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日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
The Labour Year Book of Japan special ed.

第五編 言論統制と文化運動

第六章 出版活動


第二節 個人雑誌による思想的抵抗(つづき)

「嘉信」
 矢内原忠雄は明治二十六年の生まれ、大正六年東京帝大法科大学を卒業、同年九月母校の経済学部に招かれ、十二年以来教授として植民政策講座を担当し、マルクス主義経済学の帝国主義理論を用いて、台湾・満洲その他の植民地支配の実態につき科学的分析を加え、すぐれた成果を多く世に問うていたが、一面内村鑑三の門下生として無教会キリスト教を信仰し、きびしい宗教的信念を以て社会に対する警世家としての側面をも有する人物であった。昭和七年満洲視察中乗っている列車が匪賊の襲撃を受けたが、ふしぎに難を免れたので神の加護を痛切に感じ、これを報告する趣旨の印刷物を出した。同年十一月発行の「通信」がそれで、その後不定期ながら月一回位の間隔で刊行をつづけ、十二年十二月までに四十九号を刊行した。……

 十二年十月の第四十七号に「神の国」と題する藤井武第七周年記念講演速記が掲げられたが、その内に「日本の理想を生かすために、一先ず此の国を葬って下さい」という一節があり、これがかねてから矢内原の批判的言論を憎んでいた権力者の乗ずるところとなり、同年十二月彼は帝国大学教授を辞任するのやむなきにいたった。

 矢内原はこれを機会に新しい道を進むべく決意し、辞職のあいさつを載せた四十九号を以て「通信」を廃刊し、十三年一月「嘉信」の創刊号を発刊した。彼自ら「キリスト教主義の月刊雑誌」と呼んでいるように、「嘉信」は……最初から時事問題を論ずるのを主目的とした雑誌ではなく、「ヨハネ黙示録講義」「アモス書大意」「マタイ伝について」というような聖書の研究が最も重要な内容を成している。しかし、師内村の場合と同様に、矢内原においても、神の福音に対する熱烈な信仰は現実の歴史の動向に対する燃えるような関心と不可分に結びついており、侵略戦争の進展と国民の自由の抑圧強化という不義不正の現実を眼前にして、これに対し神の義を説くことなしに聖書の文字の世界の内にのみ沈潜することは、彼の烈々たる正義感が許さなかったのであった。「キリスト教主義」の雑誌である「嘉信」は、こうしてファッシズムに対する基督者の牢固たる抵抗の精神をくりひろげる場所となったのである。…… 例えば十五年一月号に掲げられた「第二イザヤ書講議第三講」には、十四年十一月三日東京青山で開かれた「基督教大会なるもの」の席上、某陸軍大将(松井岩根を指す)の挨拶があり、「司会者は大将閣下の臨席を非常に光栄とし、一同起立して大将を壇上にお迎えする事を要求、一同起立したということである」が、「その陸軍大将は南京事件当時の最高指揮官であった。南京陥落の時に、アメリカのミッションで建てている基督教の女学校に対して、一つの大きな間違いが犯された。若しそういう事実を基督教徒大会の主催者が知らなかったとするならば、之は甚しき怠慢である。知っていたとするならば、何という厚顔無恥であるか。その事件の責任者たる者は、手をついて基督教会の前に謝らなければならない。基督教徒大会は、日本の基督教徒の名に於いて謝罪を要求すべきではないであろうか。それを全民衆が起立して迎えるとは、之ほど逆さまの事がありますか」という、日本軍の蛮行に対する峻烈な弾劾を行っているし、……

 随処に権力悪に対する勇敢な批判が試みられているのである。したがって発売禁止・削除・注意等の処分が何回か加えられただけでなく、十七年十二月には用紙の割当を全廃され、十九年六月には警視庁よる廃刊の強要を受けるにいった。矢内原は、用紙を他から入手し、圧迫にひるむことなく刊行をつづけ、一応警視庁の面子を立てるために、二十年一月以後は名前だけ「嘉信会報」と改め、「雑誌は廃刊になっても伝道は廃すべからず。印刷の出来る間は印刷により、印刷が出来なくなれば騰写刷により、騰写刷も出来なくなれば筆写回覧の方法によりても、キリストの福音は宣べ伝へられねばならないのである」という決意を示し、その言葉どおり、「会報」第二号から騰写刷を以て敗戦まで八号、一月も欠くことなく刊行を継続した。さすがに戦局の急迫以後現実への具体的批判は迹を絶ち、非状な心境が吐露されるにいたったけれど、とにかく不屈の勇気を以て敗戦の日まで刊行を継続した点では、「近きより」とならんで壮観をきわめている。二十年九月「嘉信」の名に復して、ふたたび活字印刷となり、戦後も月刊ではないがその刊行が続けられた。

日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
発行 1965年10月30日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 労働旬報社
2000年2月22日公開開始


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