い得るが,著者の方法がそのいずれの領域を中心に置いて他と関わっているのか,「問題史的」扱いの背後の学問体系がなぜか見えてこないという感想も持った。
 ともあれ,著者の長い年月の家計研究史研究の成果が,こうして一冊の書物となって私たちの前に示された事を,著者から研究上の刺激をうけてきた一人として心から喜びたい。




晃洋書房,1989年12月,288頁,定価3,500円

いとう・せつ 昭和女子大学女性文化研究所教授

『大原社会問題研究所雑誌』第392号(1991年7月)



先頭へ
書評一覧
電子図書館へ
研究所ホームページへ