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日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
The Labour Year Book of Japan special ed.

第五編 言論統制と文化運動

第五章 芸術運動


第三節 俳句・短歌

 短詩型文学に加えられた最初の弾圧は、川柳にたいしてであった。一九三七年一二月に雑誌「川柳人」の同人たちが検挙された。「川柳人」は井上剣花坊が一九二六年に創刊した「大正川柳」の改題継続したものであり、主宰者は剣花坊の未亡人井上信子で、特別賛助員六名、賛助員一七名、維持同人二三名、編集同人七名、および誌友をもって組織され、他の川柳雑誌「きやり」「北斗」「川柳時代」など四六誌(六部分は剣花坊の門弟が主宰)と交渉をもっていた。かれらの作品は川柳であるだけに直截に反戦的傾向を示していた。たとえば左の通りである。

 手と足をもいだ丸太にしてかへし   鶴   彬
 射抜かれて笑って死ぬるまで馴らし  堤 水叫坊
 退却が待ち遠しい銃をかついでいる  中山仮面坊
 からくりを知った人形へ鞭が鳴り   岡本 嘘夢

 俳句にたいする弾圧は、主として反伝統派の総称たる「新興俳句」派の弾圧であったが、そのトップを切ったのが「京大俳句会」事件であった。同会は京都大学および第三高等学校の学生らによって古くから存在しいわゆる伝統俳句の陣営に属していたが、一九三三年から機関紙「京大俳句」を発行し、いわゆる新興俳句運動と提携して、無季(季題無用)、規準律(五・七・五の一七字定型と、その定型を全く無視する自由律の中間の型で、一七字定型の精神をできるだけ維持しながら自由な形式をとるもの)を提唱してリアリズムを標榜し、また三七年以降いわゆる「戦争俳句」の実践を俳壇に率先しておこなった。京都に中心をおき、東京・京都・大阪・神戸にそれぞれグループをもち、句会・研究会を開催するとともに機関誌を発行し、検挙時の会員は四八名であった。このうち、京都在住の平畑静塔・波止影夫・仁智栄坊ら六名が、四〇年二月に検挙され、さらに五月から八月にかけて西東三鬼ら七名が各地で検挙されて京都に連行された。検挙総数は警保局調によれば一五名である。検挙にあたって犯罪証拠となったのは、主としてリアリズムに関する俳論であったらしいが、彼らの作品を例示すれば左の通りである。
 

 軍橋もいま難民の荷にしなふ     平畑静塔
 あなたいゐない戦勝の夜を嬰児は眠る 波止影夫
 タンク蝦蟇の如く街に火を噴きつ   仁智栄坊
 塹壕に一つ認識票光る        西東三鬼

 検挙された人たちのうち三名が治安維持法によって起訴され、約一年後に禁錮二年執行猶予三年をいいわたされ釈放された。

 四一年二月には、「土上」・「広場」・「俳句生活」・「日本俳句」など「新興俳句」派にたいする一斉検挙がおこなわれた。このうち「土上」は、高浜虚子の主宰する「ホトトギス」から脱退して無季定型による「生活俳句」運動を展開したグループであり、そのうち島田青峰(編集発行人)・東京三(のち秋本不死男)・古家榧子ら三名が検挙された。「広場の会」は、もと古俳諧の研究グループによって結成され、有季定型の花鳥諷詠俳句を発表していた「句と評論社」が、その後無季定型による「生活俳句」運動を展開し、三八年から改称した会であり、機関紙「広場」を発行していたグループであるが、そのうち藤田初己(編集発行人)・細谷碧葉ら五名が検挙された。「俳句生活」は、荻原井泉水の主宰する自由律俳句の「層雲」の江東支部から発展したもので、「層雲」脱退後「旗社」を作り、以後他のグループと合同して「プロレタリア俳人同盟」「俳句発行所」「俳句の友社」をつぎつぎ結成し、三四年以後「俳句生活」となったものであるが、そのうち栗林一石路・橋本夢道(編集発行人)・神代藤平・横山林二ら四名が検挙された。「日本俳句」も、「層雲」を脱退して「生活俳句」を目指して結成された「生活派」の発展したもので、このグループからも一名検挙された。以上のように四つの雑誌に拠る計一三名の俳句作社が一斉に検挙され、うち七名が「コミンテルンおよび日本共産党の各目的遂行の為にする行為」で治維法によって起訴され、四三年一一月にいずれも禁錮二年執行猶予三年の判決を受けた。島田青峰は六七才の老体で早稲田署に検挙され、肺結核が再発して留置場で朝四時すぎに喀血したのに昼すぎまで手当もせずに放置され、ようやく夕刻近くに帰宅を許されたが、その後一度も立つことができぬまま死んでいった。
 

 戦争へゆくかも知れぬ落葉焚く    京 三
 戦死者の子と見るシネマ人斬らる   京 三
 陽あたりの渦のなか真実はつねに暗い 框 子
 人の群地に這い重工業咆哮す     框 子
 三等待合室鋭き眼きらりと覗き去る  初 己
 鉄工葬をはり真赤な鉄うてり     碧 葉
 公傷の指天にたて風の中       碧 葉
 はげしい感情を戦争へゆく君に笑っている 一石路
 煙草も砂糖もない店のガラス壺の埃    一石路
 炉火明りにめし食うざりりと漬菜の氷れるを噛み 藤平
 物価騰貴下のおはち干し夏草の花かよ   林 二

 以上四誌のほか、定型・自由律の両派を含め新興俳句の総合雑誌として「天香」が四〇年四月に創刊されたが、編集同人がすべて検挙されたため、同誌も三号限りで廃刊となった。なお、進歩的な俳人の検挙にあたっては俳壇の内部から当局へ密告・指示していた人物が存在し、検挙されなかった多くの俳人も脅迫的な注意を受けていた。

 このほか、山口県宇部の「山脈会」(月刊「山脈」を五〇〜二〇〇部発行。四一年一一月、一〇名検挙)や鹿児島の「きりしま」(四三年)など全国各地で句壇にたいする弾圧がおこなわれた。

 弾圧と裏はらに、国策協力の団体「日本俳句作家協会」が四〇年一二月に結成され、翌年内部不統一のためこっそり解散したが、四二年五月に「日本文学報国会」俳句部会になった(同部会は終戦後、四五年九月の理事会で、新会員三名の入会を認めた上で解散を決議した)。

 短歌にたいする弾圧の主要なものは、雑誌「短歌時代」の同人である歌人たちにたいする弾圧であった。同誌はプロレタリア短歌運動の系統をひき、「無産者歌人連盟」(一九二八年結成、機関誌「短歌戦線」)、「プロレタリア歌人連盟」(二九年結成、機関誌「短歌前衛」のち「プロレタリア短歌」)、「短歌クラブ」(三二年創刊)、「短歌評論」三三年創刊)と変遷・発展してきたグループが日華事変勃発下の情勢のなかで三八年五月に改題して創刊されたものであり、全国に約五〇名の同人をもち、京都・横浜・川崎・東京滝野川などに支部組織があった。このうち指導的地位にあった渡辺順三が四一年一二月九日に開戦時の非常措置(前述)によって逮捕され、つづいて四二年三月には同誌の編集同人であた高橋喜惣勝ら一〇名が一斉に検挙された(起訴は六、七名)。「短歌時代」はそれ以前の四〇年三月に廃刊しており、四月から「潮」と改題して八月まで発行し、また四一年六月から同じグループによってて「新胎」が発行されたが、それも一〇月で廃刊となった。
 

 裁判所より帰りて
  おそく食う飯の
  つめたく堅く歯に泌みるなり。
 人と人と
  殺戮しあう悲惨さを
  ラジオは誇る如く告げおり。
                渡辺 順三
 歌よみて牢にも入りぬわが余生あるべくあらばよきうたを詠め
 たもちえしいのちつきんと焼あとに鍋釜を掘る吐息かなしく
                小名木綱夫

 地方の短歌グループについても、長野県下の「いはひば」(毎月三五〇部発行)関係で六名が四一年一二月に、川崎工場地帯を根拠とする「京浜短歌会」(作品相互発表・合評・研究会・合同見学等)関係で三名が四二年にそれぞれ検挙されている。

 「大日本歌人協会」にたいして、同会名誉会員太田水穂・理事斎藤瀏・吉植庄亮の連名で、新体制に即応し思想的誤謬を是正するため同会を解散すべしとの勧告状が四〇年一〇月に提出され、翌月の臨時総会は激論ののち発展的解消を認めることとなった。四一年六月あらたに「大日本歌人会」が発足し、全国数万人の歌人の中から「時局認識に徹底していること」を条件として七〇〇余名を会員に厳選した。四二年五月には「日本文学報国会」ができ、短歌部会が設けられ、「愛国百人一首」の選定などを担当した。

 

(前掲の「社会運動の状況」のほか、座談会「俳句事件」、俳句研究一九五四年一月号。特集「弾圧以降・戦時下俳句史」俳句、一九六一年一二月号。司法省刑事局「左翼俳句運動概観」(思想資料パンフレット特集)、一九四二年六月。「日本プロレタリア文学大系」第八巻、一九五五年二月刊。などによる)

日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
発行 1965年10月30日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 労働旬報社
2000年2月22日公開開始


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