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『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版



遠藤公嗣
『日本の人事査定』



評者:石田 光男


a 補論は1と2があり,いずれもタイトルは小池和男著『アメリカのホワイトカラー』批判となっている。この内容についてはこの書評では取り扱わない。アメリカのいわゆるイグゼンプト従業員の定義と実態に関わって貴重な基礎資料を提供している。事実それ自体の発見と整理という点では本書を通じて最も充実しているとすら思われるが,本書の課題とは直接の関係がないこと,また,遠藤一小池両氏の忌憚のない討論が書評以上に大切であることによりこの部分の評価を割愛する。だが,それ以上に著者と小池氏との学問的討論が成り立っていないことの深い理由はそれなりに書評本文で触れることになる。

1 概 観

 著者自身の言葉によれば本書は「実証的分析によって,人事査定制度の日本的特徴を重点的に描こうとするところの,最初の本格的研究書をめざして」(p.2)書かれた作品である。

 この作品を構成する部品は,日本と米国の査定制度の現状における比較(第2章),両国の査定制度の相互に交錯しあるいは乖離する歴史(第3章),日本の査定制度が戦後初期に労働組合に受容される電産の事例(第4章),査定が雇用差別に利用される差別の詳細な分析(第5章)からなる。また,序章では過去の研究史の批判が,終章では今後の研究課題が述べられている。なお,これ以外にかなりの質と量の補論がある(1)。

 この研究から,例えば我々は,しばしば通念によりかかって論じていた日米の査定制度の違いを,これからは拠るべき資料に基づいて論ずることが可能となった。あるいはまた,日本の戦前から戦後にかけて査定制度についてどのような文献が重要かを知る手掛かりを与えてくれている。これらは,しかし,「本格的研究書」と言うには周辺的メリットである。中核は,言うまでもなく我々の査定についての理解(あるいはイメージ)がどのように深められ豊かになったのかという方面で語られるべきであろう。だが,この点について私の率直な印象はネガティブな方向に傾いている。この傾きを十分明晰な論理で語る自信を毛頭ももちあわせていないけれど,ある意味で,本書はあまりにもきまじめな研究なだけに,私もあえて非力をさらすきまじめさをもって,この不躾な印象を以下言葉に置き換える努力をしたいと思う。

 勿論,著者は本書を通じて日本の人事査定制度が少なくも米国との比較において「公正さ」を欠くということを「実証的」に明らかにしたと言われるに違いない。小池和男,青木昌彦らの主張はこの「公正さ」の欠如を無視した「実証のない仮説」であり,おそらく,私もこの「仮説」に過ぎないものに影響されてしまった一人とされている。その私が「ああそうでした,認識が間違っていました」と心から反省することができれば,苦労はしないけれど,素直にそうは思えない。だから,これほどまでに「実証的」に明らかにしたことをあなたは何故素直に受け入れられないのか,という著者なら懐いて当然の疑問に,印象ではなくて論理で説明する義務が私の側に生ずるだろう。

 しかし,ことは「公正さ」とは何かであって,これ自体おそらく正しい人間関係とは何かという問いに等しく,そしてそれは人間とは何かという究極の問いかけに近似してしまう問いである。少なくとも,その深淵と混沌を予感すればこその慎重な接近術が,人間存在の問いをはぐらかすことができない社会科学には課せられている。本書はこうした難問それ自体ではないが,その近傍に接近せざるを得ないテーマを主題にした必然的結果として,こうした側面からの秤量を避け得ない運命にあるように思われる。勿論,今様に人事査定をもっとテクニカルに,マニュアル的に取り扱うという大勢に身を任せるのが処世の知恵かもしれないけれど,上に述べた私の違和感が人間存在への接近術と無縁でなさそうなので致し方ない。今様の評価軸をもって本書はどのような位置にあるのかは別途述べられる必要がある。

2 若干の疑問

 その前にいくつかの疑問点を示したい。

 (1) 査定の定義について。「人を評価する行為一般」と「人事査定制度」の区別に関して(pp.2−3),著者は後者が「人の全人格でなく,「働きぶり」のみを評価しようとした点」及び「産業心理学の研究成果をふまえて,評価方法を考案し整備した点」で前者と区別されると言う。前者と後者が違うことは直感的には了解できるが,著者の区別法はより具体的には「昇給のための評価基準が明確に制度化されてなく,上司の裁量幅の大きい総合決定給」にともなう評価は「本書の定義し」た査定制度ではないと言う(p.29)。この区別は無理がある。おそらく,現在の日本の査定も「働きぶり」と人格(traitsと言ってもよい)とは区別し切れていないから査定ではないということになり,あるいは本書第1章の事例企業も本給は総合決定給であるから査定ではないということになり,納得できない。私は単純に人事上の目的で従業員を評価するのが査定だと考えているが,それでは何故まずいのだろうか。

 しかし,著者にしてみれば,先の区別をしないと,「日本の人事査定制度の起源は,米国の人事制度である」(p.311)という命題が維持できなくなるのではないか。この疑義が3章を読む際に半信半疑の気分にとらわれた原因である。

 より内容的には,「働きぶり」のみの評価でなくては「下位者の全人格的な従属」(p.3)に連なってしまうという前提が著者にあると考えられる。「民主主義」にとっても「工業化」にとっても「働きぶり」のみの評価が必然であるばかりでなく,それがよきことであるという前提である。同様の論理的比重で「働きぶり」のみの評価では「下位者の全人格的評価・賞賛」の舞台も企業や職場から消えてしまう可能性が高いが,こういう理解は何故駄目なのか,という議論を私などはしてみたいのだが,上の区分は,はじめからそういう議論を誘う風味を殺してしまっていて残念である。

 (2) 査定結果の分布規制について。著者は日米の査定制度の違いの一つとして「米国では,査定結果を分布制限することは少ないが,日本では多い」(p.89)と指摘する。私は日本で分布制限をしている最大の原因は賃金源資の部門間の配分の公平を目指しているからだと理解しているが,米国では部門間の配分格差はどのように観念されているのだろうか。ここでは日米の賃金源資の部門間の配分原理の相違とその根拠に触れないと,日米の分布規制に関する違いを正確に伝えたことにならないのではないか。日本では著者も指摘するように「調整」を行って分布規制を確保している。「調整」により,著者流に言えば,元々の絶対評価にちかいものが相対評価になっていくのであろう。この点に関連して著者は「昇給原資を絶対評価の結果で比例配分すれば,格差のある定期昇給幅の決定は可能である。アメリカ企業におけるところの,絶対評価の結果による昇給原資の配分は,この実例であろう」(p.166)と言う。そうすると,アメリカでは査定がはるかに公正であるから,その結果としての部門間格差は正当な格差に違いないという論理であろうか。それでもある部門が他に比べて相対的に甘い評価だということはあるだろう。この問題を従業員はどういう風に納得しているのだろうか。

 (3) 労働者の公平観,労働組合機能について。私に対する批判への感想も付け加えておかなくてはならない。(ア)石田(1985)は査定制度が「日本の勤労者の公平観に内在的」との主張をしたが,石田(1990)はそれは「理念」であって「実態」ではないとしている。両者はどう関係しているのか(pp.38−39)。(イ)石田(1992)は査定を通じての労働者間競争に規制を加えない日本の労働組合について「インターナショナルに共通な組合機能の内実は着実に崩壊に向かっている」としているが,「公平観に内在的」であれば,「組合は規制してはいけないとさえいえる」のに,どうして組合機能の崩壊を言うのか(p.39)。(ウ)石田(1990)は人柄や人格を評価することを「日本の勤労者の公平観」だとし,そのことが「能力主義管理」への「共鳴」に結果したというが,「能力主義管理」は実は人柄や人格の評価から能力の評価へと「超克」しようとした(pp.166-167)。石田は矛盾していないか。

 紙幅の関係ばかりでなく,主として私の力不足のために,著者を説得するに十分な記述はかなわない。(ア)については,石田(1990)が差別問題に問題性をみる人々にも無用な誤解を与えないためにより丁寧に説明したというだけであって,むしろ日本の査定制度がそういう問題性を事実として含みながら労働者からも受容されているありかたに問題性というならより深い問題性があって,これをどう解釈するかに私の問題関心があった。(イ)は日本の労働者が労働者間競争を受容する体質にあること,組合員間の反競争・平等主義を具体化したものが国際的に共通な労働組合機能だとすれば(著者はそうではないという理解かも知れないが),日本の労働組合は機能麻痺を予告されているが,事実としてそれが確認されたということを言いたかった。わかりきったことを言うなという主旨であろうか。それに対しては,日本の労使関係のアクターは労使関係論の想定するアクターとは違う,したがって,労使間のルールは著しく個別化していて,これを扱う方法を考えなくてはならないということを言いたかったと言えば「労使関係論」からの「脱却」を志している著者の理解が得られるだろうか。(ウ)書物としての『能力主義管理』の解釈は著者が正しい。しかし,著者も承知のように実業の現場で査定要素としての「能力」の文書上の規定,査定者の「能力」理解を精一杯了解しようとすれば,,純粋な「能力」の管理がいかに人格それ自体と不可分のものであるかは容易に察しがつくだろう。「能力」が人格と不可分のものとして評定されざるを得ないということに関する経験上の確からしさが「能力主義管理」の普及の根底にあったのだ,と言いたかったのだが,この証拠を資料で示す努力を私が怠っているというのであれば,その通りである。だが,この点は社会科学の方法,即ち実証と解釈の関係として議論されなくてはならない。

 C 方法について。著者は「労使関係論が査定制度を研究する理論枠組みを欠落していたこと」(p.9)が査定の研究を阻んでいたと言う。そうだとすると,著者の「本格的研究」にあっては何らかの新しい「理論枠組」が用意されているはずであるが,必ずしも明瞭ではない。熊沢誠が査定制度の研究で先駆的であったのは「労使関係論からほぼ脱却した」(p.14)からであったと言う。そうすると「脱却」後の熊沢の「理論枠組」の批判的検討が欠かせないように思われるが,そこに踏み込まずに,むしろ,私も含まれるところの「実証のない「公正な査定」論」への批判に熱がこもる。これへの批判は単なる実証で済むという段取りかもしれないけれど,単なる歴史記述や単なる事実の記述があり得ないということは著者も十分承知のはずである。著者が随所で強調される「実証」,あるいは「実証する」という意味が時に単なる事実の記述になってはいまいか。計量経済学の実証とは異なり,歴史的社会的事象の「実証」は観察者の事実についての執拗な意味付与によって語られる物語(あるいはストーリー)としてしか示せない。従来の諸説が伝えるストーリーの中に意味付与以前の事実それ自体の誤解やストーリーで取り上げられるべき事実の偏りは指摘されて当然であるが,実りある議論のための回路は,そこにとどまらず,新たなストーリーテラーとして自らを湧出することである。そうした演出性の貧しさが「実証」性の豊かさと誤認されていなければよいが。

3 実証と解釈

 私の懐いた違和感は上に触れたストーリー作りに関わっている。本書のストーリーは,単純化が過ぎるかもしれないけれど次のように理解される。日本の査定制度はアメリカの発展史に比較して数十年の遅れをとっている。この遅れは査定の公正さの不備であり,企業レベルで言えば人事領域における職務の規定性が弱く,社会のレベルで言えば法による差別の規制の弱さとして現れている(2・3章)。実際,査定による賃金格差は思想と性による差別と判定できる明白な事例がある(5章)。それでも日本の査定制度が維持されたのは労働者に公平観が存在しなかったためである(4章)。それはともかく査定制度が,第一に「従業員の自主的な合意」に基づいていること,第二に「普遍的公正性を主張できる」ことが肝要で,「現代日本の人事査定制度は,この両点で,先進工業国の中でかなり見劣りする」(p.277)。

 この物語のわかりにくさは「見劣りする」制度が制度として存続してきた歴史の解釈が無きに等しいことである。著者自身「査定制度によって労働者が意図的な雇用差別を受けること」と他方で「労働者ないし労働組合が査定制度の適用を受容するという」両極端に「日本の査定制度と労働者との関係」はある(p.283)と言う。ここに立ち止まって思いをめぐらすことができれば,日本の労働者の社会的性格についての様々な解釈をせざるを得ないはずである。が,著者は足早に「雇用差別」の「実証」へと急ぐ。ここを解釈することにもう少し熱心であれば,「実証のない「公正な査定」論」との真摯な討議が可能であったと思う。周知のように労働者自身が「差別者」であり,その主観においては「差別」ではないという思想に支えられての確信的「差別者」,これが,私も含んでの,私たちの自画像ではなかったのか。女性の「雇用差別」を念頭におけば,このことは少しも誇張ではない。こうした自画像との折り合いをどのようにつけるのかが解釈の正念場である。ここを足早に立ち去って,「雇用差別」の「実証」や米国の査定基準を紹介するのは物語が具有しなくてはならない話の脈絡を欠くと言わざるを得ない。

 もっと,端的に言えば,雇用差別の存在,それは実証以前に体験的に知っていることなのだ,米国がなにやら公正ということについて過敏と言ってよいほどに人工的な法制度を構築してきたこともおおよそは聞きかじっているのだ,その本質をほぼ知りながら「知らない振り」をしてまで,「実証のない「公正な査定」論」者が苦心したのは,かの自画像を正視して,恥ずかしさばかりでなく応分の誇らしさをもみてとれる鑑賞眼をもつことであった。

 著者も第4章ではこの苦心に直面したと推察される。だが,ここでも「実証」はあっても解釈が欠けている。詳細にわたる紙幅がないが,電産が能力給の査定についての基準を示し得なかったことから,「「公平観」そのものが存在しなかったと評価する」(p.275)。そして,現代日本の労働者も査定のありかたについて「合意をまだ形成していない」(p.276)と著者は判断する。私の疑問は素朴である。何らの合意なき制度などというものが世に存在するのだろうか。むしろ,査定制度の日本的特徴それ自体に労働者の公平観が埋め込まれているという仮説的解釈にたって戦後の労働史を読み解くことが自画像を正視することではないかという誘惑に惹かれる。電産の能力給の算定における発揮度の中の「私情を抑えて協同して仕事をするか」「職務に忠実か」「安請負がないか」(p.261)等その後情意考課と呼ばれる文言の数々,電産が賃上げの方便として生活原理だけでは正当性が弱く,敢えて能力給を言わざるを得ないと認識し,その能力というのは「技術,能力,経験,学識」(p.253)と頑なに言う以外になかったということ,これらは大声で言うのは気恥ずかしかったに違いないが,「仕事のできる立派な人」に報いて欲しいという素朴な叫びを伝えて十分ではないのか。

 以上,書評と言うより舌足らずの読書ノートのようなものになってしまった。このことを著者に申し訳なく思う。

[文献]

 石田光男(1985)「賃金体系と労使関係(上)(下)」『日本労働研究雑誌』315,316号
 石田光男(1990)『賃金の社会科学』中央経済社
 石田光男(1992)「査定と労使関係」橘木俊詔編『査定・昇進・賃金決定』有斐閣



遠藤公嗣著『日本の人事査定』ミネルヴァ書房,354+5頁,3800円+税

いしだ・みつお 同志社大学文学部教授

『大原社会問題研究所雑誌』第496号(2000年3月)



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