OISR.ORG へようこそ 法政大学大原社会問題研究所

日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
The Labour Year Book of Japan special ed.

第五編 言論統制と文化運動

第六章 出版活動


第一節 横浜事件(つづき)

事件の拡大と編集者の大量検挙
 満鉄グループと泊事件関係者を追求することによって、「細川グループ」をつくり上げた神奈川県特高は、このグループの人的なつながりをたどり、一九四三年七月一日になって、細川嘉六の著作上の仕事を手伝っていた中央アジア協会の新井義夫を捕え、たまたまかれが昭和塾に関係していることがわかると、検挙の手はさらに昭和塾方面に伸び、七月三一日には浅石晴世(中央公論社)が、ついで一〇名が検挙された。

 「泊会議」の出席者のうち一名は中央公論社、二名は改造社の編集者であり、また昭和塾関係検挙者のうちの二名も中央公論社の編集者であった。そこで、神奈川県特高の目は自ずから編集者グループの上に集中した。そこには、わが国の言論の進歩的な面を代表し知識階級に広範な影響力をもつ総合雑誌の発行所と、社会科学や思想の領域ですぐれた書籍を送り出してきた出版社が浮かびあがってきた。さらにまたそうした各社の編集者を横につないで活動しはじめている日本編集者会がある。この種の経営と組織に対する軍部の攻勢が日ましに強まった時点に立って、神奈川県特高は今や雑誌社、出版社の編集中枢に向けて探索と追求の手をのばしたのである。

 中央公論社関係――一九四四(昭和一五)年一月二八日、小森田一記(当時日本出版会)、畑中繁雄、青木滋(当時翼賛壮年団)。藤田親昌、沢赳の五名、前に検挙されていた木村享、浅石晴世、和田喜太郎三名を加えて計八名。

 改造社関係――同じく四四年一月二八日、小林英三郎、水島治男、若槻繁、青山鉞治(当時海軍報道部)、一ヵ月おくれて三月一二日に大森直道(細川嘉六の論文掲載の責任をとって退社、上海満鉄支局に在勤中、現地で逮捕護送さる)の五名。前に検挙されていた相川博、小野康人を加えて計七名。

 日本評論社関係――四四年一一月二七日、美作太郎、松本正雄、彦坂竹男(当時退社日本出版会勤務)。翌四五年四月一〇日、鈴木三男吉、渡辺潔計五名。

 岩波書店関係――四四年一一月二七日、藤川覚、翌四五年五月九日に小林勇の二名。
 朝日新聞社関係――四四年六月三〇日、酒井寅吉。
 また、神奈川県特高の描いた構想の一環として、愛国労働農民同志会、政治公論社関係の事件があり、一九四三年八月頃田中正雄がつづいて一〇月二一日に広瀬健一が検挙されている。以上で総数四八名であった。逮捕された人たちは横浜市所在の各警察留置場に拘禁され、そこできびしい取調べをうけた。その取調べについては次のごとく述べられている(前掲書、一二一〜一二三ページ)。

 第一に、各編集者の所属する各出版社内での雑誌と書籍の編集出版の仕事が、共産主義の偽装された宣伝活動であるとされた。

 このため「中央公論」、「改造」、「日本評論」などの各雑誌の毎号の論文と出版された書籍の編集意図の中に共産主義立場からの反戦・平和・自由と革命の要素が追求された。社内の幹部会、理事会、編集会議、研究会、懇親会、喫茶店その他での事務上の打ち合わせはもちろん、ハイキングや社内の同好雑誌までが「共産主義的意図」によるものとされた。

 たとえばだれかが社内の編集会議をすませた二次会の席上、一杯機嫌で軍の竹槍戦術を批評し、「あんなことをしていたら日本は敗けるよ」。といったとする。するとそれは共産主義的敗北主義の発言ということになるのだった。この追求が極端になると、それは不合理どころか滑稽でさえあった。たとえば、その頃日本評論社が出版していた「新独逸国家大系」の翻訳は、ナチス・ドイツの公認のもとにナチズムを体系的に解説宣伝しただけのものであり、それは戦後出版界の戦争責任による追放が起こったとき、該当書の筆頭にのぼったファシズム文献であったのであるが、戦時下神奈川特高の猜疑と無知は、この翻訳ものをすら被疑事実の中に数えたてたようなありさまであった。

 第二に、日本編集者会が共産主義者を指導分子とする左翼的大衆組織であるとされた。検挙された各社の編集者は社内の仕事で最も活動的であったように、この編集者の団体に対しても―とくにその結成と活動の初期に―それぞれ「新体制」への期待を抱きつつ最も積極的であったが、そのようなかれらの影響力はすべて「共産主義的」であったのだから、したがって編集者会もいきおい「共産主義的」とされねばならなかった。

 第三に、同盟通信社をバックとする新出版社設立の動きが、共産主義宣伝のための新しい足場固めと認められた。日本編集者会の結成と前後して、伊藤愛二(千倉書房)がその伯父に当たる同盟通信社長古野伊之助に新しい出版社の設立意図があることを小森田一記(中央公論社)、藤川覚(岩波書店)、美作太郎、彦坂竹男(以上日本評論社)に告げ、かれらの協力を要請したとき、一同はみな賛成した。そのためには各人の所属する職場との関係を清算して、自由に活動できる態勢をとる必要があったので、かれらはそれぞれ理由を構えて退社手続をとり、さし当たり同盟通信社の出版部所属として「日本出版社」の設立活動に従事することとなった(美作だけは日本評論社をやめず、したがってこの計画から幾分遠のくこととなった)。これは遂に設立を見ずにおわったが、この計画に参画した編集者の意図は、日毎に追いつめられてちぢこまっている既成出版社内の雰囲気にあきたらず、古野伊之助という人物の力のもとに、もっと時代に即応した、指導的な出版事業を開始し、国家的な危機を幾分でも正しい方向にそって解決したいという「善意」にほかならなかったし、それだけにまた「新体制」への甘い期待に促がされた、御多聞に洩れない心理と通じるものがあった。そしてただそれだけのものに、特高はあえて、「共産主義的」という烙印を押したのである。

 第四に、警察権力の狙いは、単に個々の編集者を断罪することに限られていず、かれら編集者を抱擁するそれぞれの雑誌社・出版社の経営主体に向けられていた。中央公論社の嶋中雄作社長、改造社の山本実彦社長の二人は、その思想と行動において「共産主義的」であるか、あるいは少なくとも共産主義に親近しこれを幇助する者として、検挙までには至らなかったが常に攻撃目標とされていた。「お前たちのようなけしからん編集者を雇うておく社長のことだ、ろくでもない奴にきまっている」というのが特高の放言であった。この点において、神奈川県特高は中央公論社、改造社、日本評論社、岩波書店などが「共産主義的傾向ある反時局的出版社」であるという権威づけられた凡説を当時の世間に流しただけでも、これを暴力でつぶしにかかった軍部ファシズムの下僕として、実にけなげな忠勤をはげんだわけであった。

日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
発行 1965年10月30日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 労働旬報社
2000年2月22日公開開始


■←前のページ  日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動【目次】  次のページ→■
日本労働年鑑【総合案内】

法政大学大原社会問題研究所(http://oisr.org)