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日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
The Labour Year Book of Japan special ed.

第五編 言論統制と文化運動

第六章 出版活動


第一節 横浜事件

細川嘉六の検挙と泊事件
 細川嘉六の「世界史の動向と日本」という論文が雑誌「改造」にかかげられたのは、一九四二年の八・九月号の誌上であった。その論旨は「わが国の目指す『東亜新秩序』の建設は、旧来の植民地支配政策ではいけない。民族の自由と独立を支持するソ連の新しい民族政策の成功に学べ」というにあった。筆者自身も、終戦後の一九四五年一〇月九日付の朝日新聞紙上で「この論文は新しい民主主義を主調としたもので、大東亜戦争に突入した日本が、将来いかにしたら悲惨な目にあわずにこの難局をきりぬけることができるかという憂国の至情にかられて筆をとったものです。当局は、論文中にある弁証法とか、生産力とかいう言葉は赤だというて責めあげましたが、誰がみてもこの論文から共産主義的主張がでてこぬことがわかると、こんどは私の友人たちを検挙し、友人たちの口から。細川は赤だといわせようとしたのです」と語っている。

 ところが、内務・情報局の検閲さえもパスしたこの論文が、はからずも軍報道部の忌諱にふれることになった。一九四二年九月、六日会の席上陸軍報道部の平櫛少佐が、この論文は擬装共産主義を煽動するものであるとして次のように弾劾し、これと同時に、谷萩陸軍報道部長も同主旨の意見を「日本読書新聞」に執筆した。

 筆者の述べんとするところは、わが南方民族政策においてソ連に学べということに尽きる。南方現地において、日本民族が原住民と平等の立場で提携せよというのは民族自決主義であり、敗戦主義である。しかもその方式としてはソ連の共産主義民族政策をそのまま当てはめようとするもの以外のなにものでもない。かくてこの論文は日本の指導的立場を全面的に否定する反戦主義の鼓吹であり、戦時下巧妙なる共産主義の煽動である。一読驚嘆した自分は、早速このことを谷萩報道部長に報告すると同時に専門家にも論文を審議させたところ、自分と全く同じ結論をえた。……

 このような論文を掲載する改造社の真意を聞きたい。その返答いかんによっては、自分は改造社に対しなんらの処置を要請する考えである。かような雑誌の継続は即刻取りやめさせる所存である。

 細川論文を掲載した雑誌「改造」は、すでに配本済で読者の手にわたってしまっていたにもかかわらず、発売禁止処分となり、また、大森編集長ほか一名はこのため引責辞職した。

 当の論文の筆者である細川嘉六も、四二年九月一四日検挙された。その検挙の意図はもちろん「世界史の動向と日本」の「共産主義的傾向」を追及することにあった。ところが、細川とは関係なしに進行していた神奈川県特高による満鉄グループと、「泊事件」関係者の取調べの交叉線上に、細川の名前が浮かびあがり、検察と特高の「謀略のピラミッド」の頂点に、細川は立たされることになった。

 一九四二年七月、富山県の東北隅、北陸本線沿いの泊(とまり・今では朝日町の一部)でささやかな宴会が開かれた。泊は細川の郷里で、たまたま法要で帰省する折、ちょうど新著の「植民史」が東洋経済新報社から出版された当座のことでもあり、その出版の記念をもかねて、日頃かれの執筆や研究に何かと力になってくれる若い人たちをねぎらう主旨で、細川嘉六をはじめ、その若い友人八人が集まった。

 ところがその記念に一行中の西尾が全員をカメラにおさめた一枚の写真が、一年もたたないうちに「運命の導火線」となった。四三年五月、神奈川県特高は、西沢、平館の検挙による家宅捜索の際にこの写真を発見し、それを「ネタ」にして、共産党再建準備会としての「泊会議」と、この会議に参加して再建に暗躍する「細川グループ」という一連の物語の構成に自信をえ、五月二六日本村、相川、小野、加藤、西尾の五人を一斉に検挙し、その前すでに検挙されていた西沢、平館ら満鉄グループとの結びつきを、写真の示す「泊会議」という事実によって確認し、両者を合体させて、「細川グループ」をつくりあげたのである。当局のいうところの「泊会議」なるものが、いかにしてつくりあげられたものであるかについては、当時の被疑者の一人であった小野康人の次の手記によって知ることができる(美作太郎外著「言論の敗北」、一〇九〜一一六ページ)。

 

私が治安維持法に違反していると警察で勝手に認定した最も具体的な理由は、私が雑誌「改造」を編集していたということ、および雑誌「改造」の執筆家の一人である細川嘉六を中心に、「細川グループ」という非合法組織を組織し、それの発展として「細川」の郷里である富山県新川郡泊町所在紋左旅館で、日本共産党再建準備会というものを結成したという、まったく根も葉もない、虚構の事実に立脚しているものでありますが、ちょうど二年六ヵ月という長い期間、私は、この根も葉もない理由のために自由を奪われ、あまつさえ、世人のとうてい想像できない、言語に絶する拷問の責め苦に会って、正に死の一歩手前を彷徨させられてきたのであります。私は、自分が、そういう拷問をうける当然の理由があったのなら、今日敢えて、これを言語に絶するなどとは考えないのであります。ところが、彼等検察当局が私に加えた鞭は、まったく虚構そのものに立脚するものであったのでありますから、これは、単なる主義や主張の問題ではなく、人道の問題としても飽くまでも究明すべき問題だと、確信するものであります。‥‥

 先ず第一に述べなければならないことは私が検挙当時抱いていた考え方でありますが、総合雑誌「改造」の編集者としての私は、けっして共産主義を信奉していたものではなく、むしろ日本の軍閥・官僚の恣意によって強行されている大東亜戦争を、本当の民族解放の聖戦たらしめんとする純情から、編集と云う職域によって粉骨していた愛国主義者であったのであります。

 私が細川氏の宅に出入りするようになった主観的な動機は、以上のような私の愛国の熱情に出発するものであって、実に出鱈目の多い世の評論家の中で細川氏が断然勝れ、その所説も本当に国と民族の将来を憂えているところに出発していたからであります。私は、それ故、細川氏のような人の論文を「改造」誌上に掲げることは、私の職域奉公を完遂するものだと確信していたのであります。細川氏も、私のこうした熱意を愛し、単なる雑誌記者としてより以上に私を愛してくれましたが、細川氏から私は、共産主義の何ものをも教えられたことはないのであります。

 従って、泊町に細川氏に招かれて行ったのも、まったく、交友を更めるための宴会以外ではなく、事実、泊町では非常に御馳走になり、楽しい一日をすごして帰って来たのであります。
 ところが、それが、共産党再建準備会となり、さらに、昭和十七年の八・九月の「改造」に掲げた細川氏の論文が、私たちの共産運動の具体的な犯罪事実として詰問されたのであります。彼等が私にこういう無茶な犯罪事実を押しつけた情況を五項目に亘って述べます。

(一) まず、私を自宅から拘引して行った昭和十八年の五月二十六日のことですが、私を拘引に来た警察官は神奈川特高課の平賀警部補、赤池巡査部長、他巡査一名でありましたが、長谷川検事の拘引令状を見せ、三人でどかどか私の家に上がって、まず私を巡査が連れ出して、付近の渋谷警察署の特高室に連れて行き、その後で家中を捜して、押入れから学生時代読みふるした左翼本を百四、五十冊及びその他手紙や原稿の書きふるしを捜し出し、大きな風呂敷包み四個にまとめて、私はこの風呂敷包みとともに横浜の寿警察署に連行されたのです。
 寿署に着くと、最初、講堂に連れこまれて、小憩の後、正午頃平賀警部補が取調べを開始しました。形の如く最初は住所、姓名を訊ねましたが、それが終ると、

「お前は共産主義を何時信奉したか?」
と問われたのです。
「自分はかつてそういう考え方をしたこともあったが、十年も前からまったく、共産主義からは離れている」。
と答えました。すると、
「うん、なかなか、手ごわいぞ。シラを切っても、泊会議はどうした? 河童〔細川のあだ名〕はどうした? 証拠は十分あるんだ。」
といって、
「まあ、こっちへちょっと来てもらおう」、と、私を同行の巡査と二人で武道場に連れていったのです。すると、従来の態度とはまったく変った、犬殺しのような態度になって、
「やい、てめえは、甘く見てるな」。
と強圧的に私をそこに押し倒し、私が絶対嘘を言ってないと辯解してもきかばこそ、最初竹刀でやたらになぐっていましたが、その中、竹刀をバラバラにほごして、巡査と二人で無茶苦茶に打ちさらに靴で蹴り、言うにたえない悪口雑言を吐いて、約一時間、拷問をつづけたのでした。そしてへとへとになった私の手をとって、その訊問調書というのに、
 (問)お前は共産主義を何時信奉したか?
と書いてある次に
「答」として
「ハイ申し訳ありません」
という一句を自分で入れ、私の名を書かせ、無理やりに拇印を押させたのです。
私は、余りの無茶にただあきれるだけで何とも言いようがありませんでした。
……調べるのではなくまったく拷問に終始しているのに、何一つ言いもしないことを私が白状したことになって聴取書というのに書いてあるのですから、驚きます。たとえば、
 (問)泊で何を話したか?
という問の次に、私はただ、宴会しただけで、色々政治の話なども出たが、何もこみいった話などしない、と答えたのに、
 (答)として
「政治の中核体に就いて色々熟議しました」
と、書きこむのであります。……
 私はもうあきらめました。まったく、話にもなにもならないのであります。万目の見るところ単なる自由主義のジャーナリストにすぎない「山浦貫一」が、唯物史観の立場から執筆していたり五・一五の被告の「橘彦三郎」が執筆していると、右翼思想を利用して民衆の暴動化を企てる意図の下に、その執筆を依頼したことになったのですから、これはまったく狂人でなければ、最初から無茶苦茶に罪に陥し入れようとする意図にはめこもうとしている以外、考えられませんでした。それで私もあきらめて、もう言うなりになってしまったわけです。
 「日本共産党再建準備活動」という手記を書かせられ、平賀がこれを調書に書きあらためて検事局に廻して、刑務所に昭和十九年四月六日に送られ、起訴されたのです。
 その間、六日ほど、私は昭和十八年の十二月末から二十年の一月初にかけて、長谷川検事の取調べを受けましたが、まだ警察にいる時だったので、全面的に否認したら何んな拷問を受けるか知れないという恐怖から、原則的に共産主義は肯定しました。しかし、共産党再建だとか、山浦貫一が共産主義者だとかいうことは否認して来ました。
 そして拘置所に移ってからは、川添という検事に取調べを受けましたが、この時は全的に否認したにも拘らず「山根検事」によって起訴され、一年二ヵ月まったく取調べがなく、独房で餓死の一歩手前まで追い込まれ、さらに予審廷では、「石川予審判事」の取調べを受けて、全的に否認し、判事が、
「被告はそれでは何故警察で認めたか」
と詰問したのに対し、以上の如き拷問の事実を挙げて、彼らが勝手につくった事件であることを強調して来た次第です。ところが予審決定書を見ると、まったく私の陳述は無視されて、検事の公訴状がそのままの決定書となっているので、法廷ではさらにこれを反駁して否認したのでありますが、昭和二十年九月十五日、八並裁判長より懲役二年、執行猶予三年の判決を言い渡されたのであります。これが私の二ヵ年半の事件の詳細でありますが、まったく虚構以外の何ものでもないこういうでたらめによって、真剣に働いていた国民をかくの如く言語に絶する状態に置くことが果して出来るものかどうか、いや、事実出来たのであります。私は単なる私憤からではなく、彼等を徹底的に究明することを希望するものであります。

日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
発行 1965年10月30日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 労働旬報社
2000年2月22日公開開始


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