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『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版



村串仁三郎著
『日本の鉱夫――友子制度の歴史

評者:市原博

 かつて日本の鉱夫が友子同盟とか,単に友子と呼ばれた特異な組織を形成していたことは,労働史研究者の間ではよく知られている。本書は,友子の歴史的変遷を解明する作業を通して日本の鉱夫たちの社会的性格を解明した力作である。著者はすでに約10年前に友子の歴史的形成過程を詳細に解明した大著『日本の伝統的労資関係』(世界書院 1989年)を刊行されている。この前著で,江戸時代後期から明治時代後期にわたる友子の形成・確立過程を詳説されたあと,著者は大正・昭和時代の友子の研究に進み,足尾・別子・日立鉱山,登川炭鉱の友子の個別事例研究を蓄積されてきた。本書はこうした著者の20年にも及ぼうとする膨大な友子研究のエッセンスをわかりやすくまとめたものである。

 本書の巻末に掲載されている文献目録に示されるように,これまでも友子に関する研究は細々とではあれ行われてきた。しかし,それらの多くは,友子が企業の労務管理制度に統合され,その変質・衰退が始まった大正期以降を対象とするものであった。これに対して著者は,友子の最盛期の姿をとらえるべく,江戸時代後期以降の友子の歴史的生成・発展過程の分析に取り組まれた。この課題がいかに困難なものであるかは,労働史研究者であればすぐに感得できよう。筆を持つことのほとんどなかった鉱夫たちが独自に組織した友子の歴史を再現することは史料的にほとんど不可能に近い。評者を含めてこれまで誰もが躊躇し,足を踏み出さなかった課題に挑戦され,全国の旧鉱山地域を踏破して史料を発掘し,その成果を提示された著者にまず最大級の賛辞を送りたい。評者は,以下に指摘するように,重要な点で著者の実証には欠けている部分があると考えている。しかしそれは,著者の驚嘆すべき史料探査の旅でも克服できなかった史料的困難さの故であり,著者が批判されるべきものではない。

 内容の検討に入る前に,まず,本書の構成を紹介しておきたい。

 第一章 友子とは何か
 第二章 江戸時代の友子−友子の形成−
 第三章 明治前期の友子−成立期の友子の実態−
 第四章 明治後期における友子制度の確立
 第五章 明治典型期の友子組織の実態
 第六章 明治典型期の友子の活動実態(一)
   −友子の技能養成と相互扶助−
 第七章 明治典型期の友子の活動実態(二)
   −友子と秩序維持,労働市場,労働組合−
 第八章 大正期の友子(一)−友子制度の発    展と変容−
 第九章 大正期の友子(二)−労働組合運動にゆれる友子−
 第一〇章 昭和期の友子−友子の変質と消滅−
 友子研究の文献目録

 本書に集約された著者の友子理解を仮に村串友子論と呼ぶとすれば,その内容をめぐって最大の論議を呼ぶのは,友子の本質が「ギルド的な性格を持ったおもに熟練採鉱夫の同職組合」(12頁)と規定されている点であろう。初の本格的な友子調査である農商務省鉱山局「友子同盟(旧慣ニヨル坑夫ノ共済団体)ニ関スル調査」(1920年)が友子を「一種の自治的共済組合」と規定して以来,友子は坑夫の自助的相互扶助組織とする理解が普及し,それは,戦後直後の時期に労働社会学の立場から実施され,友子の組織と活動実態を広範に明らかにし,その後の友子理解の枠組みを作った松島静雄氏の研究にも引き継がれた。これに対して著者は,そうした理解が友子の持った広範な活動領域を正しく把握する妨げとなってきたと厳しく批判し,新たな友子理解を対峙されたのである。

 友子を同職組合と規定した結果,村串友子論では,友子の基本的な活動として鉱夫の技能養成が重視されることになった。近世史研究が江戸時代の友子の成立を否定的に考えたのに対して,著者は友子史料探査の旅を通して,18世紀末から19世紀初めにすでに友子が存在していたことを示す史料を掘り起こされた。そして,友子の成立理由の筆頭に,熟練鉱夫としての後継者を養成し,同時に鉱夫の供給を規制する手段となる徒弟制度を維持する必要があったことをあげられ,明治時代に近代的鉱山業が発達・確立する中で友子がさらに発達を遂げた理由についても,近代的鉱山が採鉱・採炭部面の手労働的な熟練を解体せず,鉱山経営者が熟練鉱夫を独自に養成する能力を持てなかったため,熟練鉱夫の養成を友子に依存せざるを得ず,鉱山業の拡大による熟練鉱夫不足の中で友子もこうした要請に応えたことを第一にあげられている。村串友子論では,友子に独特な組織体制を規定した成文規約の作成と奉願帳による共済活動の開始をおもなメルクマールとして,従来の研究より少し早い明治30年前後に友子の制度的確立が措定され,大正期に入っても友子の存在理由が失われなかったため同職組合として存在し続け,その急激な変質が始まるのは,1920年の戦後反動恐慌以降の合理化の進展と労働市場の企業内封鎖性が強まる中でであったとされる。そして,そこでも,友子の組織的形骸化が進んだ理由として採鉱技術の機械化の進展による徒弟制度の不要化が重視されているのである。

 友子が技能伝承の機能を持っていたことは,これまでの研究でも指摘されてきた。しかし,熟練鉱夫の養成が友子の歴史的変遷に与えた意味を共済活動以上に評価されたのは,村串友子論の特徴である。それは,友子を他の職人集団の活動や,さらにはヨーロッパのクラフトギルド,クラフトユニオンなどとの比較の観点から研究する,友子研究の新地平を切り開いたものと評価できる。しかし,同時にいくつかの疑問が生じるのも事実である。

 著者は,友子の活動はギルドのそれに近かったとしながら,江戸時代に幕藩から公認されることがなかったことを理由に友子をギルドとした片山潜の規定を否定し,友子を「ギルド崩壊後に自主的に生まれた,同職の職人たちの組合」(14頁)とされる。しかし,ここでおそらく著者が想定されているヨーロッパのギルドや同職組合が徒弟制度を通して発揮していた機能と,著者の言われる友子の機能との間には違いが見られる。前者は基本的には徒弟制度を通して熟練職人の労働市場への参入を制限し,自らの経済的利益を図っていたと理解されている。これに対して著者は,ギルドやクラフトユニオンほど強力ではないが友子も取立制度を通して熟練労働力の供給を「ある程度規制」(144頁)していたとしながらも,上で紹介したように,鉱山業の発達の中で要請された熟練鉱夫の養成を遂行した友子の姿を強調されている。著者が明言されているわけではないが,ヨーロッパの同職組合以上に友子は経営側の要請と親和的だったのであり,また,それが友子の明治以降の発達を可能にしたと理解されているのである。ここに友子の日本的特徴を見ることも可能であろう。

 熟練鉱夫の養成が友子の徒弟制度を通してのみ可能であったとの理解から,著者は,友子が九州の炭鉱を除けばどこの鉱山にも存在し,採鉱夫中に占めるその組織率がきわめて高かったことを強調される。鉱山労働の分業が進んでいなかった江戸時代には成人男子の鉱夫はすべて友子に加入していたとされ,分業が進んで採鉱夫以外の職種が増加した明治後期には,その影響で友子の組織率が低下したが,それでも,著者が発掘されたいくつかの鉱山のデータから採鉱夫中では70%から80%の組織率があったと推測されている。しかし,著者によるこの推測は,友子の徒弟制度を経ずに採鉱夫になった人々が一定の割合で存在していたことを示している。これらの人々を著者が熟練鉱夫と考えているのかどうかは評者には読みとれなかったが,友子以外の採鉱夫の存在は,熟練鉱夫の養成の途が友子の徒弟制度以外にも細いものではあれ存在していたことを示唆している。明治期に熟練鉱夫の需要が急増する中で,著者が言われるように「ある程度」ではあれ友子が熟練鉱夫の参入制限を行った場合,経営側・友子間での熟練鉱夫養成をめぐる緊張関係が生じることが予想されるが,著者はこの点での両者の関係に楽観的であり,語ろうとしない。  こうした疑問が生じるのは,実は,友子による熟練鉱夫養成の内実が明らかでないからである。著者は,友子の徒弟制度として,友子への取立後三年三月十日間取立山で修業を積む「親山勤」を義務づけた友子規約を紹介されている。しかし,規約は必ずしも実態と一致しているわけでないし,この期間の修業は伝承として広く伝えられているとしても,当時の熟練鉱夫不足と鉱夫の激しい移動の中でこうした義務がどこまで果たされていたのかは疑問の余地があろう。とはいえ,規約と伝承以外に情報のない友子の技能養成の内実を今日の時点で解明することはおそらく不可能であり,著者の実証の不足を批判するのは妥当ではない。

 友子が経営側と親和的であった理由を,著者はおそらく二つの点から説明されている。一つは,熟練鉱夫の供給が需要に追いつかなかった明治期の鉱夫の労働市場が友子に有利な環境を提供したこと,いま一つは,鉱山「小資本家」や飯場頭が友子に加入しており,彼らを通じて経営者意識が友子に持ち込まれたことである。著者が言われる「小資本家」とは,友子に加入した鉱夫が小規模な鉱山を経営する鉱業人に成長したものであるが,こうした人々が友子のメンバーであり続け,友子の活動に大きな影響を与えていたという事実の発掘は,著者が友子を同職組合と規定したおかげで可能となったものであり,村串友子論の貢献の一つである。後者の説明は,友子を体制的性格を持つものとする著者の把握と関連している。著者は取立式の際に読み上げられた文書を発掘され,その分析を通して友子が国家体制を容認し,経営秩序の遵守と勤勉を旨とする職業倫理を持っていたことを明らかにされた。そして,飯場頭が友子に加入していたのは,労務管理能力を持ち得なかった鉱山経営者が友子の有力者を飯場頭とし,彼らを通して友子の持つ自治的機能を鉱夫の統轄に利用したためであり,その裡には飯場制度の衰退が友子の衰退を招いたほどの友子と飯場の密接な関係があったとされる。飯場制度は基本的に資本の支配を受けていたが,同時に相対的な独立性を持ち,その独立性の強弱により友子と経営側との関係も揺れ動いたと把握される。飯場制度のこうした理解は旧来のものとは異なり,評者も炭鉱の納屋制度・飯場制度に関して似通った主張をしているが,こうした理解を提示したのは著者の方が早かった。

 このように友子の体制的性格が強調される一方で,友子が労働組合化する動きも存在したことが重視されるのも村串友子論の特徴である。著者は明治期に友子が労働争議を組織的に展開した事例を掘り起こされ,それを「友子の一時的な労働組合化」(149頁)と評価し,友子が恒常的な労働組合組織に転化する可能性さえ存在したことを明治40年の足尾銅山争議などの中に見いだしている。そして,第一次世界大戦後には,労働組合運動の発展の中で「有力で自覚的な友子鉱夫たち」(191頁)が労働組合運動に走り,友子が両極分解していったとされる。こうした動きを高く評価されるのは,友子の自立的性格を重視される著者の立場を反映したものであろう。しかし,友子の労働組合化は永続せず,こうした動きに脅威を感じた経営側により友子は飯場制度や従業員団体の下に統合され,企業内化していったとされる。

 ここで論点となるのが,友子の民主的性格を著者が強く主張されていることである。従来友子は飯場頭や有力親分鉱夫によるボス支配の下に置かれていたと理解されてきたが,著者によれば,それは企業内化された段階で友子に生じた変質を友子本来の性格と見誤ったものであり,成立・発展期の友子は,その組織運営にすべての加入鉱夫が参加することの出来る民主的な性格をもっており,それが友子の発達を可能にしたとされるのである。著者はその証拠として,友子役員の選出方法や会議運営に関する規則を提示されるが,親分子分関係を組織の基軸とする友子がその組織運営の民主的性格をいかに実質化し得たのかは,さらなる研究が必要であろう。

 大正末年以降,友子はその基盤を失い,同職組合としての性格を喪失し,昭和期には「友子制度の遺制」(211頁)としての親睦団体となり,衰退の道を辿ったと描かれる。そして,戦時期には従業員団体と共に産業報国会に吸収され,多くの組織が解散に追い込まれ,戦後に生き残った少数の友子も,「鉱夫の団結を強調する同職の親睦団体」であり,「友子の遺制」(238頁)であったとされる。こうした事実認識に異論はないが,この時期の友子の活動の意味をもう少し積極的に評価することも可能であろう。著者は友子を同職組合と規定されるため,同職組合としての性格を失った友子を「遺制」と評価されることになるが,この時期の友子がなお維持していた鉱夫間の人格的結合関係が企業の労務管理や戦後の労働組合運動に与えた影響は,独自に検討されるべきであると評者は考えている。

 以上,おもに友子を同職組合と規定された点に係わって本書の内容を検討してきた。本書は友子への著者の熱い思いで満ちている。そうした著者の息吹に接することが出来るのも本書の魅力である。日本の労働史に関心を持つ多くの人が本書を繙かれることを願い,拙い論評を終えることにしたい。


村串仁三郎著『日本の鉱夫』世界書院,1998年10月,ii+246頁,定価本体3500円+税

いちはら・ひろし 城西国際大学経営情報学部助教授

『大原社会問題研究所雑誌』第486号(1999年5月)


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