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『大原社会問題研究所雑誌』書評欄オンライン版


山本吉人著
『労働委員会命令と司法審査』



評者:秋田 成就


 本書は,1992年11月30日に刊行されており,現在では,すでに相当の日時が経過した,少なくとも労働法の専門学者や労働委員会関係行政の実務に関与している方々は,このテーマについての必読の文献として,本書に目を通し終わられたと思われる。また,本書について,菅野和夫(ジュリスト1020号,1993. 4. 1), 中山和久(季刊労働法167号,1993,6.10)両教授の詳細かつ適切な書評が発表されており,そこで述べられている本書の評価については筆者も全く同感であり,ほとんど付言することはない。要するに,ここにあらためて書評と銘打って一文を草する必要を見出し難いのであるが,本誌の読者には必ずしも労働法とりわけ不当労働行為制度についての専門的な知識または関心を持たれていない方もあろうかと推測するので,本書の紹介かたがた感想を述べたい。本書のテーマのもつ意義は,労働委員会と裁判所との,すでに長年にわたり,かつ,ますます深刻化する「葛藤(かっとう)」の歴史を背景にして考察することが必要である。
 筆者はたまたま著者と職場的環境を共有してきた。即ち筆者と山本教授は,(少し前まで)同じ大学の同僚として共同研究の場を持ち,またともに地労委(所属は異なるが)の公益委員として長年,共通に当面する不当労働行為行政の実務上の難問にとり組んできた。筆者はそこから多くの労働法上の問題点について実に多くの示唆を得ることができた。著者は自ら言う「二足の草鞋」の多忙にもかかわらず,本書での土台となっている論稿をこまめに発表されたが,それは実務界(労働委員会事務局や法曹界)において説得的なガイドラインになり,またこの種の情報にうとい学会に貴重な糧を提供された。それに加筆してこの度上梓された本書は,数多くの教授の著作に共通する,ソフトな「山本カラー」で彩られている。以下,各論的にそれを見ていこう。  

 労働組合法という法律を見ると,その中で不当労働行為制度が大きなウェイトを占めていることが一見して分かる。そしてその不当労働行為制度の運用に主としてあたるのが労働委員会で,これに関する規定が同法の主要部分を占めている。行政委員会としての労働委員会は不当労働行為の申立てに対し,審査のうえ救済命令を発し,あるいは申立てを棄却する。そこまでは裁判所はまだ登場してこない。しかし,救済命令が出た段階で使用者が命令取消しの訴を裁判所に提起するに及んで裁判所が命令の審査役として登場する。これが「司法審査」と呼ばれるものである。著者はこのことについて労働委員会の審査には実質的証拠法則が適用されず,不当労働行為の要件に該当する判断=要件裁量が認められていないからである,と素直に受けとる。著者にとっての関心は,そのような法制度よりも,むしろ,裁判所による労委命令の審査によって生ずるギャップの社会的効果であり,裁判所の審査の「方向」が果たして「労働委員会制度=不当労働行為排除―正常な労使関係の確保という立法の趣旨を十分に理解しているのかどうか,を問題とする(第1章「不当労働行為と労働委員会の救済命令」)。この「総論」部分を受けて,第2〜4章に労働委員会の「裁量」の前に立ちはだかる裁判所の司法審査のありかたがすべて具体的事件を通して考察される。

 第2章「労働組合と自主性」でとり上げられている労委の判断と司法審査に関連する問題点は,(1)「利益代表者」の判定,(2)「経費援助」または「便宜供与」の使用者による一方的中止をめぐるものである。最高裁判決を含む司法審査のありかたについてこれまでで最もホットな議論を呼んだところである。
 (1)については,著者は,組合分会の役員をしている申立人を組合員であることを理由として課長に昇格させなかったことが不当労働行為に当たるかどうかについて,地労委と裁判所の見解が対立した男鹿農協事件を例に挙げている。これは実務上の難問の一つであるが,著者は地労委が何故課長昇格の救済命令を出したかについて現場の労働関係の実態に立ち入った詳しい状況から解明し,裁判所のいう「人事権の侵害」というような単純な形式論が労働関係の安定という見地からみれば望ましくない発想だと説く。著者は,そこにおいて「人事権と団結権との関係」を抽象的概念として論じない。著者の頭の中では理論的にきっちりと整理されていてもそれは言葉としては表示されないのである。これは二者択一的な解答を求める立場からすれば,いかにもはがゆく感じられるかも知れない。中山教授の前掲書評の言葉を借りれば,「鉢巻きをしめて,山本理論はいかに,と読んできた読者は,いつのまにか難問を通過したことを知らされる」からである。恐らく労働委員会の公益委員の立場にある方は,「行政」判断としてはそれでよいのではないか,と賛同しておられることであろう。私も同感である。
 労委と裁判所の見解の相違は,(2)の「経費援助」や組合費のチェック・オフをめぐる行訴事件においてハイライトに達する。とりわけ,長年行われてきた組合費天引控除の慣行の突然の一方的中止を不当労働行為と認定し,行訴においても控訴審の判決まで支持されてきたにもかかわらず,最高裁において一転,否定されるに至った「済生会中央病院事件」は労委関係者に衝撃を与えるものであった。
 最高裁は,本判決でチェック・オフ協定も労基法上の協定としての,過半数代表との書面協定の要件を必要とする,との解釈論をまず示したうえ,使用者の本件チェック・オフ中止は労基法違反の解消を意図したもので不当労働行為意思に基づくものではないと判断して労委命令を否定したのである。チェック・オフ協定が労基法24条の協定に含まれるかどうかは労働法学者の間でも見解の分かれるところである。
 筆者としては,反対意見の奥野裁判官の否定説にもかかわらず,特にこれを除外すべき理由は見出しえないと考えるから,この点においては最高裁の多数意見に賛成である。ところで,山本教授自身は,本書においてはこの点についての賛否の結論を明確に示していない。
 本件の問題は,労働委員会が認定したところの,組合併存下の状況の下において一方の組合に対する使用者のチェック・オフの中止が果たして労基法違反という事実の解消を意図するだけで,そこに不当労働行為の意思がなかったとする最高裁の認定判断のしかたにある。司法審査で裁判所がそう認定するのであれば,労働委員会側としては黙するほかはないが,多くの公益委員は二つの現象が,最高裁のいうようには単純につながらないと見ているのではないか。それはともかく,著者は,結論として本件の最高裁判決を「不当労働行為意思に基づかないチェック・オフの中止を容認するのであり,反対にその意思に基づくのであれば不当労働行為と目される余地がある」と読みとっている。逆説的ではあるが,本件最高裁判決の射程範囲がぞれほど大きなものでないとみる点では筆者も同感である。それにしても,このあたり,いかにも山本法学の「やわらかさ」が表われており,それが山本説の中労委や裁判所に対する抜群の説得性の原因でもあると思う。

 第3章「救済申立期間と救済命令の名宛人」では,(1)いわゆる「継続する行為」の解釈,(2)救済命令の「名宛人」の問題がとりあげられている。
 この領域において労働委員会と裁判所の見解の差異が大きくクローズアップしたのは,救済命令の名宛人に「本社」の外,不当労働行為を起こした工場,支店などの「事業所」を加えるべきかどうかについてである。最高裁は昭和60年の済生会中央病院事件において消極説をとったが,これを受けて中労委も茨城地労委をはじめとして複数名宛人の地労委命令を修正した。著者は,このような消極説の考え方を「中央集権的」論理として鋭く批判している。著者が積極説(併記説)をとる理由は,巨大企業における不当労働行為がしばしば本社のトップのあずかり知らない現場で起こっていることに象徴されるように,労使関係の運営が事業場を中心として動いているという実態論に基づく。これを権利義務の帰属主体という法理によって統一してしまおうとする裁判所の発想とこれに追随する中労委の姿勢を著者は,いわば現場の感覚に立って問題にしているのである。

 第4章「救済命令の内容と実効性」では,(1)「ポスト・ノーティス」命令のあり方,(2)「条件付」救済命令の当否,(3)「審査の実効確保措置勧告」と「緊急命令」の問題がとりあげられている。
 ポスト・ノーティスという適当な日本語名のない救済命令の形態は,世間にあまりなじみがないようで,何が問題なのかも知られていない。これは「解雇を取消して復職させよ」,「支配介入してはならない」,「団体交渉に応ぜよ」といった定型的救済命令に併せて,労委が必要と判断した場合に,使用者の犯した不当労働行為について申立人に「陳謝」,「誓約」させ,あるいは(命令が出たことの)「公示」を命ずるものである。すでに昭和26年頃から登場したこのポスト・ノーティス命令が問題になったのは,特に「陳謝」「誓約」型のそれが(使用者の)意に反する行為を強いられる点で憲法19条(思想・良心の自由)に違反する旨の主張が行政訴訟において提起されたからである。
 この問題についての二つの最高裁判決(三小判平2・3・6,二小判平3・2・22)は,労委命令中の「反省」「誓約」の文言は不適切ではあるが,これを「同種行為を繰り返さない」旨を強調するに過ぎないと読み替えれば労委の裁量権の範囲内にある,として支持するとの判断を示した。これに対し,著者は,それは労委命令の真意ではなく,ありがた迷惑であり,不当労働行為における救済制度についての認識を欠くものと手きびしい。世間には陳謝や誓約が認められる例はいくらもあるのだから,労委がポスト・ノーテイスにより使用者の不当労働行為に対し陳謝,誓約させたとしても良心の自由を侵害したことにはならない,とみるのである。ただし,著者は,労委は何故にポスト・ノーテイスを必要とするのか,いかなる理由から陳謝型とするのかについて明示した方が説得的である,という注文をつけている。同感である。
 次に「条件付」救済命令の可否についての著者の見解を見ておこう。この点において,柔軟性に富む著者の立場が最も鮮明に浮き彫りにされていると思うからである。
 「条件付」救済命令にも多くのタイプがあるが,最も問題を提起したのは茨城地労委の「日本原子力研究所事件命令昭59・ 7 ・13」である。同命令は,申立組合が行った「身分証明書回収行為」について「遺憾の意を表する」旨の文書の交付を使用者側が受けるのを条件に組合幹部の減給処分の取消とバックペイを命じたものであった。これについての司法審査の例はまだ少なく,学界においてもアカデミックな議論にとどまっている。著者は,片岡教授を初めとする否定説と塚本・石川教授の肯定説の立場を併記するにとどめ,学者の立場においての積極的な賛否の結論を述べていないが,条件付命令が許容される「条件」を易しく設定することで実務指針としては確固とした考え方を披瀝している。筆者も今や山本説に傾いている。
 救済命令の実効をはかるための「緊急命令」という制度も,不当労働行為法よの難問の一つであり,労委の判断と司法判断との間にしばしば齟齬の生ずるところである。「緊急命令」とは,労委の救済命令を使用者が行政訴訟に持ち込んだ場合に,労委の申立により裁判所が判決確定に至るまで右命令に従うよう命ずる決定であり(労組法27条8項,労委規則47条),裁判所による一種の労委命令の暫定的確保の措置である。この緊急命令を裁判所が発するか,却下するかは裁判所の裁量にかかることではあるが,却下に際して裁判所はしばしば労委命令自体の適否の判断にまでふみ込もうとする。そうなると,当該事件について,もう一つ司法審査が加わることになる。しかもその決定の判断が行政訴訟における司法判断と食い違うということになると,裁判所による司法判断というものは一体何なのであろうか,という疑問が生ずる。議論の多いこの問題について,著者は,「オリエンタルモータース事件」を例に挙げ,事実の経過の説明の中から,行訴では一審から最高裁まで労委命令を支持しているのに,その途中で中労委から出た緊急命令の申立を却下した東京地裁の決定(昭57,10.20)(二審はこれを取消している)の不自然さを指摘する。緊急命令の「法的性質」についてどの説をとる者も,著者のこの説示をフォローして行けば,右裁判所の決定が救済命令の「権利義務関係中心の洗い直し」に終始しているという著者の批判に賛同せざるを得ないであろう。
 このように,著者は,裁判所が一般的に労委制度に「無理解」だとか,「反動的」といった感性的批判の言葉を一切述べていない。この事件の判決はこういう理由で納得的でないと評するのであり,そしてそのような司法判断の発想の根源にまで遡ってできるだけ客観的なデータによる分析と批判を展開するのである。

 本書には,各章の各節ごとに,著者の提起する「問題点」に対する「結論」が示されているが,本書全体の総括的「結論」ともいうべきものは特に述べられていない。つまり,労働委員会命令に対する司法審査は一般的に「偏向している」とか,あるいは「かくあるべきだ」というような概括的なコンクルージョンを著者は示さないのである。その理由は,筆者がすでに上記の各章で示した,著者の決して抽象論議に走ることのない手固い実証主義的考え方にあると思う。筆者は,個々の問題についての論証や結論において著者と見解を異にするところもあるが,全体として著者のこのような方法論に限りなく賛同し,今後変動が予想されるこのテーマについて著者がフォローし続けられることを期待するものである。





有斐閣,1992年,327頁,定価5,500円

あきた・じょうじゅ 法政大学名誉教授

『大原社会問題研究所雑誌』第420号(1993年11月)



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