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『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版


藤本 武 著
        『資本主義と労働者階級』



評者:舟橋 尚道



はじめに

 昭和23年に大原社会問題研究所に入った私は,専門分野として「賃金論」を選んだ。労働問題の中で賃金がもっとも中心的な課題だと考えたからである。研究を始めて困ったのは,戦前に書かれた適当な参考文献が見当らないことであった。しかし,雑誌には,賃金問題をとりあげた論文がぼつぼつと発表されるようになり,そのうち活発になった労働組合の賃金闘争と関連して労働力の価値についての論争がさかんに行われるようになった。このような論壇の動向は,研究をはじめたばかりの私にとって大きな刺激となったが,なかでも永野順造,藤本武,氏原正治郎の各氏の諸論文からは教えられることがきわめて多かった。
 藤本武氏は,労働力の価値(最低賃金)について論文を発表されたが論争には加わらず,ひたすら我が道を行くという姿勢に終始され,その成果は東洋書館の「賃金」に結実した。その後,氏の研究は最低生活費と最低賃金論にむかい,「最低生活費の研究」(労働科学研究所出版部),「最低賃銀基準論」(労働文化社)などが発表された。これらの書物は最低生活費研究における最高峰であり,私のような後進の研究者にとってはこの上もない導きの糸であった。
 しかしなんといっても大きな業績として評価できるのは,「最低賃金制度の研究」(日本評論社)である。戦後の労働運動において最低賃金制は,大きな論争課題であった。とくに永野氏の「全国一律最低賃金制」の主張は,労働組合に大きな影響を与え,その見解は今日にいたるまでしぶとく存在しつゞけている。藤本氏はこのような論争の渦中に身をおかず,各国における最低賃金制の発展の歴史とその実体を克明に分析されることに全エネルギーを集中された。
 このように氏の学風は,あくまでも地道に精細な実際的研究を行うところにあり,それゆえにこそ理論的立場のちがいを越えて多くの研究者に影響を与えたのである。また氏の学問的姿勢は,その人格的本質と不可分のものだったように思われる。すなわち氏の人格は,あくまでも謙虚であることに最大の特質があり,私たちのような後輩が生意気な主張をしてもつねに,にこにこときいていたゞいた。後輩を頭ごなしに叱るなどということはかって一度もなかった。このような幅の広い受容性があったからこそ,社会政策学会の総会では必ず議長に選挙されることになったのである。
 ところでこのたび氏は,「資本主義と労働者階級(イギリスにおける貧乏小史)」という大著を発表された。氏の年齢が今年74歳であることを考えると,よくぞこれだけの仕事をまとめられたものだという感懐にとらわれざるをえない。今の私の気持ちとしては,この書物を批評するというよりは,むしろそれの積極的意義を明らかにすることに重点をおくべきだと感じており,それが長い間の氏の学恩にむくいる道であるとも思うのである。

1 本書の内容

 本書は,産業革命からサッチャー政権の現在にいたる約200年間のイギリスの貧乏の歴史を明らかにしたものである。全体は5章に区分されているが,第1章では「産業革命と貧困」がとりあげられる。この時期における貧困の分析は,労働問題研究の原点ともいうべきものであり,きわめて重要な意義をもつものであるが,氏はまず農村における貧窮の蓄積をとりあげ,ついで都市人口の急激な増加,アイルランド人の流入,機械の採用による労働条件の悪化,賃金,実質賃金の低下,失業の発生,住居その他消費生活の悪化とそれにもとづく健康状態が克明に分析される。このようにとりあげられた項目は,密接な論理的関連をもっており,これによって産業革命期における労働者状態の全体像がくっきりと示される。
 第2章は「産業資本主義段階における貧乏」をとり扱っている。産業革命を終えたイギリスは,繁栄を謳歌したのであるが,労働者の生活状態にはあまり変化がみられなかった。 1852年から職業別組合の発展がみられ,熟練労働者の賃金は改善をみたが,不熟練労働者の組織化は1880年代の終り頃からであり,熟練,不熟練の賃金格差は拡大した。 19世紀末から20世紀始めにかけてブースのロンドン調査とロウントリーのヨーク市の調査が発表され,イギリス社会における貧乏問題の関心を高めた。これらの調査はいずれも人口の30%前後のものが貧乏水準にあることを示したのである。
 第3章では「独占資本主義初期の貧乏」,つゞいて第4章では「資本主義の全般的危機と貧乏」が分析される。まず1900年頃から独占価格による物価の上昇が生まれ,第一次大戦直前にかけて実質賃金が低下した。またテイラー主義など近代的労務管理の導入にともなって労働災害が増加し,失業率も高まっている。他方において労働組合の発展を背景に労働党が発足し,1906年政権についた自由党は,賃金局法(最低賃金制),国民保険法などの社会政策を実施してゆく。 1914年第1次世界大戦がはじまり,婦人,青少年者の労働保護の一時的停止,労働時間の延長,労働災害の増加,実質賃金の低下などが生じた。
 この時期における最大の問題は,慢性的失業の発生であり,20年代は平均して10%以上の失業率を示し,労働者階級の状態は全体として悪化した。数々の貧困調査によると,同じ基準を用いたときには,戦前あるいは1900年頃に比べて貧困世帯が減少していることは否定できない。
 第2次大戦においては多数の婦人が労働市場に動員された。労働時間の延長,労働災害の増加,物価の上昇にもとづく実質賃金は低下したが,実質稼得については残業や短時間就業の解消などで若干の上昇が生じた。しかし消費生活については,住宅状態の悪化や衣服,生活用品の欠乏が広まった。
 第5章「国家独占資本主義と貧乏」は,第2次大戦後の貧乏問題をとりあげた部分である。ここではまず戦後イギリスの経済と社会の特質が明らかにされ,ついで戦後の新社会保障制度の内容を紹介する。そのような制度的条件のもとで賃金その他の労働条件がどうなったか,また失業の実態はどのようなものかが細かく追求され,最後に住宅問題を含めた消費生活の実態が分析される。
 この章の終りの部分では,1979年のサッチャー政権の成立後の新しい動きに焦点をあてゝ考察している。この政権は,戦後のケインズ,ベヴァリッジ体制をマネタリズムの見地から大改革を強行しようとするものであった。 1980〜82年の恐慌期においては,政府の関心が物価の沈静化におかれて,失業対策はこの次であったため,失業者は公表で300万をこえた。サッチャーは労働組合に対する改悪を強め,雇用法は80年と82年の2回にわたって改悪された。さらに軍事費以外の公共支出が削減され,社会保障費もカットされている。労働者の実質賃金の低下と合わせて,国民生活の水準は全体的に低下しているといってよい。

2 本書の特質

 本書の特質の第1は,一国における労働者階級の生活状態を200年にわたって継続的に追求した点にある。長期にわたる資本主義の発展のなかで労働者の生活水準がどう変化したかという研究は,私の知るかぎり本書だけではないかと思う。
 たとえばユルゲン・クチンスキーの「労働者状態の理論」は,生活状態について歴史的考察をこゝろみたものであるが,その考察の時期は20世紀の始めまでであり,第2次大戦後はとりあげられていない。労働者状態の変化が顕著にあらわれたのは第2次大戦後であるから,そこまで視野にいれないと研究の今日的意義からいって不充分である。
 長期にわたる歴史的研究は,われわれにさまざまの理論的分析の視点を提供してくれる。たとえば労働組合や社会政策の発展などの制度的要因が,生活水準にどういう影響を与えるかといった問題も,歴史的に考察することによってはじめて明らかにすることができるであろう。本書においてはこの点について随所に指摘されているので,それを基礎としてこの問題に限定してさらに研究を発展させることが可能だと思わせる。
 さらに本書において興味があるのは,イギリスにおいて昔から行われてきた重要な貧困調査をもれなくとりあげ,相互に比較している点である。たとえば19世紀末におけるロウントリーのヨーク市の調査では,貧乏を第1次貧乏と第2次貧乏に区分し,単なる肉体的能率を維持するに足りる必要生活費(貧乏線)なるものを算定し,それを下回るものは第1次貧乏と呼んでいる。単なる肉体的能率を維持するに足る家庭は第2次貧乏と呼ばれる。ところでこの貧乏線は,飲食物費については新鮮な肉は一切含まれず,被服費もあるべきミニマムを割ったみじめすぎるものであるが,ヨーク市の総人口にたいして27.8%がこの貧乏水準にあった。
 ロウントリーは,1914年に,このような貧乏線とちがった「労働の人間的必要費」について算定した(たとえば男子では蛋白質115グラムをみたす献立をつくった)。かれはこれを用いて,最低賃金制と家族手当制の組み合せによって最低生活費の確保を念願したのであるが,1906年の賃金調査によると,この貧乏線にみたない労働者の比率は,男子で半分に近く,1914年においてもその後は変化していない。すなわち貧乏層の比重は1899年の旧貧乏層の割合をはるかに上回ることになると氏は指摘される。
 ロウントリーは,1936年に第2回目の調査を行うが,この場合の貧困測定の基準は1899年の貧乏線ではなく,「健康と労働能力を維持するための,最低消費食料」を採用した。この新しい基準をみたさない貧困者は,労働者の31.1%,総人口の17.7%を占める。また第1次貧乏層を別に測定しているが,総人口中の割合は3.9%で以前の9.9%の半減以下になった。藤本氏は40年近く経過して生活様式が相当変化しているのに同じ基準を用いている点には疑問があると述べる。
 ロウントリーの第3回目の調査は,1950年にヨーク市で行われたが,これによると36年の基準にみたない貧困層は,17.7%だったものがわずか1.66%に減少したことになっている。これに対して藤本氏は,最低生活費の算定について問題があることを詳細に批判し,1936年と単純に比較するのは誤りだと述べる。このような指摘のするどさは,最低生活費研究の第1人者ならではのものと思われる。
 24年にわたる長期間におけるイギリス国民の生活水準の推移を分析するにあたって氏が援用された文献は膨大なものである。これらの文献を短期間に読破することは到底困難であり,長期にわたる研究の蓄積の成果が本書だといってよいと思われる。氏が参考にされた文献は決して同じ思想傾向のものに限定されているわけではなく,きわめて多彩である。氏の見解とは異なった内容の資料であっても正確に紹介されており,それが誤りだと思われるときには慎重で適確な批判が加えられている。
 本書の特質の第2は,生活水準の分析にあたってきわめて多面的な要因が総合的に指摘されていることである。賃金とその他の労働条件(労働時間,休暇,労働賃金など)がとりあげられる他に消費支出,、食料と栄養,住宅,教育,犯罪等が分析の対象となっている。まず賃金と労働条件は密接不可分なものであることはいうまでもない。たとえ賃金が若干高かったとしても労働時間が長かったり,労働密度が大きかったりすれば帳消しになってしまうからである。また生活水準の質を分析するためには消費支出の中味の分析や,栄養状態,さらには住宅条件などを明らかにする必要がある。なかでも住宅は,生活水準の質を示す重要なバロメーターと考えてよいのである。
 氏が本書のはじめの部分で述べているようにイギリスの産業革命期における国民の生活水準が上昇したと考える楽観論者は(たとえばアシュトンやハートウエル)は,生活水準をもっぱら実質賃金や消費物資などの物質的な生活資料にかゝわらせてのみ解釈しており,生活水準を示す多面的な要因を無視しているのであるが,これでは科学的な分析は不可能だといってよい。氏のように,多面的な要因を総合的に分析することによってはじめて生活水準を正しく把握できるのである。
 さらに氏の方法論において重要だと思われるのは,賃金や消費水準などを単に平均としてとらえるのではなく,不熟練労働者,家内労働者,婦人労働者,移入民労働者などの下積み労働者をとくに注目している点がある。生活水準を単に平均として把握すると格差の構造がかくれてしまい,社会に実在する貧困を見逃してしまうことにならざるをえないからである。このような分析の視角は,国民の生活水準が上昇したといわれているわが国の問題を研究する場合も忘れてはならないことだといってよいであろう。
 本書の特質の第3は,あくまでも客観的な事実を重視した実証的な方法を貫いていることである。しかしその場合,文献に示された統計や資料を鵜呑にするのではなく,他の資料と比較検討することによって批判的に利用することに留意している。また貧乏を主題にしているからといって,それを主観的に強調しすぎることは極力避けており,生活水準が上昇したとみられる時期には明確にそのことを指摘している。このように氏が事実に対して忠実であることが,本書の説得力を高めるのに役立っている。
 貧乏の研究は,経済学を中心とした社会科学の一つの原点となるものである。社会に現存する貧乏を的確に把握し,それを克服する方策を検討することが社会科学の重要な任務の一つであることはいうまでもない。その意味において本書のような系統的な貧乏の研究は,社会科学の発展にとって大きな寄与を果すことは疑いないといってよいのである。





法律文化社,1985年4月,451ページ,7,000円

ふなはし・なおみち 法政大学法学部教授・大原社会問題研究所兼担研究員

『大原社会問題研究所雑誌』第330号(1986年5月)



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