OISR.ORG へようこそ 法政大学大原社会問題研究所
 

『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版




高木督夫・早川征一郎 編著
『国鉄労働組合――歴史,現状と課題

評者:井上 雅雄




 1987年4月1日,日本国有鉄道は分割・民営化されJR各社へとその企業形態を転換した。この転換をめぐって展開された政府,国鉄当局及び国鉄各労働組合の対応は,戦後労働運動史上最も劇的なものの一つであった。 86年10月,国鉄改革法案の国会通過を目前に控え国労臨時大会(修善寺)は雇用保障と引き換えに「労使共同宣言」を締結しようとした執行部の提案を否決したが,これを契機に国労は分裂し,当局の激しい介入と相俟って一挙に少数派組合へと転落を余儀なくされる。以降,JRへの採用差別,国鉄清算事業団からの解雇など国労が直面した困難な状況は,かつて総評の中核単産として戦後労働運動を牽引してきたこの組合にはおよそふさわしくない過酷なものであった。
 本書は,このような状況に置かれている国労教育センターの委嘱にもとづいて,直接的には「国労の当面する問題に即した組織論,運動論の諸検討」を「課題」(はしがき)としてすすめられてきた研究会の成果であるが,その内容は副題が示すように,国労運動の「歴史」を踏まえ,その「現状と課題」を明らかにするために編まれたものである。したがって,今日の時点で国労運動の「歴史,現状と課題」を明らかにするとすれば,当然にもそこには,(1)国労が培ってきた組合運動の質とはいかなるものであり,それはどのような条件のもとで可能となったのか,(2)その運動にはらまれていた問題点は何であり,それとの関連において今日の事態に推転せざるをえなかった理由はどのようなものなのか,そして,(3)それまでの運動を踏まえて,この組合の運動の現状はいかなるものであり,(4)それはまた今後どのような運動課題をこの組合に追っているのか,という諸点の解明を焦点とせざるをえないであろう。
 以下では,これらの論点について本書はいかなる解答を用意しているかの観点から検討してみるが,序章と終章を配した全5章を9名の執筆者が分担しているために,本書は叙述の重複,論理の精粗,評価基準のバラツキなどが看過しえない。それゆえ,ここでは各章ごとにコメントすることはせず,先の論点に即して本書全体から論理の筋を摘出して検討することとする。

 第1に検討すべきは,国鉄の分割・民営化以前の国労の運動をいかなる性格のものととらえ,それを可能ならしめた条件は何か,という論点についてである。第2章の執筆者によれば,国労の運動は「民間大企業組合に典型をみる労使協調的組合や協調的ナショナルセンターの指導者たち」の「自称・宣伝している」ものとは区別された「西欧に育った」「労働組合主義」であり,具体的には労働の対価のみならず「労働の量と密度自体をも対等に交渉・決定する」(50頁)性格のものと規定され,これは60年代後半以降の職場闘争に具体化されているという。その上でこれを可能ならしめた条件は,基本的には「国労の闘争力」と「活動家層」およびそれを土台とする「幹部の努力」(57頁)であるとされる。
 しかしながら,国労の運動を「労働組合主義」と規定する理解は果たして妥当であろうか。そもそも公共企業体としての国鉄にあっては,財政民主主義の建前にもかかわらず,賃金という基本的労働条件ひとつをとってみても,当局との交渉によっては確定することができないという制度的条件のもとに置かれていた。国労がかつて春闘において,交運共闘の中核的組合として統一行動の中心を担い春闘相場の引き上げに努力したのも,準拠すべき民間賃金を引き上げ,それを公労委の仲裁裁定を通して自らの賃上げに反映させるためなのであって,国労の統一行動が直接に自らの賃金の引き上げを可能にしたわけではない。しかも仲裁裁定が出されても,それが完全に実施されるか国会の議決案件とされるかは政府と与党の判断に依存するために,組合の交渉対象は実質的には当局ではなく政府とならざるをえなかった。このように基本的な労働条件さえ企業内で自主的に決定することができず,政治の場に影響力を行使せざるをえなかったということは,国労の運動が労使自治の原則にもとづく労働組合主義の枠自体を超えざるをえない性格であることを意味している。
 むろん国労が強力な職場規制力をもって作業範囲,作業量,要員,配転,昇格などをコントロールしたことは,その限りでその運動に労働組合主義的性格を刻印するものであったことは否定しえないが,労働条件を自主的に決定できず政治的活動を不可避としていたということ,またこの組合が反戦・平和など政治的・社会的課題を積極的に担ってきたという点を考慮すれば,その運動が労働組合主義の枠におさまりえなかったのも事実であった。そしてそのような政治的性格を鼓舞して運動を支えていたのが活動家層であり,そこには良かれ悪しかれ階級闘争史観に裏打ちされた政治的イデオロギーの強い影響を無視できなかった。実際,第2章の執筆者も「体制批判の思想で武装した戦闘的幹部・活動家層の活動こそが,国労の労働組合主義的強化・発展をもたらした」(58頁)と述べ,また「基本的に労働組合主義でありながら,国労と社会党の特殊歴史的事情のもとで,それに国労による政治的代行主義が付加された」(65頁)と注記しているが,そのような政治的性格を帯びた運動を「労働組合主義」というタームをもって規定づけるのは無理というべきであろう。
 他方,国労による強力な組合規制を可能にした条件については,執筆者が指摘するようにその「闘争力」と「活動家層」や「幹部の努力」はいささかも否定できないが,むしろ問うべきは,そのような「闘争力」がいかにして組合規制として実体化されえたかであり,その条件をこそ明らかにすべきではなかったかと思われる。組合にいかに闘争力があったとしても,対する使用者側が譲歩することがなければ,組合の要求が職場規制として現実化することはありえないからである。この点からみるならば,第2章では指摘されていないが,国鉄の企業体としての性格――国が全額出資する公共企業体でありながら,その実態は国の直営企業=官業であるという性格に注目すべきであろう。
 すなわち,よく知られているように,公共交通の担い手として,国鉄は不可避的に不採算部門を抱えざるをえなかったから,その補填は国の財政負担によって行われていたのであり,そのために経営当局の当事者能力には大きな制約が課されていた。だが,この公共性のゆえに市場競争に対して間接的であるという条件こそ,じつはこの組合による職場規制を可能ならしめていた基本的条件であった。市場競争からひとまず遮断されることによって,国労は強力な職場規制を実現し,また政治的課題を自ら引き受けて果敢な闘争を組むことができたのである。実際,第4章の執筆者はこの点について,公労法体制のもとでは国労は「国鉄の経営問題に直面しなくてもすんで」おり,この「経営の支払能力への考慮の必要性を減少せしめた条件こそが,職場闘争の高揚をもたらしたひとつの重要な要因となっていた」(200頁)と率直に指摘している。このことが,組合規制の強化が企業業績に与える影響を考慮に入れざるをえない民間組合との決定的な違いだったのであり,この点は十分に留意されて然るべきであった。

 次に,第2の論点としてこのような職場規制のもとではらまれていた問題点と,それとの関連で今日の事態がいかなる根拠によってもたらされたのか,についてであるが,本書は前者に関して職場規制のもとでとりわけマル生闘争後,管理者権限の形骸化と比例して組合員の労働規律の弛緩が進んだことを批判的に指摘している。とくにこの点についての第4章の執筆者たちの批判は率直である。しかしこのような問題点は,すでに10年前,国鉄解体の嵐のなかで国労からの委嘱を受けて取りまとめられた国鉄労使関係研究会(座長・兵藤つとむ)の報告書『国鉄労働運動への提言』(1984年8月)のとくに「総論」が運動思想の問題として的確に指摘していたところであって,残念ながら本書はその指摘をほとんど超えてはいない。むしろここで問うべきは,そのような職場規律の弛緩を含む組合の側の問題が分割・民営化反対闘争の敗北とどのように結びついていたのかという観点から,かの闘争の敗北の原因とその意味を明らかにすることでなかったであろうか。
 分割・民営化反対闘争をいかにとらえるかは,それが国労の今日の事態をもたらした直接の原因というだけではなく,この組合の現在の運動を評価し,今後を展望する座標軸をなすという点でも避けてとおることができない問題であるが,本書ではこの闘争について部分的に関説することはあっても,「現在も(闘争は)継続中」(237頁)との理由をもって直接取り上げられてはいない。だが,採用差別など闘争団による係争事件を考慮に入れても,すでに国鉄が解体されたという現実は否定できず,この現実を認めるならば分割・民営化反対闘争自体の敗北は明らかであろう。
 その上で,この闘争の敗北の原因にかかわって注目すべきは,マル生闘争勝利後の職場の実態が労働規律の弛緩にとどまらず,むしろ管理権の形骸化に代替する組合側の秩序形成力の未成熟によって職場の荒廃が極度に進んでいったということである。たとえば,本書によるものではないが,次のごとき証言はこの点を如実に物語っている。
 「マル生で勝って,組合は言いたい放題,したい放題だったですね。で,逆に私らなんかは何となく危機感を持ったような気がする」(注1)(元熊本地本執行委員)「現場の助役さんなんかもう組合にペコペコしちゃって。たとえば組合のビラひとつ剥ぎきらんし剥げば総すかん食らってしまう。組合からは『あんな助役はここに置くな』といわれるし,またそういわれると助役を転勤させてしまう馬鹿げた管理者がおったんですからね」(注2)(元熊本鉄道管理局労働課長)
 ここから職場の無秩序とそのもとでの組合員の精神の荒廃を読み取るのはむずかしくない。国鉄の分割・民営化は巨額の累積赤字を名分とした政府による市場競争原理の導入の試みであり,そのうちに国労の弱体化をねらいとしていたことはおそらく疑いないが,しかしこうした政府による攻撃を招き寄せる因子の一つを,もし国労の運動自体がつくりだしていたのならば,本書の執筆者たちがこの反対闘争を直接分析せずに,労使共同宣言の締結を拒否した修善寺大会の決定を正しいとするだけではとうていすまされないであろう。分割・民営化の嵐のなかで国労が分裂し少数派に転落したことは,国労が大衆的基盤を失い孤立したことを意味するものにほかならず,だとするならば,その根拠をもっぱら政府や当局の攻撃に帰すだけではなく,国民世論や民間組合の対応とともに国労の運動自体に内在していた問題点との関連において冷静に解明すべきであったように思われる。

 第3の論点である国労の現在の運動状況については,第3章が組織構造の概観を踏まえて解雇撤回闘争と権利闘争の現状を,第4章が職場と地域での分会活動の実態を各々丹念に分析している。とくに第4章は過去の分会(=職場)活動の問題点を踏まえつつ現在の実態をケース・スタデイによって分析しており,本書のなかでは最も充実した内容となっている。しかし評者には,なお若干の不満がある。
 一つは,昇格にかかわって国労分会が昇格試験の受験は個々の組合員の判断に委ねながら,活動で重視されている時間外の提案制度や増収政策への参加を認めていないために,国労組合員は受験してもほとんど一人もパスしないという現状に対して,第4章の執筆者が「現行の昇格試験は所属組合によって賃金格差を拡大していく差別的機能を果たしている」(169頁)として会社を批判している点に関してである。この問題については,提案・増収活動への参加が試験にパスするための重要な条件であるにもかかわらず,それへの参加を認めず,しかし受験そのものは事実上認めているという分会の方針の不整合あるいは無責任さがまず指摘されるべきではなかろうか。提案活動等への参加を禁止して組合員の足を事実上縛るのならば,受験も認めない,逆に受験を認めるのならば提案活動等への参加も認めるというのが一貫した対応であり,他方,仮にこのような昇格制度自体が問題なのならば,その改革のための分会の取り組み――例えば提案活動等の時間内への組み入れなど制度改革のための取り組みを分会がどの程度行っているかが具体的に明らかにされるべきであろう。分会の方針の不整合をそのままにして会社を批判するのは一面的にすぎるといわねばならない。
 いま一つは,本書に引用されている国労闘争団中央共闘会議事務局長の退任の際の発言――国労には「この闘いを外へ拡げながら全体の力で闘い取っていくという観点は弱いですね」「この3年間で少しずつ変わってきたと思うけど,まだオヤッと思うことがある」(112〜3頁)という発言に抽象的ながら表現されている国労の体質のごときものが,依然払拭されていない現状について,もう少し踏み込んだ指摘があってもよかったのではないか,ということである。地労委レベルでの採用差別等不当労働行為救済命令が示す国労の「正義の闘い」が,しかしなぜ思ったほどの社会的拡がりをもたないのかは,社会の側の問題だけではなく,国労自身の体質にかかわる問題の検討が避けて通れないように思われる。

 第4の論点は国労運動の今後の課題に関する議論であり,各章とも部分的にふれているが,ここではそれを労働運動思想の観点から産業政策闘争のあり方として包括的に取り扱っている第5章を取り上げるのが妥当であろう。第5章の執筆者によれば,産業政策闘争とは「労働を通じて,自らの生活が他人の生活に寄与することを喜びとできる」「類的存在」としての人間が,そのような「社会的共同労働」の実現を産業の場で推し進めようとする運動であり(220頁),具体的には「組合員の利益擁護の観点だけではなく,その産業の需要者であるところの国民・住民の利益擁護」をも図ろうとする運動であるという(222頁)。この視点からここでは,かつての「教師聖職論」や「民主的規制路線」あるいは労働者協同組合運動が評価される。
 労働者が自己の利益のみならず消費者の要求や利益をも実現するべきだ,とするこの主張の正当性自体を否定する理由はいささかもない。だが,この主張が真にリアリティをもつためには,それが可能となる条件をその困難へのパースペクテイヴを踏まえて明らかにする必要があったように思われる。例えば,国労の交通政策に即してみても,著者は「すべての人々に安全・良質・安価な交通サービスを供給するための必要な施策」を政府に要求するという私鉄総連の「交通政策要求」にかかわらせて,それは政府や経営者だけの責任ではなく労働者自身の責任でもあると主張する。この主張が労働者も自分の作業を責任をもって遂行すべきだという規律問題として説かれているかぎりでは首肯されうるが,しかしさらに踏み込んで検討してみれば,そこにはいくつかの困難が付着していることもまた明白である。
 すなわち「安全・良質」な交通サービスの提供は,交通産業として当然の基本であるが,それを維持するためには十分な要員による綿密な点検と修理作業が不可欠であり,それは多かれ少なかれコスト増をともない,また「安価な」料金でのサービスの提供も,企業のコスト削減努力を不可避とする。前者のコスト増はそれを価格に転嫁して需要者の利益を損なわないとすれば社内の合理化努力によって吸収しなければならず,それは早晩労働者の負担と無関係ではありえないであろうし,後者のコスト削減努力も経営効率の上昇に加えて労働負荷の増大や賃上げの抑制などと結びつかざるをえないであろう。つまり需要者の要求と労働者の要求とは厳密には対立することがありうるのであって,この対立は政府にそのツケを回すのでなければ,労使間で処理するほかはなく,その場合労働者側のより多くの譲歩による妥協ということもありうるであろう。
 もしそうならば,需要者の利益のために労働者の利益を犠牲にするという処理が,労働組合運動としてどの程度容認されるかが問われざるをえなくなる。「伝統的労働組合」が産業政策闘争を否定してきた最大の理由は,それが労働条件の低下や職場規制の弱化を多かれ少なかれ伴わざるをえず,そのことは組合の存在根拠を自ら堀り崩すことになるという危惧によるものであった。したがって,労働者の利益を犠牲にしても産業政策への発言が意味をもつのは,それをとおして短期的にはともあれ長期的にみて雇用や労働条件が安定化するという展望のなかでしかありえないであろう。だが,そもそも国労がそのような発言力を行使しうる基盤を現在のJR労使関係のもとで確立しえていない以上,それはあくまでも課題にとどまらざるをえない。第5章の,産業政策闘争がはらまざるをえない矛盾についての自覚の欠如は,この章が運動思想を正面から取り扱っているだけに惜しまれる。

 以上,本書の主要と思われる論点について評者の感想をやや立ち入って述べてきた。本書は,国労教育センターの依頼にもとづく研究会の成果として編まれたという性格から,もともと一定の制約条件のもとに置かれていた。その制約にもかかわらず,本書の著者たちが敢えて行った国労運動に対する批判的指摘は貴重である。しかし評者には,なおそれが総じて微温的な枠を超え出ていないとの印象を拭いきれなかった。
 かつて国労は国鉄に働く労働者の7割を組織していたが,国鉄解体後2割に落ち込む。国労を脱退し,あるいは分裂して傲岸な経営側に身を屈していった組合員の多くは,国鉄解体の危機を眼前に雇用の確保を最大の動因とするものであった。そこには,国鉄解体に対する危機意識が微弱なためにそれへの取り組みが著しく立ち遅れ,しかも分割・民営化反対という以外の有効かつ現実的な対応策を打ち出すことができず,それゆえ雇用への展望を切り拓くことができなかった国労に対する組合員の絶望が横たわっていた。そのプロセスはまた稀にみる多くの自殺死による犠牲者を伴なっていた。人々を死に追いやった責任の多くが,苛烈な攻撃を仕かけた政府・当局にあったことは疑いを容れないが,しかし彼らを守るべき国労の非力さ・無策にその一斑があったこともまた否定できない。国鉄解体をめぐる壮大なドラマを,労使協調路線に屈した人々と正義を貫いた誇り高き人々という単純な構図で描いては抜け落ちるものが多すぎるとする所以である。
 それにしても国鉄解体とその後のプロセスを通してあらわになったことは,日本の市民社会としての成熟度の低さである。国労の受難は,たとえ国労自身に一斑の責任があったにせよ,基本的には政府・国鉄当局による基本的人権の蹂躙にかかわる問題であった。しかし自己の正当性を強調するがあまり,多くの働く人々の苦悩への省察を欠いた国労と,消費社会が放つ妖しい光彩のもとで自己保守的態度に自足する人々との間で,この問題は,いま空洞化しつつある。日本の社会は,この対応に象徴される両極のはざまで,市民的自立性に不可欠の精神の緊張と寛容を欠いたまま浮遊しつつあるように思われる。

 注(1)『錆色の道』編集委員会編『錆色の道―国労熊本40年の証言』1991年,238頁。

 注(2)同上,298頁。




日本評論社,1993年1月刊,x+249頁,定価3,090円

いのうえ・まさお 立教大学経済学部教授

『大原社会問題研究所雑誌』第418号(1993年9月)



先頭へ
書評一覧へ
電子図書館へ
研究所ホームページへ