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『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版




小池 和男 著
『仕事の経済学』

評者:井上 雅雄




 著者の所説は,かつて日本の労使関係の特殊性と後進性を象徴するものとされてきた年功賃金,終身雇用,企業別組合などの慣行と制度を,人的資本論と内部労働市場論の成果を吸収しつつ丹念な実証的研究をもって,それが欧米諸国にも共通する普遍的な現象であり,むしろその徹底さという点において先進的であるとする認識を示すことによって,日本労使関係研究にいわばコペルニクス的転回をもたらしたものであった。したがってその影響は,ひとり労働研究のみならず日本経済論全般から企業理論にまでおよぶ広範なものであり,今日,日本労働研究において著者の所説が独特の位置を占有するのは充分な根拠がある。が,特殊性といい後進性といい日本の労使関係についての伝統的な評価は,欧米諸国とくにイギリスの労使関係の歴史と現実から抽象した理念的モデルを事実上基準とし,日本の現実に対してそこからの乖離の距離,偏差の度合をはかろうとする問題視角を多かれ少なかれ内在したものであってみれば,その評価基準の基礎をなす欧米諸国の現実について,その実態把握の精度が増すにつれてかかる伝統的評価が揺らぎはじめるのは不可避であったといってよい。しかも留意すべきは,二度にわたる石油危機を乗り切って世界市場を席捲しつつあった日本企業の良好なパフォーマンスが,このような評価の逆転を加速し,日本労使関係を先進モデルに押し上げる客観的条件を提供したということである。著者の所説には,現実に存在するものこそが合理的であるとする,かの命題が深く刻印されていたことは否定できない。
 本書は,このような著者が「概説書」として執筆したものであるが,その内容は概説書の域をはるかに超える高い水準の作品となっている。それまでの自己の主要な仕事のエッセンスを集約し,それを自らが依拠してきた現代経済学の理論的成果の検討によって論理づけ,その上で「段階論」的分析枠組みを設定することによって自らの仮説の歴史的位置関係を確定するという体系的構成をとっているからである。そればかりではない。もし日本的なるものがあるとするならば,それは国際比較によって確定すべき事柄であるとする正当な視角から,欧米諸国の実態について日本と共通の分析枠組みをもって解明しようとする明晰な方法意識が全体に貫かれ,構成の統一性を支えている。日本と可能な限り条件を整えた外国の統計,統計によって詳らかにできない実態については自らの工場実態調査,自らがカバーできない部分については目的と方法の近似的な他の研究者の実証研究の成果をもって,日本の賃金,雇用,雇用調整,熟練形成,日本方式の海外通用性,労働組合の発言力などを国際比較的パースペクテイヴのもと統一的論理によって明らかにしたところに本書の最大の特徴がある。
 以下,本書のなかから浮かびあがってくる主要な論点について,私の率直な感想と疑問点を記すことによって評者としての責めを果たしたいと思う。

 第一の論点は,著者が最も力点を置きかつその主張の最大の独創というべきいわゆる「ホワイトカラー化」仮説にかかわるものである。日本の大企業ブルーカラーの賃金の年功的カーヴ(と長期勤続層の厚さ)は,欧米のホワイトカラーにも認められるという事実発見を前提として,その根拠を日本のブルーカラーのホワイトカラーに近似的な熟練の性格−作業中の「異常への対応」力に示される「知的熟練」に求め,そこに製造職場の効率性総じて日本企業の競争力の源泉を見出す,というのが著者の「ホワイトカラー化」仮説の骨子である。そこでは,日本のブルーカラーの年功賃金カーヴが欧米のホワイトカラーのそれと直接比較されているのが特徴である。が,改めて指摘するまでもなく,日本のブルーカラーの年功賃金カーヴは,格差こそあれ日本のホワイトカラーのそれとそもそも近似的なのであって,このことは,何ゆえに日本にあって両者に近似性が認められるかの根拠の解明がまずなされるべきであることを示唆している。むろんこのように問題を立てた場合でも,知的熟練をもってその理由とすることは可能であろうが,日本の労働組合が,戦後工職差別撤廃を重要な課題として運動した結果,賃金をその一部とする処遇上の改善が果たされたという事実も看過するわけにはいかない。つまり今日の日本のブルーとホワイトカラーの賃金の年功カーヴを可能ならしめた条件は,戦後の労使対抗の結果としての処遇制度の平等化に基礎を置いているのであり,著者のいう知的熟練もそのような職場の社会関係のもとで育まれ促進されたものとみることができよう。著者は,他方では所得分配面で日本は平等度が高く,そのことが労働者の士気をとおして職場の効率に貢献していると説きながら,その平等度の高さをもたらした社会的条件にふれることがないために,労働者の士気の一つのあらわれでもある知的熟練の社会的根拠を解く道を自ら閉ざしてしまったように思われる。そしてこの点は,アメリカのブルーカラーの賃金カーヴと定着性を説明する場合により直截的にあらわれる。
 日本のブルーカラーの年功賃金カーヴと長期勤続層の堆積は,著者の示す統計によれば日・欧・米のホワイトカラーに認められるばかりではなく,アメリカのブルーカラーにも幾分緩和されたかたちではあれ共通に認められる特徴である。が,同しブルーカラーであり同じような賃金カーヴと長勤続傾向を示しながら,その根拠は日本と米国とでは大きく異なっている。アメリカの場合,職務賃率を基礎に組まれた昇進ラインにおける昇進を労働組合が先任権によって規制し,また解雇も同じく先任権によって組合の規制のもとにあるという労使関係構造の結果,勤続が長くなれば賃金カーヴが上がり,また長勤続者が解雇から守られて高い定着度を示すのに対し,日本の場合,賃金は成績査定を前提とした定期昇給制度によって勤続年数にしたがって上昇し,またそのことが長期勤続を促す原因ともなっているという構造のもとでの現象である。前者が組合規制ゆえの結果であり,後者がその欠如ゆえの所産である以上,その差異はきわめて本質的である。このことは,年功的賃金カーヴや長勤続層の堆積という現象の類似性自体が重要なのではなく,それをもたらした両国の労使関係構造の差異とりわけ労働組合規制のちがいとそれを結果せしめた社会的条件・歴史的文脈のちがいを問うことのほうが本質的であるということを意味している。だが著者はこのような自らが発見した一見類似的なるものの背後に横たわる大きな社会関係の質の差異を,そのものとして問うことはしていない。
 が,おそらくこのような批判をあらかしめ見越してであろうか,著者は終章において産業化の発展段階を二つに分け,その各々に支配的な労働力タイプ(熟練度と時間によるその可変性を組み合わせた四つの類型)を配した上で,産業化が進んだ今日の段階における労働力タイプの国別差異をその労働力タイプの移行のコストの差異に求めて,およそ次のごとき議論を展開する。すなわち経済的・技術的条件がたとえ変化しても一つの社会制度としての労働力タイプは,とくに労働組合が技能形成に強くかかわるならば一層それとは相対的に独立して存続するとして,その代表例を,産業化の第一の発展段階を最も早く繁栄させたがためにクラフト・ユニオン規制が強く存続するイギリスに求め,その対極に第一の産業化の発展段階が短くそれに適合的な社会制度を発展させられなかったがゆえに逆に内部昇進制など第二の発展段階に適した社会制度を開花させた日本を置き,アメリカをその中間的な位置にあるものとするのである。この議論は熟練のタイプの国別差異をその根拠にまで降り立って統一的に説明しようとした点で注目に値する。が,著者の主張は,熟練のタイプの国別のちがいを,結局のところ国毎の産業化の発展段階の差異という経済的条件に帰着せしめるものであって,それは,たとえば労働組合が経営者との対抗をとおしてその政策を制約し,労働市場のあり方を規制することによって産業化の進展そのものに影響を与えるという逆作用の側面を無視することとなっているように思われる。端的に,日本企業における内部労働市場が労働組合の介入を排した経営主導型の構造をとっているのに対して,アメリカ企業のそれが先任権に支えられた組合主導型の構造となっている事実を,両国の産業化の進展度のちがいによって一義的に説明することはできないというべきであろう。経済の発展=産業化の進展は,ア・プリオリに与えられた自然必然的な過程なのではなく,人間の意志と欲求にもとづく社会的営為の所産でもあるという視角が必要なのではなかろうか。この点において,アメリカの内部労働市場の形成過程を追跡したS.M.ジャコビイが,その形成の根拠を「経済的誘因」だけではなく,「労働組合の台頭,雇用に対する新しい社会的規範」などの「社会のさまざまな発展」(1)に求めていたことは,きわめて示唆的であった。

 第二の論点は,上とも関連することであるが,内部労働市場の成立要因について著者の解釈にかかわることである。著者は,日欧米のホワイトカラーと日米のブルーカラーにみられる年功賃金カーヴと長勤続層の存在とを共通に説明する理論的枠組みとして,新古典派の人的資本論と制度学派の内部労働市場論を援用しながら,内部労働市場の成立要因としてとくに決定的なものを企業特殊熟練に求め,その内実を「仕事のキャリアのくみ方」にあるとする。そしてその企業特殊熟練の度合を同一業種の(日本の)企業間賃金格差を根拠に10〜20%程度とみ,その程度の特殊熟練でも充分内部労働市場は成立すると主張する。ただし,10〜20%程度の特殊熟練で何ゆえに内部労働市場が成立するかの根拠については説明を与えていない。このような著者の企業特殊熟練を根拠とする内部労働市場の成立に関する理解の仕方は,次のような疑問を喚起する。
 一つは,キャリアの組み方が企業特殊熟練の内実だとする理解からすれば,キャリアの組み方を広くすればするほどつまりジョブ・ローティションの範囲が広ければ広いほど熟練の企業特殊性が薄れ,他の企業にも通用する一般性が増大することになるから,それは内部労働市場の成立をむしろ阻む要因となるというパラドックスを避けられないということである。通常,労働市場の内部化の度合が深いという場合,このキャリアの組み方が広く,作業持ち場の移動の範囲が広いことを指しているが,そうであれば内部化が進めば進むほど熟練の企業特殊的性格が少なくなり,その一般的な市場価値が高まっていくことによって,結果的に内部労働市場を掘り崩すことになる。したがって内部労働市場を維持するためには,内部化の度合を抑えること,具体的にはキャリアの組み方を狭く限定して専門性を維持しなければならないということになる。著者が,特殊熟練が「せいぜい10〜20%ていど」でも内部労働市場が成立しうると主張したのも,あるいはこのような企業特殊熟練に内在するパラドックスを意識してのことなのかもしれない。が,もしそうならば,「せいぜい10〜20%ていど」でも,ではなく「10から20%ていど」でこそ,と言い換えなければなるまい。しかしそれでは,日本の生産職場のジョブ・ローティションの広がりをもって内部昇進制の深さの根拠とし,またそれを日本の生産労働者の知的熟練形成の客観的基盤ともしてきた著者の主張と齟齬をきたすことになるのは避けられない。
 いま一つの疑問は,この企業特殊熟練なる概念がホワイトカラーの内部化の要因としても共通に適用されている点にかかわる。そもそもホワイトカラーの職務の内容を,生産労働者のそれと同じ概念装置によってとらえることができるものなのかという疑問である。著者は他の章で大卒ホワイトカラーのキャリアをいくつかの職種で描き,そこから「はば広い専門性」という特徴を析出しているが,そこには企業別のキャリアの組み合わせの広狭という視点はなく,したがって企業特殊熟練を検出することなどは行われていない。営業,総務,経理からシステム・エンジニアなどの専門職に至る多様多岐にわたるホワイトカラーの職種に共通の尺度をもってその企業特殊熟練をはかることはできないのではないか。私は,ブルーカラーに比してホワイトカラーのほうが労働移動率が少なく長勤続層が多いとすれば,それは彼らの企業特殊熟練によるというよりも,ブルーカラーに比べ製品需要の変動などに直接左右される度合が少ないというその職務の性格によるところが大きいからではないかと考えている。あるいはブルーカラーに比べホワイトカラーの労働時間管理がはるかにルーズなことは,彼らの職務の内容がブルーカラーに比べ多様で境界があいまいであることをあらわしているが,このことは企業特殊熟練を形成するそもそもの条件が,ホワイトカラーの仕事の場合にはブルーカラーの仕事と比べはるかに少ないということを意味しているのではなかろうか。総じて企業特殊熟練を内部労働市場の成立根拠とする論理の妥当性は,ブルーカラーに比してホワイトカラーの場合ははるかに低いと私には思われる。

 第三の論点としてふれておくべきは,日本の企業規模別賃金格差の原因という古くて新しい問題をめぐる著者の理解についてである。著者は,日本の規模別賃金格差を諸外国との比較において極度に大きいものではないことを確定した上で,その格差の原因について,既存の理論仮説−過剰人口説,生産性格差説,労働需給状況説に各々検討を加えながらその妥当性の限界を指摘して退け,自らの熟練仮説−大企業の生産労働者に一般的な知的熟練をもつ労働者層が中小企業には少ないという仮説をもってそれを説明する。熟練度のちがいをもって賃金格差を説くのは経済学の常道であるけれど,しかしこのこととそれによってこの現象を説明し尽くせるということとは,いうまでもなく別の事柄である。私は,たとえ中小企業の労働者の多くが大企業と同じような質の熟練をもっていたとしても,規模別賃金格差は無視できない大きさで存在すると考えている。日本の大企業と中小企業との取引関係のあり方が,中小企業の賃金支払い能力を根本から規制していると考えるからである。日本の親企業と下請企業との長期・継続的な取引関係は,そのもとでの親企業による下請部品価格の厳密なコントロールを最大の特徴としているが,そのメカニズムの核心は,自動車産業を例にとれば,部品価格が自動車メーカーのあらかじめ設定した目標価格に近づける部品メーカーの原価低減活動(カーメーカーの常駐指導のもとでの)の結果として決定された後,年二回の値下げ交渉によってさらに引き下げられ,そのために部品メーカーが自らの利益を確保するにはさらに徹底して原価低減をはからなければならないという構造にある。それは,競争入札によって部品メーカーが決定したならば,その入札価格が少なくとも1年間は継続し,1年後の入札価格はコスト上昇を織り込んで前年より高くなるのが一般的な欧米企業の取引慣行との際立ったちがいである。
 そればかりではない。最近の実証研究の示すところによれば(2),自動車メーカーのコントロールは部品価格だけではなく利益率にまで及び,日本の部品メーカーをして欧米の各社に比して低い利益率を甘受せしめ,しかも注意すべきは,その少ない利益を省力化投資に再投資させるというかたちで部品メーカーの利益処分の仕方にまで自動車メーカーのコントロールが貫かれているということである。部品メーカーが激しいコスト削減努力によって生み出した利益を,自動車メーカーのコントロールのもと継続的に再投資に振り向けることによって,さらなる部品価格の引下げが実現されるというこの関係構造のもとにあっては,部品メーカーの賃金支払い能力に限界が画されざるをえないのは必然であろう。たとえ両者の間の生産性格差がそれほど大きくなくとも,賃金支払い能力に決定的な格差が生ずることになるゆえんである。以上のごとき日本の産業組織のあり方とその企業間取引構造の特質は,熟練の性質のちがいをもって規模別賃金格差を説明できる割合が決して大きくないということ,そして日本にあっては,企業規模別賃金は産業ごとに比べるべきであるということを示唆している。著者の規模別賃金格差に関する説明の仕方は,労働という人間の社会的営為にかかわる事柄の一切を,経済的合理性をもって説明し尽くそうとする著者の基本的スタンスに内在する無理を,端的に表現しているというべきなのかもしれない。

 以上,私は主要な論点にしぼって評者としての疑問を述べてきた。著者にとってはこれらの疑問点は,あるいはすでに充分に自覚されているものなのかもしれない。が,私は,高度に体系的な,それゆえに著者の並々ならぬ自信に裏打ちされたこの作品が,しかし,異質的なるものへの緊張を欠落させたがために,著者の力説する普遍性そのものへの緊張をもまた欠くことになったという印象を否定できない。あるいは,それ自体多くのヴァリエーションをもち変容もしてきた「通説」や「通念」なるものを,厳密に確定することなくあいまいなままに,専ら自説の展開のための素材−その論理を際立たせるための道具立ての一つとするような叙述のスタイルにも,アン・フェアな印象を否めなかった。さらに直截的に言えば,この作品の背後に横たわっている著者の次のごとき価値意識−企業の効率性に必須の知的熟練を広めるためには査定=競争の導入によって労働組合の事実上の無力化を招来してもやむをえないとする選択判断,あるいは高い労働分配率は設備投資を制約して企業成長を低下させ,雇用基盤を不安定にするために労働者にとっては不利益であるとする価値判断に対しても,やはり私は大きな疑問符をつけざるをえない。そこには,労働者にばかりではなく経営管理層にも所得分配を限定して,ひたすらに資本蓄積に邁進してきた日本企業のその効率性と競争力が,国内はむろんのこと世界の経済と環境と人びとの生活にいかなる結果をもたらしているかの省察の欠如が際立っているからである。日本企業の効率性と競争力は,知的熟練によってのみもたらされたのではなく,過労死から環境破壊に至る本来支払うべき多大の社会的・経済的コストの未払いによって成り立っているのであって,この点を欠落させた効率性の議論は一面的にすぎるというべきであろう。日米経済摩擦に象徴されるように,政治力によって抑制されるほかはなくなった日本企業の行動様式を,アメリカのレヴィジョニストの日本理解を撃つ一方で,手放しで追認する著者の価値意識に危惧を抱くのは,私の偏った価値意識ゆえの迷妄であろうか。


  (1) S.M.Jacoby,Employing Bureaucracy,1985.
  荒又重雄他訳『雇用官僚制』北海道大学図書刊行会,1989年,「雇用慣行の日米比較―日本語版読者への序文」5頁。

  (2) 清向一郎「価格設定後の価格根拠の形成とサプライヤーの成長・発展」
      日本中小企業学会編『地域経済と中小企業』同文館,1991年所収。




東洋経済新報社,1991年6月,14+275頁,定価 3,700円

いのうえ・まさお 立教大学経済学部教授

『大原社会問題研究所雑誌』第400/401号(1992年3/4月)



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