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『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版





草光俊雄・近藤和彦・斎藤修・松村高夫 編
        『英国をみる 歴史と社会』





評者: 平田 雅博




 本書は,14名の筆者・訳者による近現代イギリスの歴史と社会を扱う17編の論文・エッセイから構成され,内容は,(1)歴史学的知に関するもの,(2)社会史の諸局面に関するもの,に大別出来そうである。
 本書は雑誌なので,読者は気になる話題と筆者を求めて拾い読みすればよく,私もそうしたいのであるが,「書評」としては何らかの全体的なことにも触れざるを得ない。ところが,編者たちも認めるように,構成はバラバラである。しかし「全体」に触れている箇所がないわけではない。編者あとがきは,「全体としては比較史的観点がやや弱い」と述べているが,この観点から全体を論じている人はいないし,「弱い」のではなく「ない」のである。ミクロとミクロをつなぐものは比較しかないのに。また「素朴実証主義」や「上っ面ばかりなぞるイギリス研究」とは「ひと味」違う新たな「リアリズム」や「叙述」を示唆する論集とも言う。しかし,その差異は僅かであり,むしろ「これまでの英国研究」がなぜいかに「上っ面」なのか,具体例で批判してくれたほうが,どれほど読者たる多くの「上っ面」の人には有り難く,生産的なことか。
 今一箇所,近藤和彦「一日も早く文明開化の門に入らしめん」では,執筆者の「全体」のようなことに触れている。古典的パラダイムを無視せず,これを意識的・批判的に乗り越えようとする1980年代に現れた包括的な作品の中に,「柴田三千雄,川北稔,そしてこの『英国をみる』の執筆者たちの仕事のように」と自らをも入れている所である。本書への原稿執筆依頼をし忘れたひともいたという編者の再度の無責任な冗談ではなく,まずは言葉どおり責任ある発言と見なしておこう。柴田『近代世界と民衆運動』,川北『工業化の歴史的前提』の両作品をこのように評価することに賛成する人は多いかもしれないが,この「執筆者たち」はどうであろうか。かねてからその仕事を知る人は多くはなく,14名の方の全面的な検討に及ぶには時間が足りないので,柴田・川北両氏との違いにのみ触れ得るだけである。その最も大きな違いは,世界システム論的発想の有無や帝国史的枠組があるかどうかであろう。柴田・川北両氏の社会史は,世界システムや帝国とつながっている。一方,これらの執筆者の場合,本書で接する限り,多くは「包括的」とは言いがたいミクロな社会史であろう。川北氏の新著『民衆の大英帝国」(岩波書店)は,帝国史としての枠組を設定してはっきり理解出来る社会史のテーマの賑やかな見本市であり,氏は,この中でも,対外関係の観点が採用されていない点において,社会史はひどい状態にあり,社会史が硬直しがちな経済史,ないし社会経済史からの脱出の試みとするならば,「たんに国内のますます小さな集団に関心を集中させるだけで終わるべきではないし,その守備範囲を一国内の権力関係の分析に極限したりすべきでもない」と指摘している。ただし,私は,社会史自体がミクロだからだめだとか,社会史の試みがすべて世界システムや帝国とつながっていかなければならないというつもりもなく,ミクロの社会史とマクロの社会史があると言うだけである。
 もう一点但し書きすれば,これらの執筆者の中にも,マクロを意識する人がいないでもない。日本植民地支配史の研究もある松村氏は無論だが,「茶の世界史とコレラの世界史」とが,意外なところで,ないし病気・身体のレヴェルで交錯していたことを綴り,一服の清涼剤であった見市雅俊「コレラと飲酒と紅茶」は,世界システムや帝国に開かれた構えを取っているし,大野誠「ソサエティ・オヴ・アーツ前史」は,その末尾において,同団体会員が急増した時期とイギリス重商主義帝国が完成する七年戦争期と重なっていたことから,同団体の産業振興活動と重商主義戦争や七年戦争との関係,帝国史の契機の導入を今後の課題としている。この課題に期待するのは,科学の次元の導入を未来の帝国史家に期待するマッケンジーの指摘と呼応するからである。氏は,すぐれて議論の対象になることは,帝国支配は国内の社会・政治動態に全く影響がなかったかどうかであると挑発的に述べる。社会史,知の歴史,文化史の全領域にわたって無影響と語ることの説得力はありそうもないというのが結論だ。帝国史研究は,「益々小さな現象を益々事細かく知ること」から,より広いパースペクテイヴ,連関,解釈に歴史学を移行させて活性化する役割を担う。ただ,イギリスでこれを行うには旧態依然の制度(保守的で威嚇的な大学と学派,偏狭な雑誌編集者)のしがらみを断ち切らねばならない,とのことで,どこも事情は似たようなものだ。John M.Mackenzie ed,Imperialism and the Natural Warld ,1990.
 また荻野美穂「性の衛生学」は,伝染病法の登場から廃止への経緯の叙述を通じて,ヴィクトリア朝社会の性のありようを論じた,国内完結編としても極めて興味深いものである。病気とそれを治療する科学者による身体の管理の問題,イメージが現実の病気を凌ぐほどに増殖してしまう問題は,結核を扱った福田真人「病とそのイメージ」とともに(梅毒や結核は御しがたい怪物だったのであり,歴史家としては人類がこれらを克服したからといってすぐなじんでしまってはならないだろう),身体性や心性の問題として時代を病むことが出来る歴史家によって更に展開されるだろう。しかし,実は,なぜ伝染病法が「軍港」を対象としたか,と問題を設定しさえすれば,これほど帝国と関連するテーマもない。「軍港」は帝国に向かって開かれている。この問いから,植民地における「性的機会」「性的搾取」の問題として,性や身体というもっとも自己完結的でミクロな問題も世界史的に問うことが出来るのであり,実際かかる研究は既にある。R.Hyam,Empire and Sexuality ,1990.
 しかし,ただ対象を帝国に広く取ることだけが能ではない,「重要なことは言及される対象の広さではなく,観点が内包する射程距離そのものにある」(柴田氏)というのであれば,内なるコロニー,狂人とその収容所の問題を扱った松村高夫「『貧民狂人』とモラル・トリートメント」が光る。ただし,研究史とともに繰り返されるフーコー批判が気になった。フーコーは「歴史家」を自称したこともあり,個別問題の実証というレヴェルに引き入れてあれこれが間違っていると批判することも可能ではあるが,彼独自の壮大な知の歴史からすれば「歴史学」への評価は,それが19世紀の枠組に止まっていることで点が辛いものだったし,もう一つ,収容所の問題は狂人にとどまらず監獄,病院,学校といったものと束ねて問題が立てられたことに留意すべきで,フーコーの全面批判を意図するならば,より広い観点が必要であろうと思われる。
 社会史と並ぶ本書のテーマ歴史学的知についてはどうであろうか。近藤前掲論文は,1970年以後の歴史学的知の変動を指摘して,「歴史学の地平の認識論的拡大」とするが内実の説明はない。また,山口昌男氏が引用されながら,氏の提言はこの時期の「摸索ないし混迷」の証言としてしか見なされていないようである。山口氏はあの時,実証学としての歴史学自体を批判した(その破壊的な激しさは栗本慎一郎氏が 「実証は人類学におけるフイールドワークに当たるもので摩滅しない」と言ったほどであった)のと同時に,積極的な「歴史研究における認識論革命」「来るべき歴史学の研究者の資質」も提言していたことも忘れてはなるまい。いわく「人類学的眼差し」「歴史空間を象徴と神話的思考の中で再構築する運動」,また19世紀リアリズムは破産した,「20世紀の知的冒険」を取り入れよ,であった。あれから15年が経過して,若者は歴史学を選択しなくなるとの氏の予言は統計上不明だが,「新しい歴史学」は「楽しい知識」として,19世紀パラダイムと縁を切りつつ(I.Wallerstein,Unthinking Social Science ,l991),新展開を見せる一方,「古い歴史学」も,素朴感覚論と素朴実在論で何の支障もない限り,「20世紀の知的冒険」も全く関係無く,21世紀まで延命していく勢いである。
 草光俊雄「歴史は文学か科学か」が触れるイギリス社会史の進展は,これを担った顔ぶれから「歴史は文学か科学か」というより「歴史は文学でもあり科学でもある」ために多くの成果を生んだとしか言いようのないものである。氏は,事件と構造,叙述と構造分析の,緊張を孕んだ折り合いを具体例に即して論じたピータ―・パーク「歴史的叙述」(劇場や映画の考え方も取り入れよ,と最もラジカルなこのエッセイは「助っ人外人」と言うべきか)をどう読むのか。氏のトレヴェリアン再読の契機になったと言うキース・トマス『人間と自然界』の全体からすれば,トレヴェリアンの復権が意味を持つのは,文学・叙述の復活というより今日的な自然問題の先覚者としての彼に注目してであった。氏がその叙述の見事さに打たれたというセント・ジョンズ・カレッジの庭ならば,たまたま私もある歴史家に案内されて見た。われわれだけの静寂の中で私が聞いたことは,なぜこの庭は閉ざされているのか,この国の土地・自然政策,イギリスの美しい庭園や自然環境は植民地の破壊史に基づくものではないか,などであった。無論,美や叙述に感動しようが,庭を今日的なエコロジーのテキストとして読んでもいいわけだ。
 最後に,その今日のイギリスの問題は,この雑誌のタイトル『英国をみる』からして「見る」問題として重要であろう。勿論何を見ても自由なのだが,何が見えるか見えないかは議論になるかも知れない。本書ではあれこれ見たものを語る人も多いが触れられていないことのひとつは,今日のイギリスでどこへ行って何をしても見る非白人たちだ。「黒人はイギリス社会史のinvisibleな人間だ」と語った歴史家がいたように,歴史として(いや今日でも)見えないこともある。






『歴史と社会』通巻第11号,1991年,リブロポート,306頁

ひらた・まさひろ 愛媛大学法文学部助教授

『大原社会問題研究所雑誌』第398号(1992年1月)



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