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『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版




山内 昭人 著
『リュトヘルスとインタナショナル史研究
   ―片山潜・ボルシェヴィキ・アメリカ・レフトウィング



評者:犬丸 義一



  本書の主題である,リュトヘルスについて私が本書を読むまでの知識は,小山弘健他『片山潜』第二部(1960年,未来社)での片山潜のニューヨークでの寄宿先,『平民』の発行所,日本の共産党結成前の国際的メッセンジャーとしてであり,(ルトガースと英語読み表記),B.ラジッチ他編『コミンテルン人名辞典』(1980年,至誠堂)での次のような叙述である。
 「1879年にオランダで生まれた。彼は技術者となり,インドネシアで働いた。 1914年以前にオランダ社会民主主義労働者党に入党し,第一次世界大戦中に合衆国に移り住み,そこで,左翼社会主義者となった。レーニンの勝利後,彼は共産主義の主張を受入れ,1918年には合衆国で,ボルシェヴィキ・ビューローに加わった。1919年初め,ロシアに到着し,3月に開かれたコミンテルン創立大会に出席した唯一人のオランダ人であった。秋にレーニンはアムステルダムにおけるコミンテルン・ビューローの組織化を彼に委託した。それが11月に機能し始めたとき,ルトヘルスはその執行委員会の一員であった。彼はまた1920年2月にアムステルダムで開かれた国際共産主義者会議の組織化を支援した。しかし,同年おそく,モスクワはアムステルダム・ビューローの閉鎖を決定し,ルトヘルスは政治活動から離れ,本職に復帰した。ソヴェート・ロシアに戻り,192↓年から1926年まで,グズバスの石炭及び化学工業の復興のための自治産業村(AIK)の組織者となった。その後,ソヴェート経済と科学調査に関する各種の地位についた。彼は最終的に1938年にソヴェート連邦を去り,オランダに帰国した。彼は1961年に死去した。」

 本書が扱っているのは,合衆国時代までの前半生である。
 序章「インタナショナルとリュトヘルス」では,本書の課題が記述されている。オープトが指摘した「社会主義のインタナショナル史」の 「ケース・スタデイ」として,第二インタナショナルから第三インタナショナルを架橋したチンメルワルド運動の時期が対象とされる。それを「比較史」としてでなくて,「時を共にした」リュトヘルスの活動を媒介として,「インタナショナルな」「関係史」として果たされることを目標としている。
 著者は,オランダ――蘭領東印度――アメリカ――ソヴェート・口シア――ラトヴイア――オランダと縦横に活動するリュトヘルスの足跡を追跡するのである。これらの各国にまたがる広範な原史料が収集されているのには圧倒される他はない。四半世紀に及ぶ探索の成果である。本書の元になった宮崎大学紀要掲載の一連の労作を垣間見たことのある私はその博捜ぶりに驚嘆するほかはない,ことを先ず告白する。語学のできない日本史出身者の私は,日本の西洋史学の到達度に脱帽の思いである。

 第1章「オランダ―蘭領東インド」は,彼の出生から社会主義への移行,土木技師活動,1911年の蘭領東インドの出発までの歩みが,家族関係をたどりながら,オランダ社会主義運動の歴史のなかで述べられている。

 第2章「蘭領東インド―日本―アメリカ」では,蘭領東インドのスマトラ島で公共事業にたずさわりながら社会主義者と交流した彼が,1915年3月にスマトラをたって中国,日本をへてアメリカに渡るまでが述べられている。オラ・ンダの植民地での本国の社会主義者としての活動は,本国の社会主義誌への論文「東インド党とイスラム党」を寄稿している。また3週間滞在した日本で,片山潜に会おうとしたが,片山は既にアメリカにたち,会えなかったが,大逆事件後の日本の事情に接し,「日本における帝国主義」を5月29日の『トリビューネ』に執筆している。それは,日本の労働条件の劣悪化から労働運動の組織化を困難にしていること,労働者は自国の帝国主義に反対するには不十分すぎることが指摘され,片山のアメリカ亡命も日本における運動の困難さの証左とされた。ニューヨークにおちつくと,アメリカ社会主義者との精力的な交流が開始された。1916年春にはサンフランシスコの片山と連絡がつき,片山父娘は彼の招きで12月8日ニューヨークに移り,物心両面で援助を受けることになる。

 弟3章「アメリカ合州国(1)」,第4章「アメリカ合州国(2)」が,本書の半分以上を占めている。これは,アメリカでのリュトヘルスの活動の記述だけでなく,当時のアメリカ社会主義運動の詳細な歴史叙述となっている。これは,本書の独自の貢献といえよう。
 3章は,1「インタナショナル・ソウシャリスト・レビュー』とリュトヘルス,2『ニュー・レビュー』とリュトヘルス,3 オランダ左派とアメリカ,それにリュトヘルス,4 社会主義宣伝同盟とリュトヘルス,5 ボルシェヴィキとアメリカ,6 片山潜とリュトヘルス,7 「国際化したボルシェヴィズム」から構成されている。 1,2,3では,同誌への彼の寄稿の内容が紹介されているが,彼は,ツインメルヴァルト左派の決議の紹介に努力している。当時のアメリカでは,レーニンやトロツキーよりもオランダのパネクークやホルテルらのオランダ左派=社会主義者の方が知られていた。彼はオランダ社会主義者の見解をアメリカの雑誌に紹介することで一つの役割を果たした。それは「大衆行動論」の紹介であった。リュトヘルスの大衆行動論を受け継いだのがフレイナであった。フレイナらアメリカ左翼はその大衆行動論に彼らに固有のサンジカリズム的伝統=産業別組合主義を結びつけていた。オランダ左派の影響はリュトヘルスのアメリカ滞在によって強まった。在米中の彼によって本国の左派機関誌への投稿など密接な連絡がなされた。片山の紹介もなされ,ホルテル「史的唯物論」の日本訳の事実が報道されているのは(81ページ),日本社会主義史研究者の私には興味深い事実であった。 1915年当時のアメリカ社会党には多くの移民が参加し,14の外国語別連盟があったが,それらは自治的で母国の社会主義の流れに影響されていた。それらの中で有力なラトヴイア連盟は1600名を越え党内左翼反対派をなし,第三インタナショナル結成を唱えていた。彼らを中心とした宣伝リーグによってツィンメルワルド左派の動きがアメリカに伝えられる。ヨーロッパ左翼の論争はアメリカ社会党機関誌や左翼雑誌上でアメリカ人だけでなくリュトヘルスらを含む在米社会主義者内部の論争に転化するが,その模様が紹介される。
 レーニンらボルシェヴィキの見解はアメリカではほとんど知られていなかったが,1915年ごろからラトヴィア語で先ず紹介されてやがて英語になってゆく。トロツキー,ブハーリン,コロンタイらが在米し,アメリカ左翼と交流することで,口シア左派の見解が広まってゆく。ロシア左派もレーニン式のボルシェヴィキで統一されていたわけでなく,レーニン,ピヤタコフ,ブハーリン,トロツキー,ルナチヤルスキーらはそれぞれ亡命先の反戦左翼と関係しあいながら,しだいにまとまっていった。
 「6 片山潜とリュトヘルス」は,片山潜と彼との交流について,小山やカブリンの片山潜伝が明らかにした以上の次の事実を明らかにしていて,日本社会主義史を研究している私にとって最も興味深い部分の一つであった。片山とリュトヘルスとの出会いについて従来の通説を否定して次のように述べている。
 「1949年に出た真理社版の「片山潜選集』の年譜では「(1904年の第二インター・)アムステルダム大会であったルトガースの招きに応じてニューヨークに移る」とあり,両者に1904年以来の交友があったとする説は,ほとんどの研究者に採られている。が,未だにそれは実証されたことはない。」(103ページ)この部分は(1)リュトヘルスによる呼び寄せ,(2)レフトウィング内の片山,(3)からなっているが,片山の思想的転化について,レフトウィング内の片山という視点の必要が説かれ,『片山潜選集』の年譜の誤りが正され,1919年に共産主義的立場に移行する以前の片山の政治的立場の曖昧さが文献的に実証されている。
 レフトウィングの分析については,アメリカに最初に入ってきたのは厳密なレーニン的なものでなく,より広義の,いわば「国際化したボリシェヴィズム」という捉え方を設定しなければならない,と著者は問題提起している。それはダニエルズの把握に依拠するもので,「反戦インタナショナリズムの原則の下に結集し編成された党こそロシア10月革命の勝利の党となる」とするものであった。
 第4章は,アメリカレフトウィングの結集,それへのボルシェヴイズムの流入,議論・文献の紹介・翻訳・直接折触,影響力の広がり・浸透,その地域別・出身国別の相違,各種雑誌の論調の分岐,ロシア革命へのアメリカ人左翼の態度・思想的変化,アメリカ社会党や労働組合の対応,1919年の二つのアメリカ共産主義政党創立までの運動,これらを監視するアメリカ政府の動き,等が詳細に記述されている。これらは,日本では本書が初めての叙述で本書の貢献であろう。

 第5章は,こうした流れのなかで,一つの重要な役割を果たしたリュトヘルスが,1918年4月,アメリカ政府・諜報機関の監視下に,革命ロシアでの技師不足を知って日本経由ロシアに向かうまでが扱われる。アメリカ政府側が押収したリュトヘルス夫妻の通信の中に,片山潜のリュトヘルス宛の手紙が含まれていて,それが写真入りで紹介されている。そこで,片山は,日本に向かったリュトヘルスに27人の日本人を紹介していた。三種類に分かれ,親戚・友人のたま夫人,親友岩崎清七ら四名,同志とされた14名,加藤時次郎,堺,高畠,荒畑,山川,山崎,南助松,藤田四郎,吉田只次,運動以外の知人で9名,福岡秀猪,永井柳太郎,二階堂保則,三浦錬太郎,ニコライ・コンラッドであった。さらに,リュトヘルス一家の日本到着後の動静に関し社会主義者としての活動が日本官憲に把握されており,それが紹介されている。そして,彼らから託されてロシアに持参し,彼からコミンテルン創立大会で紹介された1917年のメーデー決議「ロシアの同志へ」についてのべられている。これは,日本の社会主義のボルシェヴィキ,コミンテルンとの「国際主義」的関係の出発点をなすものとなったが,彼はこれをたずさえて,革命ロシアヘ1918年7月19日夜行列車で横浜をたつところで著者の叙述を閉じている。

 補章「ボリシェヴィキ文献とアメリカ――1919年3月−1919年春――」は,レーニン,トロツキー文献等のアメリカでの紹介・翻訳を検討した書誌学的補論である。

 以上が本書の紹介であるが,日本の社会主義運動史専攻の私には,オランダやアメリカに直接赴いて,蘭語,英語,露語の第一次史料を博捜した研究には驚嘆するほかはない。日本の西洋史研究もここまで達したか,という思いである。私としては,片山潜についての従来の説が正された意義を確認する以外に能力がないが,伝記としては,革命ロシア入りの前夜に本書がとどまっており,国際主義者としての面目の発揮される入露後の後半生の解明への期待を表明して筆を置きたい。



ミネルヴァ書房,1996年4月刊,G+373頁,5500円

いぬまる・ぎいち 元長崎総合科学大学教授

『大原社会問題研究所雑誌』第467号



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