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『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版



佐々木一郎・野原光・元島邦夫 著
        『働きすぎ社会の人間学』



評者:平井 陽一


 労働組合が組合員にとって魅力のとぼしいものになったといわれて久しい。とくに民間大企業の労組についてはそうである。そこでここ数年来,組合機能を活性化させるための試みがいろいろと模索され議論されている。制度・政策をプランし実現させる機能を重視するものから,労働者自主福祉運動など地域生活圏での活動にもエネルギーを費やすべきだと組合機能に多様性を求めたものまで様々である。
 ところで,ここにとりあげる本は大枠ではこれらの流れに属するものであるが,組合機能の活性化を直接にもとめるのではない。とりあえずは労働組合の存在を視野の外におくかたちで,企業人間がもつ価値観の転換をはかる回路を説いている。この点でユニークである。その回路は,企業人間が経験する余暇や地域活動にあるとする。以下,この本が主張する回路についてみてみよう。なお,この本は京浜地区の製鉄,電気および中京地区の自動車といった民間大企業の労働者におこなったアンケート調査や面接調査の成果をふまえて書かれている。その意味でここでの主張は説得的である。
 さて,元島氏は働きすぎの民間大企業労働者にみられる彼らの基本的志向をまずはつぎのようにとらえている。つまり,彼らは「企業社会」のなかで時間と空間を規制され,たえずまちがいのない処理をもとめつづけられており,強制され,緊張を強いられている生活リズムから自分を解き放ちたいと考えていると。そこで余暇やスポーツに費す月に2日から3日の楽しみの日,また年3回ていどの短期休暇には自分の選好によって時間を使い,「企業社会」からはひとときは自立した生活を設定している。なるほどそれらの労働者はまだ全体の20%弱にすぎないとはいえ,彼らには趣味を通して企業論理が支配する空間とはことなる社会的な行動空間をひろげていこうとする志向が生まれつつある。このようなゆとりと楽しみへの志向が生活における文化形成となり,そのことが「企業社会」に埋没するのではなく,「企業社会」の内でも外でも企業と自己とをバランスさせながら生きてゆく基本的志向を労働者にもたらしているとする。このような認識のうえにたって氏は新しい運動展開の突破口をつぎのように考える。第一に,まずはそのように自己の仕事を相対化して意味づけること。第二は余暇を保障させる労働時間の短縮。第三に労働者生活を充実させる住宅問題をあげている。これらの三点は突破口という言葉の響きがもつほど大げさなものではない。いずれも労働者にとって身近な問題である。が,氏は大企業労働者は「企業社会」の変革そのものにむかう前に,当面は地域における生活とらえ直しの運動に参加するかたちで新しい運動をになうことが大切だとしている。
 つづいて野原論文について。氏は,たとえ生産性が下がったとしても,労働のあり方をより人間的なものに編成替えすることの方が重要であるとスタンスを定めたうえで,大企業労働者が豊かな私的市民生活にふれることの重要さをつぎのように説いている。いま大企業労働者は「企業社会」の文化に包囲されてしまっているけれども,職場生活の外でそれと異質の文化に触れ,私的市民生活のうちで豊かな内容を獲得するならば,そのことが「企業社会」の価値感が労働者の職場をこえた生活の隅々にまで浸透することへの歯止めとなり,職場の現状批判への基準になり,かつまた職場での自分たちの要求のあまりに小さいことへの反省のきっかけにもなるであろうと。そして,この意味で職場外での私的市民生活の職場生活の変革にとってもつ意味はきわめて大きいとする。重ねてさらに氏はこうも言う。大企業の職場生活の最深部に絶えず再生してくる,ほとんど「うめき」ともいうべき,こうした人間的諸要素にたいして,なにが援軍となるであろうかと自問し,それは職場生活の外で現実に自由時間の果たしている役割であるとする。労働者と家族が,市民生活,地域生活のうちで「企業社会」の価値観とはまったく異なった価値観に支えられた生活文化に触れ,そこから職場に再生する,しかしともするとふみつぶされてしまう人間的諸要素を育てていく勇気と確信をあたえられること,このことが重要であろうと。以上が両氏の主張のポイントである(佐々木論文の主張説明は略)。
 このように余暇時間の活用が,特に働きすぎの民間大企業労働者が企業社会から自立しようとするとき,その起点であるとする着想はうなずける。たしかに企業社会の喧騒のなかにとじこめられている労働者の意識をときほぐすのに有効であろう。しかしつぎのような疑問も同時にわきあがってくる。第一に,これまでも余暇や地域での活動をふまえ労働者意識の多様化,とくに青年労働者を中心とした仕事と自分の生活を割り切る私生活主義の広がりが着目されている。いまなぜあらためて余暇や地域での活動が重視されるのか。第二に,仕事と余暇を明確にわり切って考える私生活主義の人々にとってよしんば地域活動の空気にふれその良さを知りえたとしても,企業に批判の目をむけることができるのだろうか。彼らの生活信条が私生活主義であるがゆえに疑問である。
 第三に,余暇や地域活動へのエネルギー投入がたしかに労働者の視野をひろげ,活力を増大させることになっても,その視野のひろがりや活力をどのようにして資本が専制する労働の世界へもちこめるのか。その回路が不明である。野原氏は「組織と運動の大方針」を「援軍」としてあげている。なるほどそのとおりなのではあるが,それではこれまでの新鮮な発想の文脈からいきなり古典の世界におくりだされたような気持ちにさせられてしまう。
 さいごに,「労働の人間化」やQWL運動との関係ではどうなるのだろうかという疑問が生じる。日本の企業がおこなっている小集団活動は,スウェーデンのボルボ社などがすすめている「労働の人間化」運動とはかなりちがったものではあるが,基本的な性格は同じであろう。その場合大企業労働者が余暇や地域活動なりで「本来的な人間活動を求める欲求」をもちえたとしても,ひとたび効率的な生産遂行を第一義とする企業社会に入りこめば,その欲求は企業が用意する「人間的な労働」に容易に吸収されてしまうのではなかろうか。ただし,この場合「労働の人間化」運動を逆手にとってきわどい経営権の蚕食運動に転化するような意識と試みがあれば事態は別と思えるのだが。
 ともあれ「資本の覇権の確立したかにみえる今日の大企業職場」において,「人間はどっこい,生きている」姿に視点を定めた本書の調査の提言は,馬車馬のごとく働くことへの反省がもとめられている今日とても貴重であるし,組合機能の活性化にも多くの示唆をあたえているのである。





労働旬報社,1988年3月,1,500円

ひらい・よういち 法政大学大原社会問題研究所兼任研究員

『大原社会問題研究所雑誌』第359号(1988年10月)



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