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『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版



荻野 喜弘著
『筑豊炭鉱労資関係史』

評者:市原 博




 本書は,産業革命期から1930年代半ばの時期を対象に,主に筑豊炭田の大手炭鉱の労資関係の構造的特質とその展開過程を究明した重厚な研究書である。本書はまぎれもない大著であり,今後の炭鉱史の定本となる書である。本書を読みながら,厳密な実証手続きをふまえて当時の炭鉱の実態を細部にわたって再現しようとする著者の姿勢に圧倒される思いを味わった。設立間もない九州大学石炭研究資料センターに着任され,以後,同センターの充実と炭鉱史研究の発展のために多忙なお仕事をこなしてこられた著者が,このような研鑽の書を世に問われたことに,まず敬意を評したい。
 ただ,比較的近い立場で似通った対象を研究しながら,著者と評者の間には相当大きな認識の違いがあることにも気づかざるをえなかった。それは,筑豊と北海道をそれぞれ主要なフィールドにしているということに還元されるものではなく,やや誇張していえば,著者と評者の炭鉱という世界に対してもつイメージの違いに基づくもののような気がしている。以下,本書の内容を紹介しながら,その違いを指摘して,著者の教えを乞うことにしたい。
 本書では,「日本資本主義確立期」,「第一次大戦前後」,「両大戦間期」という時期区分により三つの章がたてられ,それぞれの時期の筑豊の炭鉱労資関係の特質とその変容及び日本の炭鉱労資関係の中での位置づけが論じられている。
 研究の対象時期の始点を産業革命期とした理由を,著者は,それが「近代的炭鉱業の勃興にともなって成立した資本家的炭鉱経営のもとにおける炭鉱労資関係の構造的特質を解明しうる時期」だからと説明している。著者のいうように,排水ポンプと主要坑道への捲上機の導入により「『近代的』炭鉱」が出現し,「資本家的炭鉱経営」が成立したといっても,その「資本家的炭鉱経営」は,それ以前の炭鉱のあり方から無縁な存在であったわけではない。採炭事業と坑夫の統轄に当たった棟梁の下で,すでに幕末期から坑夫たちは独自の仲間を形成していたことが明らかにされている。棟梁を中心に取り結ばれていた坑夫たちのこうした社会関係から,産業革命期の「資本家的炭鉱経営」は自由ではなかったように思う。その意味で,「資本家的炭鉱経営の下における炭鉱労資関係の構造的特質を解明」するためには,産業革命以前の炭鉱・坑夫の特質の分析から叙述を始める必要があったのではないだろうか。
 産業革命以前の炭鉱への関心とその「資本家的炭鉱経営」へのつながりを問う視角が著者に比較的弱いように見えるのには根拠がある。著者は,「『近代的』炭鉱」の形成にともない,採炭事業を鉱業技術者が指揮するようになり,従来の棟梁は作業管理機構に組み込まれ,同時に,生活点での管理に従事する労務供給に関する中間請負制度たる納屋制度が成立したと理解されている。こうした認識から,「資本家的炭鉱経営」のそれ以前の炭鉱に対する質的差異の大きさが強調されることになったのであろう。
 しかし,こうした認識で,産業革命期の炭鉱経営の構造的特質を正確にとらえられるのであろうか。たとえば,筑豊でも大手に属する安川の炭鉱経営に大学出の技術者としてはじめて石渡信太郎が加わったのは,1900年であった。しかも,その石渡は,入社後しばらくは,「先生などに石炭が掘れるものか」と言われて坑夫も小頭も頭領もまったくいうことを聞いてくれなかったと,後年回想している。当時の筑豊の炭鉱の多くで,頭領たちは,採炭事業上未だ抜き難い権力を持っていたし,一部の炭鉱をのぞけば,作業の監督を担った役員も,ほとんどが坑夫あがりの人々であった。この点を考えると,当時の炭鉱労資関係の構造を理解するためには,上述のような視角が不可欠だといえるのではないだろうか。
 以上の点は,第1章第1節で展開されている,著者独自の炭田を単位とする炭鉱労資関係の類型設定への疑問とかかわっている。著者は,採炭機構と労働市場のあり方に規定されて,炭鉱労資関係は炭田別に個性的な展開を遂げたとされ,一先編成が採炭夫編成の基本となり,炭鉱密度が高くて労働移動の激しかった筑豊・常磐・唐津炭田(第一類型)と,共同採炭制が成立して小集団編成が採炭夫編成の基本となり,炭鉱密度が低くて労働移動が相対的に少なかった石狩・三池・西彼杵炭田(第二類型)とに,それを類型化されている。そして,第一類型では,切羽の分散のため作業組織の形成が困難であり,納屋頭・飯場頭が作業管理を補完することが多かったため,納屋頭・飯場頭の労資間の媒介機能が強固であり,労働条件をめぐる労資の対抗関係が労働移動を通じて解決されたため,争議が抑制され,納屋制度などが根強く存続したのに対して,第二類型では,作業組織の編成が容易であり,それを通して経営側による作業管理が強化されたため,納屋頭・飯場頭の媒介機能が脆弱になり,鉱夫の移動も少ないため,労資対抗が争議として発現する傾向が強く,納屋制度などが早期に廃止されたとされる。
 これだけ見事な類型設定は炭鉱史研究においてかつてないものであり,炭鉱に対する著者の深い認識を示すものである。ただ率直にいって評者はこの類型設定についてゆけない。
 両類型の採炭夫編成の差異の理由を,主に,各炭田の労働力の給源の事情から説明しながら,炭層の自然的条件から説明している箇所もあって理解しにくいこと,石狩炭田でも,筑豊同様な後山作業は珍しくなかったこと,また,石狩炭田で成立したと著者のいわれる共同採炭制は,第三章で説明されている,長壁式採炭法と採炭機械化により両大戦間期に形成された共同採炭制とはまったく異質なものであり,切羽労働の質や経営側による管理の強度が筑豊などと対比して類型化できるほど異なっていたか疑わしいと思えることなど,著者にお聞きしたいことがたくさんある。これらの点は認識の相違としてさておくとして,どうしてもひっかかるのは,著者の類型化では,同一炭田内の経営体間の労資関係の差異が十分に位置づけられないように思える点である。納屋制度・飯場制度から直轄制度への移行をとってみても,筑豊炭田でも石狩炭田でも経営体により相当の違いがあったことは,著者も指摘されている。炭田内の労資関係の差異よりも,炭田間のその差異の認識を優先させることで炭鉱労資関係の特質を把握し得ると著者が考えられる理由が,評者には判然としない。むしろ,著者が「資本家的炭鉱経営」と言われるものの内実とそこでの労資関係の差異を,各経営・各炭鉱ごとに問い直す作業を自覚的に進めていくことが必要なのではないだろうか。
 筑豊の納屋制度の展開過程は,第1章第2節で詳論されている。 1880年代後半からの近代的炭鉱業の勃興と炭鉱の規模拡大に促されて,1890年前後に納屋制度の一応の成立がみられ,日清戦後に棟梁と納屋頭の機能が分離して,固有の意味での納屋制度が成立したが,日清戦後の好況の下で移動の激化と鉱夫の争闘事件の続発により,納屋制度など間接的管理体制の限界も明白になり,1897年前後に主要経営で納屋制度の改革がなされ,一部の経営ではその廃止が断行されたが,そこでも世話役制度や「中間的存在」がおかれ,労資関係は納屋制度により枠づけられていたとされる。
 続く第3節では,労働過程・労働市場・労働力の再生産過程の分析を通して,産業革命期の筑豊の炭鉱労資関係の基礎過程が解明される。上記の三局面に即して,納屋頭が果たした機能の根拠が析出され,同時に,納屋制度の基盤が掘り崩されていく事情が説明されている。
 評者がとまどうのは,鉱夫の激しい労働移動と納屋制度との係わりの説明に明快さが欠けるように思える点である。日清戦後の激しい労働移動が,納屋制度の経済的基盤を揺るがすと同時に,鉱夫統轄を弛緩させ,納屋制度の改革と経営による労務管理施策の導入を促したとするここでの説明と,第1節での,一先編成で切羽設定が分散的なため納屋頭の媒介機能が強く,激しい労働移動を通じて労働条件の調整がなされ,争議が抑制されたので,納屋制度が存続したとする説明とが,どう整合的につながり得るのか理解できないでいる。激しい労働移動を抑制する機能が「暴力装置」たる納屋制度に期待されたという論理で著者はつなげているようだが,納屋制度下での労働移動の実態を見れば,このつなげ方が有効かどうか疑問を感じる。
 この点は,実は,著者の出された鉱夫のイメージヘのとまどいにかかわっている。著者は,第2章で突然,「鉱夫集団」という概念を持ち出され,産業革命期には,納屋頭などの親方的機能を軸に「親方子方的関係を結合原理とする鉱夫集団」が形成され,それが作業と鉱夫の統制を担うと共に,それぞれの「鉱夫集団」は「鉱夫世界」での勢力争いをしていたと主張されている。こうした「鉱夫集団」概念と,激しい労働移動の存在という認識とがはたして両立し得るのであろうか。以前評者も「鉱夫集団」という言葉を使ったが,それは,離合集散常なき鉱夫たちの間で共有された規範と行動・生活様式に着目して構成を試みた概念であり,著者のそれとは相当距離がある。
 第1章だけで本来与えられた紙幅がなくなってしまった。第2・3章はごく簡単に触れるにとどめざるを得ない。
 第2章では,まず第1節で,第一次大戦期の筑豊の炭鉱労資関係の基礎過程が産業革命期と対比されながら分析され,一先編成と採炭夫の大量投入という採炭労働の特質が維持されたものの,労働過程・労働市場・労働力の再生産過程の三局面で納屋制度の機能の低下が進んだとされる。第2節では,前節の分析をふまえて炭鉱米騒動が起こるにいたる諸要因と炭鉱米騒動自体に詳細な検討が加えられ,その労働争議的性格が強調され,さらに,鉱夫の「共同性」や「鉱夫集合の騒動性」といった社会史的タームを使って争議の騒動への転化が説明される。第3節では,炭鉱米騒動を機とする炭鉱労資関係の再編が,意思疎通・労資協調機関の組織化に焦点を当てて詳細に検討される。その組織化には,既存の組織を活用する方式と従業員団体を新たに組織する方式とがあったが,ともに「鉱夫間有力者」に依拠しつつ,全鉱夫を組織化したところに特徴があったとされる。
 炭鉱での意思疎通機関が従業員団体という組織になった理由について,著者もいろいろに説明されているが,この点に関しては,評者も論じているので,何らかのコメントをいただければありがたかった。一つだけ疑問を出させていただくと,著者は,人事係を,「中間管理者」,「鉱夫間有力者」として納屋頭と同様な存在と考えておられるようだが,それでよいのだろうか。納屋頭や鉱夫あがりの人事係がいたことは事実だが,親方子方的関係を鉱夫と取り結んでいた納屋頭と,軍人・警察,さらには博徒あがりも多くいた人事係とは本来異質な人々であり,また,人事係の性格は企業の性格や炭鉱の規模により相当異なっていたのではないだろうか。
 第3章では,第1節で,1920年代半ばを画期とする採炭過程の機械化の実態が鉱夫労役扶助規則改正問題と係わらせて詳細に分析され,その結果1930年代半ばには,第一・第二類型の間の地域的差異が縮小し,代わって,大手・中小間で類型的特質がみられるようになったとされる。第2節では,両大戦間期の炭鉱労資関係の基礎過程が,また詳細に検討され,この期に炭鉱のあり方が大きく変わったことがリアルに叙述されている。第3節では,1920年代の筑豊の労働組合運動の経過が追究され,1920年代半ばに労働組合の影響力が強まって多発した労働争議が,労資関係,労働組合運動双方のターニングポイントになったと主張され,第4節では,「満州事変」期の労働組合運動と労働争議が検討され,特に,1931年の「筑豊炭田争議」が,採炭機械化段階に対応した新しい労資関係の枠組み形成を促進したという点で,筑豊の炭鉱労資関係の分岐点になったと主張されている。そして,最後の第5節では,1920年代後半から1930年代半ばにかけて,納屋制度が廃止され,従業員団体や各種鉱夫・家族の組織による「小集団活動」,さらに福利施設の拡充を通して鉱夫の統合が深化したとされている。
 ここでの著者の主張の最大の特徴は,労働組合運動が労資関係へ与えた影響を重視していることにある。ただ,第一次大戦後の北海道の炭鉱労働組合が,友子の組織を介して炭鉱内部に影響力を持ったのに対して,筑豊の労働組合は,納屋頭などに圧迫されて,少数の活動家が炭鉱の外部で組織を維持していたことに特徴があった。この点の分析がないため,説得力が弱くなっているように思う。
 書評の性格を忘れて,評者の勝手な意見を書きすぎてしまった。それも,著者の議論との格闘を通して,自己の炭鉱史認識を鍛えたかったためである。本書は,炭鉱史研究の最高峰として,これから研究を志す者すべてがその踏破をめざす峰となるであろう。





九州大学出版会,1993年,A5版,448頁,7,725円

いちはら・ひろし 北海学園大学経済学部助教授

『大原社会問題研究所雑誌』第418号(1993年9月)




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