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日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
The Labour Year Book of Japan special ed.

第五編 言論統制と文化運動

第五章 芸術運動


第一節 新劇

 わが国における新劇運動のメッカともいうべき築地小劇場は、一九三三年の改築後は「新協」「新築地」両劇団をはじめとする新劇公演によって経営され、両劇団の中心メンバーによる管理委員会が管理してきたが、建築物の大改装を要するようになったのを機会に、土地建物の所有者であった土方家から買収し、資本金八万円の株式会社築地小劇場を創立して改築にあたることになり、三九年一一月工事完了して開場した。戦争下において、わが国新劇の代表的二大劇団であった「新協劇団」と「新築地劇団」は、他の進歩的文化団体がそれぞれ弾圧を受けて活動の衰微した中にあって、本拠である築地小劇場の舞台を中心に活発な公演活動を展開し、関西をはじめ朝鮮などへも巡業し、またしばしば都市大劇場へも進出し、さらに映画会社と提携して映画を製作したほか、各地に後援会を設けて観客組織を強化してしばしば座談会・講演会等を開催し、また地方の新劇団体にたいしても指導的な影響力をもった。この両劇団にたいして、一九四〇年八月、大規模な弾圧がおこなわれ、両劇団とも即刻解散することを強要されるとともに、劇団員・後援会員をふくめて全国的な検挙を受けた。検挙されたのは、東京では、新協劇団関係の村山知義・久保栄・滝沢修ら二六名、新築地劇団関係の八田元夫・千田是也・岡倉士朗ら一四名、大阪で新協劇団関西後援会の四名、新築地劇団大阪後援会の四名、大阪協同劇団の馬渕薫ら二名、広島で新協劇団広島後援会の九名、静岡で新協・新築地両劇団後援会の八名、島根で山陰新協後援会の一〇名、京都で新協、新築地両劇団後援会関係の三名、総計八○名(まもなく釈放されたものを除く)であった。劇団関係者(テアトロ社をふくむ)のうち起訴されたのは一四名(四二年七月の判決では、それぞれ二〜八年の刑、執行猶予三〜四年)である。

 新協劇団は、日本プロレタリア演劇同盟(プロット)加盟の左翼劇場(プロット解散後は中央劇場)を母体とし、村山知義の「新劇大同団結の提唱」にもとづいて一九三四年に結成されたものであり、長田秀雄、秋田雨雀、村山知義からなる幹事会と滝沢修らの総務課(四〇年六月改組)を中心として組織され、全国に二一の後援会(約一二〇〇名)をもっていた。三七年の「事変」以後の主要な公演としては、トルストイ「アンナ・カレニナ」(杉本良吉演出)久板栄二郎「北東の風」(村山知義演出)、島崎藤村「夜明け前」第一・二部(久保栄演出)、張赫宙「春香伝」(村山演出)、久保栄「火山灰地」前・後篇(久保演出)、キングスレー「デッド・エンド」(村山演出)、オニール「初恋」(同上)、久板栄二郎「千万人と雖も我行かん」(同上)、ゲーテ「ファウスト」第一部(久保演出)、久板栄二郎「神聖家族」(村山演出)、本庄陸男「石狩川」(同上)、長田秀雄「大仏開眼」(伊藤道郎演出)、ヴェデキント「出発前半時間」、(松尾哲次演出)、真船豊「遁走譜」(千田是也演出)などがあり、公演延日数三六九日、三九年一年間だけで八一日、約七万人の観客を動員した。その他、映画会社と提携して、「初恋」(東宝)、「空想部落」(南旺映画)、「多甚古村」(東宝)、「煉瓦女工」「奥村五百子」(東京発声映画)などの映画に出演し、また講演会・座談会等を三一回おこなっている。

 新築地劇団は、土方与志のあとを追って築地小劇場を脱退した薄田研二・丸山定夫・山本安英らにより一九二九年に結成された劇団で、のちには同じくプロツトに加盟して活動し、その解散後、新劇の大同団結には劇団としては加わらず、薄田幹事長以下石川尚・和田勝一・八田元夫ら(岡倉士朗・山川幸世らは解散直前に、千田是也らはその前に脱退)の幹事会を中心として組織され、全国に一二の後援会(約二〇〇〇名)をもっていた。三七年の「事変」以後の主要な公演としては、山本有三「女人哀詞」(山川幸世演出)、藤森成吉「渡辺華山」(岡倉士朗演出)、八木隆一郎「嗤ふ手紙」(千田是也演出)、長塚節「土」(岡倉演出)、三好十郎「彦六大いに笑ふ」(山川演出)、ゴーリキー「どん底」(同上)、アーサー「ジャーナリスト」(千田演出)、イプセン「幽霊」(青山杉作演出)、豊田正子「綴方教室」(岡倉演出)、藤森成吉「江戸城明渡」(山川演出)、高倉テル「子もり良寛」(千田演出)、真船豊「黴」(久保田万太郎演出)、シェークスピア「ハムレツト」(山川・岡倉演出)、伊藤貞助「金銭」(岡倉演出)、梅本重信「武蔵野」(同上)、豊田正子「喧嘩」(石川尚演出)、上泉秀信「ふるさと紀行」(八田元夫演出)和田勝一「海援隊」(同上)、水木洋子「早春」(石川演出)、中本たか子「建設の明暗」(岡倉演出)、三好十郎「浮標」(八田演出)、真山青果「坂本竜馬」(岡倉演出)などがあり、公演延日数三七三日、三九年一年間だけで九九日、約七万人の観客を動員した。その他、松竹と提携して随時映画出演をしていたが、三九年からは南旺映画と団体契約して「空想部落」に、また日活映画と契約して「海援隊」に出演し、講演会・座談会等を七回おこなった。

 前述したように、四〇年八月の一斉検挙と同時に、両劇団の即時解散が強制されたが、当時の新聞には、両劇団代表者二名を警視庁に招致「自発的解散をしょうようしたところ両氏とも快諾しそれぞれ劇団員にはかった結果、新協劇団は二二日、新築地劇団は二三日いずれも解散を決議」という虚偽の報道が強制掲載された。事実は、この弾圧にたいして予想される全国的反対運動を起こさせないよう、みずから前非を悔悟反省したという声明書き発表させるために両劇団の首脳者である長田秀雄・薄田研二の二人を検挙しなかったのであり、それぞれ劇団の緊急総会を開いてみずから解体した形をとったが、そのころ右二名を除く劇団員は警察署に逮捕されていて総会など開けるはずはなかったのである。つづいて各地の後援会も、それぞれ「当局のしょうよう」によって解散した。地方劇団についても同様であり、両劇団につづき「大阪協同劇団」、「劇団制作派」(大阪)、[劇団ドウゲキ」(大阪)、「大阪人形座」、「岡山演劇集団」、「北陸新劇協会」(金沢)、「エランヴィタール小劇場」(京都)等も警察の「しょうよう」によって「自発的」に解散した。演劇雑誌「テアトロ」も発行停止となり(一二月同社解散)、その編集責任者は起訴され、人形劇団プークには解散命令が出された。新劇後援会関係者の検挙はその後もつづいた(たとえば四一年に聖路加病院看護婦グループ二名、旧東交巣鴨グループ四名等)。

 築地小劇場も四○年一一月には国民新劇場と時局向きに改名したが、依然としてそこを根城とする新劇小劇団の活動はつづけられた。保釈で出てきた劇団員たちの多くは営業停止の令状を渡され、活動不可能となってていたが(「興業取締規則第九七条によりその業務を停止す、右相達す、警視総監」、「映画法第六条により演技の業務に従事することを停止す、右相達す、内務大臣」)それにふれない人たちも加わって、四二年二月には、「瑞穂劇団」(宇野重吉・信欣三・北林谷栄ほか。はじめ農山漁村文化協会直属、のち日本移動演劇連盟専属)、「文化座」(井上演劇道場から分立、山村聡・鈴木光枝ほか)、「苦楽座」(薄田研二・丸山定夫・徳川夢声ほか)などが活動をはじめた。鑑札をもらえず「営業停止」になった人たちも、新劇以外には出演を許された者もおり、他人の名義にかくれて仕事をした人たちもあった(村山知義・千田是也など)。国民新劇場においても、それが四五年三月にアメリカ空軍の爆撃で焼失するまでの間に、約二〇の新劇劇団が九〇余の戯曲を上演し、その他歌舞伎・新派・児童劇団を含めて月平均二五〜三三回の公演が空襲警報に中断されながらつづけられた。四四年には「俳優座」(千田是也・青山杉作・東野英治郎ほか)が発足し、つづいて「芸文座」(東宝劇団部、滝沢修・宇野重吉ほか)が旗上げ公演をもった。文学座は情報局からその指令下の劇団になるよう「しょうよう」されたが、それを拒否した。苦難な条件の中においても、いくつかの芸術性をもつ舞台が上演された。文学座は岩下俊作「富島松五郎伝」(里見ク演出)、真船豊「鶉」(久保田万太郎演出)、飯沢匡「北京の幽霊」(長岡輝子演出)、真船豊「田園」(千田是也演出、名義上は真船)、森本薫「怒涛」(久保田演出)を、瑞穂劇団は知切光才「左義長まつり」(久保田演出)、「北斗星」(千田演出、名義は真船)、伊藤貞助「高原農業」(千田演出、名義は里見)、文化座は三好十郎作、佐々木隆演出の諸作品や和田勝一 「牛飼の唄」、苦楽座は真船豊「見知らぬ人」(真船演出)、三好十郎「夢の巣」(里見演出)、松竹国民移動劇団は真山青果「平将門」(鈴木英輔演出)をそれぞれ上演した。

 「移動演劇」運動は、もともと戦力増強のために内務省の「演劇の浄化と統制」方針にそい、大政翼賛会文化部の提唱を受け、情報局の指導と援助の下におこなわれたものであったが、全国の農村・漁村・鉱山・工場・学校など広い範囲にわたって尨大な観客層を集めて展開され、戦争の後期には演劇界の主流になっていた。「日本移動演劇連盟」は四一年五月に結成され、はじめは松竹・東宝などの七団体であったが、四二年から「瑞穂劇団」などが加盟し、その後、「文学座」「文化座」「前進座」「井上演劇道場」なども参加し、四三年三月には社団法人に組織化された。観客動員数も、四二年は二二二万、四三年は二九八万、四四年四五八万に上った。苦楽座は「桜隊」、俳優座は「芙蓉隊」としてそれぞれ移動演劇隊に編成替えされ、文化座、文学座、芸文座なども移動演劇に移っていった。「桜隊」は広島で原爆を受け、丸山定夫ら全員が爆死したことは、「上海事変」での呉淞クリークにおける友田恭助の戦死とともに、日本の新劇に加えられたいたましい戦争の爪跡であった。

 なお地方では、新劇後援会を中心として演劇活動その他広範な文化運動を展開した名古屋の「映壇社」グループ関係で三九年から四〇年にかけて計四二名が検挙され、「劇団新潟」関係では四〇年五月と九月に計一〇名が検挙されている。東京では日大・慶大の学生たちによる劇団「青麦座」関係で三九年一一月四名が検挙された。

 (前出「社会運動の状況」各年版のほか、雑誌「文学」連載の「戦時下の文学・芸術」の宇野重吉・山川幸世・松尾哲次・千田是也・菅井幸雄・佐々木隆の記述、同誌一九六一年五月、八月、六二年四月号。岡倉士朗・木下順二編「山本安英舞台写真集」所収の「文献による日本新劇史」、一九六〇年刊、などによる)


日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
発行 1965年10月30日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 労働旬報社
2000年2月22日公開開始


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