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『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版




佐藤慶幸・天野正子・那須壽編著
『女性たちの生活者運動──生活クラブを支える人びと



評者:浅野 富美枝



 本書は,生活クラブ生協にかんする共同研究『女性たちの生活ネットワーク──生活クラブに集う人びと』(文真堂,1988年)の続編であり,次の三部から構成されている。
第一部 女性たちの生活者運動
 I章 「生活者」概念の系譜と展望
 II章 「私と生活クラブ」―─シンポジウムの記録(1992年3月16日)──
 III章 主婦概念を超える女性たち
 IV章 「主婦」から「全日制市民」そして「生活者」としての「女性」ヘ──「女性で政治を変える」から「女性が政治を変える」への転換―─
第二部 生活クラブを支える人びと──専従職員の意識と行動――
 V章 生協運動の発展と専従職員労働──生活クラブ生協神奈川を事例として─―
 VI章 社会運動と雇用運動の間で─―生活クラブ生協専従職員の労働意識──
 VII章 世代別労働観─―組合員に対する役割観と組織に対する意識──
 VIII章 女性職員からみた専従労働と生協運動─―フェミニズムの視点からみた専従労働と生協運動──
第三部 生活クラブを離れていった人びと
 IX章 離脱者問題に寄せて─―生活クラブを離れていった人びと──
 X章 「離脱者」からみた生活クラブ生協の組織と労働─―若手職員の中途退職プロセスをめぐって──

 この構成からもわかるように,本書は生活クラブ生協の運動を,まず第一に女性たちによる生活者運動(=生活のオルタナティブを創造する運動)として,第二にその運動を支える専従職員(生協労働者)による労働のオルタナティブを創造する運動として,そして第三にこれを全体として生産・労働と生活の新しい関係を創造し,かつ地域共同体を再建する運動としてとらえ,その視点から生協運動とその組織の現状と課題を研究したものである。
 本書は,同様のテーマを扱った他の書と比べ,二つの注目すべき特徴をもっている。第一はフェミニズムの視点を導入したことであり,第二は,生協運動の理念と現状に見られるポジティブな側面と同時に,現実の運動が抱えるネガティブな側面にも率直に目を向けていることである。
 第二の点についてまず一言しておくと,専従職員の無権利状態や劣悪な労働条件,さらには理念からかけ離れた非民主主義的な組織運営といったような問題は,たんに生活クラブだけの問題ではなく,労働組合や政党,その他さまざまな運動団体が多かれ少なかれ抱えている問題である。生協運動に即して言えば,私企業との競争や,資本主義社会における協同組合の法的・経済的な不安定性と無関係ではなく,その意味で今日の資本主義社会を必然的に反映した問題である。しかしそこには,そういった外在的な問題のほかに,社会変革を目指す運動と組織が克服しなければならない内在的な問題が孕まれている(たとえば専従者の労働条件や,運動の草創期の担い手と運動が軌道に乗り作業がルーチン化した後の担い手とのあいだの意識のギャップなど)。これは,現存する(あるいは現存した)社会主義諸国が社会主義建設の途上で直面したであろうし,またそれにもかかわらず十分解決しきれなかった問題,つまり非資本主義的な労働組織や労働のあり方を創造するという課題と結びついたすぐれて普遍的な問題である。
 しかしこういった問題はこれまで,内部問題としてその運動体の内部で検討されることはあっても,正面切って社会科学の研究対象とされることはほとんどなかった。本書でもたとえば生協職員の労働組合についての考察などは取り扱われてはおらず,その意味では限界をもっているが,しかし,第三部で「生活クラブを離れていった人びと」を真正面から取り扱っていることに見られるように,組織のもつネガティブな側面を大胆・率直に検討の対象としていることは注目すべきことである。この点についての立ち入った論評は,評者の専門領域からはずれるのでさし控えたいが,運動の新たな地平を切り開くには,他の運動体にも同様の研究が必要だと評者は考える。

 ところで,本書の主要なポイントはタイ卜レが示すように,むしろ第一の点,フェミニズムの視点からみた生協運動の考察にあると思われる。そこで本稿では以下,この点に絞って考察することにしたい。
 フェミニズムの視点の導入とは,具体的には,その担い手が女性であることを問うことである。つまり,運動の担い手が女性であるということは運動にどのような性格と意味をもたらしたのか,またその運動の担い手となることは女性自身にとってどのような性格と意味をもたらしたのかという問題として,生協運動を考察することである。運動主体の考察は社会運動研究の基本であるが,そのさい主体の性(ジェンダー)が問われることはこれまでほとんどなかった。しかし,性別役割分業が現代社会の構造に深く組みこまれていることを考えるならば,このことはフェミニズムを離れて考えてもやはり重大な失点だったと言わざるをえない。
 周知のように,生活クラブ生協の担い手の圧倒的多数は,核家族で高収入の都市サラリーマンの妻で,時間的にも経済的にも比較的余裕のある子育て後半期にある高学歴の活動的な「専業および兼業主婦」である。主婦といえぼ,かつては公的な職業をもたず,ただひたすら「家事という私的労役」にあけくれる女性のことであった。その女性たちが,「個人の生き方を問い,生産や消費のあり方を問い,環境問題を主題化し,政治のあり方を変えるために代理人運動を行ない,新しい働き方としてのワーカーズコレクティブを形成し,フェミニズムの視点から生協の運営のあり方を問題にし,さらに国際的な連帯関係を発展させるなどしてきた」一方で,それらの運動をつうじて彼女たち自身,受動的な消費生活者から生活主体へ,さらには労働主体や政治主体へと自己変革を遂げ,従来の主婦概念を大きく超えた変革主体へと発展していったのである。
 以上のような経過をふまえ,本書では,運動主体が女性であるということの意味と並んで,生活の場からの変革主体形成が論じられている。これまでは変革主体と言えば労働主体のことであり,生活者が変革主体として論じられることはめったになかった。生活者とは消費者であって,社会変革に対してはあくまでも受動的な存在と考えられていたからである。もとより,労働や社会から完全に切り離された生活者は,変革主体にはなりえない。それどころかそうした生活者は,部分的な生活者にとどまらざるをえず,自立した生活者主体にもなりえないだろう。この部分的生活者が自立した生活者主体たろうとしたとき,これまでの生活者概念を超えた新しい生活者が生まれる。しかしそのためには,生活者は社会や労働とつながる回路をみいださなければならないだけでなく,同時に生活領域に腰を据え,生活領域が抱える問題をたえず膚で感じとれなければならない。男も女も性別役割分業システムによって社会的に規定され,男は生産領域へ,女は生活領域へ配分されているわが国では,それにもっとも近いところにいるのは,女性とりわけ「主婦」と呼ばれる女性である。これは,たとえば企業戦士が生活領域に腰を据えるのと,「主婦」が社会や労働とつながりをもつのとどちらが容易かを考えてみれば明らかであろう。

 しかも女性が囲いこまれている生活領域には,女性だけでなく,産業社会で周辺化された高齢者・子ども・障害者といった弱者が囲いこまれており,産業社会で周辺化された多様な問題がうずまいている。こうした周辺に追いやられた人々のケア・ワーカーとして,またそこにうずまく諸問題の言わば私的処理部隊として生活領域に送りこまれた女性たちは,日々これらの問題と直面し,その解決を迫られている。それらの問題と本格的に取り組もうとすれば,当然のことながら,部分的私的生活領域内部にとどまっていることはできない。そんな彼女たちがそれらの問題の代弁者となり,消費者運動に始まった生活者運動を,ワーカーズ・コレクティブ,環境保全運動,代理人運動(地方議会へ自分たちの代表を議員として送る運動),そして最近では福祉生協運動へと発展させてきたのは,こうした経過をみるならば必然的でさえある。性別役割分業と企業社会の融合によって産業社会の中枢から排除された存在であるがゆえに,「主婦」たちは生活者運動の担い手になり,また生活の場からの変革主体になりえたとも言える状況がここにはみられる。

 ところで,こうした新しい変革主体形成の道を切り開いた女性たちが「専業」であれ「兼業」であれ「主婦」であったということは,生活者運動が性別役割分業と現存の企業社会を前提としているということである。しかし,生活と労働を分断している張本人の性別役割分業と企業社会を前提として,生活者として自立すること,生活の場からの変革主体になることは可能なのだろうか。
 この点について編著者たちは,性別役割分業がこの運動の前提になっていること,そしてまさにその性別役割分業が運動の発展の重要な契機であり,同時にそれが運動の制約となっていることを認めている。しかし編著者たちは,それを弱点とみなしているのではない。運動のさらなる発展の契機とみなしているのである。たとえば編著者の一人,佐藤慶幸氏はそのことを次のように語っている。
 「男ではなく,なぜ女なのかを問うことは,現代日本社会での男と女の社会的被規定性のありようを問うことである。その社会的被規定性のゆえに,女にしかできない生活者運動は,それが女性運動であることが意識されることで,かえって女性だけの運動の制約性が乗り越えられるのではないか。」
 「彼女たちは性別役割分業体制を逆手にとることによってそれを乗り越え,男を家庭に地域に呼び戻すことによって男女共生社会をつくることを目指しているとも読み取れるのである」。
 ここで佐藤氏は,主婦たちによる生活者運動を性別役割分業の体制内運動として,資本主義社会の体制内運動としての賃労働者による労働運動および労働組合運動と同様に位置づけようとしているように思われる。これは,資本主義が資本主義を乗りこえる主体をうみだしたように,性別役割分業と資本主義との融合体は,性別役割分業を乗りこえる主体をその内部にうみだすと言い換えてもいいかもしれない。
 生活者主体たろうとして性別役割分業に突きあたり,これを超えなければめざす主体になりえないことに気づく。このようにして生活者運動は,従来から性別役割分業を問題にしていたフェミニズムと遭遇する。しかし編著者たちの指摘にもあるように,フェミニズムの視点は生活者運動の内部から自然発生的に生まれたのではない。生活者運動の発展のある段階で,その外部に存在していたフェミニズムに出会ったのである。そこには,かつての母親運動とウーマン・リブとのあいだのような確執はみられないが,生活者運動とフェミニズムのあいだにはやはり一つの大きな壁がある。この壁は,階級意識と労働者意識が違うように,フェミニズムの意識と生活者意識が異なるレベルに属していることに関係しているのではないか。これは,今日の我が国でフェミニズムがブームにはなってもなかなか生活の奥深くにまで根づかないこととも関係しており,フェミニズムにとっても重要な問題だと思われる。この点についての追求は本書でも十分とは言えないが,これはフェミニズム運動と生活者運動の双方の側がそれぞれの立場から深めなければならない課題であろう。

 今日の生活者運動は,性別役割分業を前提としている点で制約をもち,社会運動として部分的運動にとどまる。しかし考えてみれば,現代社会では,労働者も生活者も部分的存在でしかありえず,100%の自立者,100%の変革主体たることは難しい。社会運動にしてもそうで,労働運動だけで企業社会を乗りこえることはできないし,教育運動や環境保全運動にしても同様である。すべての運動が運動の成立基盤にもとづく制約をもっているのであって,その制約を超えるには,運動のレベルを質的に高めることと同時に,そうした運動のネットワークが必要となる。生活者運動がネットワークづくりを促進し大きな成果をおさめていることは,この運動がみずからの運動の制約を自覚していることと無関係ではあるまい。
 生活者運動はこのようにみずからの制約をステップとして新たな方向を見いだす。政治を生活の道具ととらえ,この道具を使いこなすために自分たちの代表を議会へ送るという代理人運動も,そうした視点からうまれた運動の一つであろう。編著者たちは,こうした代理人運動が地域における住民自治能力を必然的に高め,ひいては地域社会を超えて日本社会のあり様をも変革していくことになると考えている。保守の多様化が花盛りの一方で,革新の多様化は,市民運動レベルでは見られるのに,政治レベル,とりわけ国政レベルではまことに貧弱なかぎりである。そのようななかで,代理人運動は地方自治体レベルではあるが,貴重な政治主体形成運動と言えるだろう。
 代理人運動にかんして評者は論ずるだけの十分なデータをもっていないが,本書を読んで今後の課題として検討する必要があると感じたのは,代理人の位置づけである。代理人運動では代理人(議員)は「生活者ネットにより専任された専従者として役割を分担するもの」と位置づけられている。このような位置づけそのものについては異論はないし,政治が生きるための道具だということもそのとおりであろう。問題は,主体である生活者と道具である政治とを媒介するのが,ほかならぬ主体と同じ人間(代理人)だということである。ここには,生協という生活者の道具である組織で働く専従職員と同様の問題が存在している。そして本書第二部に見られるように,専従職員労働者をめぐる問題は山積しているのである。組合員主婦が生協専従になろうとしないのは,「主婦」という立場に執着があるばかりではあるまい。おそらく彼女たちはそこに,生活者とは異質な要素,「用具」的要素が現実問題として存在することを感じているのではないだろうか。そうでなければ,ワーカーズコレクティブなど次々と新しいことにチャレンジしていく彼女たちのなかから,もっと専従職員が出現し,そこから生き生きとした新しい専従職員像が生まれてもよいはずである(なおこの問題と関連して,本書に生協パート労働者の考察がなかったのが気にかかった)。政治や組織を動かすのが人間である以上,そこで働く人間をも主体とする視点が運動のどこかで獲得されなければならない。そうでなければ,人間やその生活を道具にしている現代の国家や資本主義と同じ論理を,生活者運動は自分たちのなかに逆の形ではらんでしまうのではないか。この点は代理人運動や生活者運動にかぎらず,すべての社会運動の課題であろう。
 ともあれ本書は全体として,労働主体であることが前提とされた従来の変革主体形成論とは異なるきわめて示唆に富んだ変革主体形成論となっている。生活者運動研究の継続と一層の発展を期待したい。



マルジュ社,1995年4月,389頁,2,800円

あさの・ふみえ 大月短期大学非常勤講師/法政大学大原社会問題研究所嘱託研究員

『大原社会問題研究所雑誌』第445号



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