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日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
The Labour Year Book of Japan special ed.

第五編 言論統制と文化運動

第三章 教育運動


第二節 戦時体制下の教育と教育運動

戦時体制下の教育
 一九三七年八月には「国民精神総動員実施要綱」が閣議決定され、九月には文部・内務両次官あて「国民精神総動員実践要綱」がだされて、国民精神総動員週間とか、防火週間とか、あるいは農村商工産業週間とかいう「週間」が毎月おこなわれ、そのなかで「部落町会隣組」などの国民精神総動員の下部単位の組織化がおこなわれた。一方、学校教育の場では「国民精神総動員と学校教育」(一九三八年一月)という文部省の指導パンフレットによって、勅語奉読をともなう行事の強化と時局教育の導入とともに各教科ごとに総動員教育が強調されることになった。

 こうした国民精神総動員による国民教化と教育の軍国主義化をはかりながら、他方では軍需工業側からの生産力拡充要求、また軍部側からの軍事能力近代化にともなう教育内容および制度改革の要請が切実なものとなった。木戸文相は、「上論を拝して」総裁以下六五名の委員からなる教育審議会を発足させたが、その第二回総会では「今月の一一日の閣議におきまして男子に対して青年学校を義務制といたす方針を決定」(同上)したことが報告され、今後はその内容についてこの審議会で検討してほしいという申し入れが行なわれた。一年六ヵ月の在営年限では「今日の兵器の非常に改善されている所の時代の兵の訓練としてはどうしても不足」(「教育審議会諮問第一号特別委員会整理委員会会議録」)なので、といって「二年を超える期間を設けるということは却って国民の国防観念、兵役に対する観念上面白くないというような点も考えられて」(同上)、そのかわりに勤労青年の教育の画期的拡充の名のもとに兵士養成の義務化がきまった。一九三七年一二月から四一年一〇月までの四年間審議がつづけられ七つの答申がだされたが、三八年一二月答申の「国民学校、師範学校及幼稚園に関する件」による国民学校の出現と、青年学校の義務化以外はさしたる制度上の改革をうみださなかった。

 一九三八年三月に成立した国家総動員法は、その第一条で「国家総動員とは戦時に際し国防目的達成のため国の全力を最も有効に発揮せしむる様、人的物的資源を統制運用するを謂う」と規定し、教育もまた精神の総動員とともに、その人的資源培養の役割をになわされることになった。そして、軍需工業を核とする重化学工業の発展と、戦線の拡大化にともなう軍要員の増大は、次のようなさまざまな矛盾を教育の上にももたらすことになった(「日本近代教育史」、「岩波講座、現代教育学5」所収二九一〜二頁)。

 第一の矛盾は熟練工不足問題からおこった。このため一九三七年には機械工養成所が単独設立され、翌年にはそれでも不足して、全国各府県の工業学校に機械工養成所が付設され、商工省には技能者養成所、逓信省では航空技術者養成所という具合に、そのときどきの緊急の要求に応じてこの種の教育機関が正規の学校教育の体系外に続々と発生しはじめたのであった。

 第二に、この熟練工不足問題の深刻化につれ、他方では未成年労働者の増加が重化学工業において非常な勢いですすむことになった。女子未成年労働者の増加もいちじるしくなった。このことから支配階級を悩ます問題が発生してきた。そのひとつは、かれらの労働時間が一日男女とも一〇時間から一四時間をこえ、当然のことながら、これは青年労働者の体位の低下をひきおこした。

 それだけでなく、身体の発育をかたよらせ、結核患者を急増させていった。当時「過労を防げ」という結核予防のポスターがはられたことも典型的矛盾の露呈した姿であろう。また他面では軍需景気による未成年者の収入増加となり、これが「浪費」と結合し、また家族の労務動員による家庭環境の悪化によって、青少年の不良化、犯罪の増加がめだっていき、いわゆる青少年問題が発生した。補導の強化、そのための協会の設置、あるいは児童読物の浄化がその対策として内務省からだされたが、戦争体制の根元がなくならないかぎり、これらの問題は、拡大再生産にむかっていった。

 第三に、こうして大量の青年が軍隊や工場に労働者化していく現実は、昭和初期の農村問題とはちがった仕方で新たな問題を農村になげかけることになって、独占資本とりわけ軍部をいらだたせる現象がめだってきた。「農村の子弟は小学校卒業と同時にその七割までは職を求めて都会に出て、適令になって帰村するので壮丁の体格および風紀は思ったより悪いようである。これをこのまま放置する時は由々しき問題となるので政府としては今後とも農村に仕事を与えてその子弟が都会に走らないようにするのが肝要である」(杉山陸相「由々しき問題」、「大毎新聞」一九三六年四月二二日付)という意見もでてきた。だがこれも戦時経済がつづくかぎり不可能なことであった。また「本年度は結核が多いことは寒心すべきことだ。それに無学無知の青年の多いのには驚いた。これは農奴制の結果ではないかと思われる」(山形県「渡辺聯隊司令官徴兵検査について」、「東京朝日新聞」地方版、一九三七年八月一日付)という半封建的寄生地主制への批判さえうまれたのである。そしてこのことの打開のために、上からの農村機械化、共同経営化の問題などが提起されたが、そのみちは、軍需工業第一主義の政策の下では、農業機械の供給は不可能であるし、共同化も資金面でゆきづまるし、寄生地主制の解体を指向する政策は天皇制軍隊の基礎をくずすことも意味するから、事実上手のうちようがなかった。

 在来の陸軍幼年学校だけでなく、少年航空兵、戦車兵、通信兵学校などの軍関係少年兵士の養成機関が独自の教育要求からうまれ、生徒たちを引き抜くことによって中等教育体系に変質を与えていくことになった。さらに植民地満州の安定をめざす武装農民兵としての青少年義員軍を尖端とする拓植教育の進展もめだった。また各種学校における大陸科、支那語科の新・増設がみられ、青年学校義務制と工場事業場技能者養成における産業と軍事の問題、体力向上のための管理策など新しい教育問題を生みだしていった。

 学校教育は次第にたんなる兵員養成や労働力供給の予備的存在から、直接的なそれへと転化しはじめた。一九三八、三九年の近衛・平沼内閣のもとでの荒木文相時代にこの傾向が一層濃厚となった。その第一が勤労動員の強化であった。一九三八年は、応召農家の援農作業を中心とする開墾と植林が主なものであったが、三九年には木炭不足解消のための木炭増産勤労報国運動が展開された。この年を契機に「夏休み」の呼称が廃止され、「業を休むの観念を棄てて心身鍛錬の本義に則」るという理由で、「夏季及冬季心身鍛錬」の期間とされることになった。そして、「青少年学徒に賜りたる勅語」にこたえるという理由もかねて「学徒隊」が結成されることになった。さらに一九四〇年になると、飼料開発、空閑地利用の食糧増産などが加わった。この段階では主として農業における食糧増産が主であったが、四一年の「国民勤労報国協力令」が公布されてから軍需工業への動員がはじまった。その第二は、一九三九年五月以降のノモンハン事件の軍部の反省をへて、精神訓練だけでなく「機械化等物質的戦備」をこなしうる軍事能力の向上がいちだんと要求され、それにしたがって強化とともに総合化がめざされるようになった。つまり中等学校から大学にいたる教練もその範囲をひろげ、航空、海洋、機甲、馬術、通信にいたるまでになった。さらに防空訓練も加わり女子には救護作業が必須となった。これらのいわば基礎として、体育が重視され、一九三九年には体力章検定がおこなわれるようになった。またこの年永年の懸案であった中等学校入学選抜としての学科試験が廃止され、これにかわって「体位、口答、内申」によることになったが、これも受験勉強が体位を低下させるという理由のためであった。

 教育審議会は一九四一年一〇月をもって審議が完了し、新たな戦争完遂のための戦時教育の展望をふくめて、大東亜建設審議会がその任にあたることになった。四二年五月その第二部会が「大東亜建設に処する文教政策」を発表した。それによると「皇国民の教育錬成方策」としては「教育に関する勅語を奉戴し、大東亜建設の道義的使命を体得せしめ、大東亜における指導国民たる資質を錬成」することがめざされていた。一九四三年九月、政府は「現状勢下における国政運営要綱」を閣議決定し、国内態勢強化方策については(1)航空戦力増強、(2)2食糧自給国内防衛を目標とし、「1徴兵猶予の停止、2理工系学徒の入学延期、3理工系学校の拡充、4法文系大学高度の統合整備、5義務教育八年制の延期、6徴用の強化、7女子動員の強化等を決定し、軍要員、軍需生産要員の給源の造成を期待した」(文部省「学制八十年史」、三九四頁)。そして、この基本方針のもとに次のような措置がとられることになった。すなわち、中学校四年修了での上級進学制、一九四五年からの中学四年制、中学の入学定員据え置き、増設・増科は工業、農業、女子商業に限定、男子商業学校の転換措置がなされた(「国民教育に関する戦時非常措置に就て」一〇月二五日)。また、青年学校の授業は「可成縮減し一層生産増強に資すること」(「青年学校教育の臨時措置に関する件」一一月六日)。高校、大学、高専の入営延期は取り止めとなり、文科入学定員は「三分の一」に削減、入学制限をはかることになった(「教育に関する戦時非常措置に基く学校整備要項」一二月二一日)。また、教員確保のため「就職義務」が強化され、学徒動員も「在学期間中一年に付き概ね三分の一相当期間」がこれにあてられることになった。一方、一九四四年秋から「学徒出陣」が始められ、「校門即営門」といわれるようになった。また他方では、国内の労働力不足は決定的となり、「学徒動員」によるほか軍需生産さえ困難となってきた。ために一九四四年一月「緊急学徒勤労動員方策要綱」が実施され、さらに二月の「決戦非常措置要綱」の閣議決定では年間を通ずる常時動員および学校工場方式もだされた。七月には動員学徒の一日一〇時間勤務の原則が一二時間まで延長され、深夜業が中学三年以上の男女にも課せられることになった。

 一九四五年、戦局は最後の局面を迎え、東京大空襲による被害もいちじるしくなった。三月「決戦教育措置要綱」が決定し、「国民学校初等科を除き、学校に於ける授業は昭和二〇年四月一日より昭和二一年三月三一日に至る間、原則として之を停止すること」となった。三月現在七割に及ぶ学徒が動員された。五月には「戦時教育令」がだされ、「我が国学制頒布以来茲に七十有余年今や戦局の危急に際し教育史上未曽有の転換を敵前に断行せんとす」る文部大臣訓令がだされた。児童・生徒をそのまま「国土防衛」の名において学校報国隊の組織がめざされた。アメリカは広島に原爆を投下した。この地に動員されていた教員および学徒九五二〇名がその生命を失い、三九九四名が傷病を背負わされた。「なかでも建物強制疎開作業に出動するため、大田河畔に集合朝礼中の広島市内学校の学徒は原爆により全滅したと伝えられ」(前掲「学制八十年史」四〇三頁)た。

日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
発行 1965年10月30日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 労働旬報社
2000年2月22日公開開始


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