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日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
The Labour Year Book of Japan special ed.

第五編 言論統制と文化運動

第二章 学問研究にたいする弾圧


 唯物論研究会は、一九三二年一〇月、岡邦雄・三枝博音・戸坂潤らを中心に、「唯物論の研究に重大な意義をみとめる研究家の研究団体」として成立した。発起人の中には長谷川如是閑・小泉丹・小倉金之助などがあり、会員の中でも自然科学者が多かった。初めは哲学・自然科学が中心で、政治的色彩のない大衆団体として、機関紙も新聞紙法によらず社会問題の時事的扱いをさけたが、しだいに社会科学・芸術論・文化問題に拡がり、マルクス主義の哲学的理論的研究とその普及化をおこなう唯物論者の研究団体の役割を演じ、唯物論哲学の発展にとって中心的な役割を果したのみならず、とくに「歴史科学」(三二・五〜三六・一二)と「経済評論」(三四・九〜三七・一〇)が姿を消したあと、社会科学の諸分野でのユニークな水準の高い業績を生み出し、反動的風潮の進む中で、非科学的精神・日本主義イデオロギイとのたたかいや、唯物論・マルクス主義理論の普及、あらゆる文化・思想現象の科学的解明の上で大きな役割を演じた。開いた研究会数四七一回、機関誌七三冊、刊行した「唯物論全書」(「三笠全書」をふくむ)六六冊に上った。一九三七年末の「人民戦線事件」のあと、主力会員に執筆禁止令が出されたことから、三八年一月には、定期的研究集会の中止、機関誌編集方針の改革、幹事長(岡)と事務長(戸坂)の辞任を決定したが、「教授グループ」の検挙のあと、幹事会は会の解散にふみ切り、雑誌、「学芸」の出版所に形を変えた。しかし同誌も一二月号は禁止となり、一一月に幹部二四名が検挙され、うち一四名が起訴された(つづいて翌年地方支部など一二名、翌々年一五名、検挙)。終りころの会員数約二〇〇(最盛時二五〇)、機関誌発行部数約一五〇〇(最盛時四〇〇〇)であった。特高警察は、唯研自体をコミンテルンおよび日本共産党の目的遂行の結社と決定し、治維法第一条第一項後段を適用した。なお唯研は若干の幹事の個人的接触を通じて都内各大学の研究会その他の多くの学生グループと関係をもち、さらに関西地方の諸大学などにもつながりをもっていたが、唯研幹事の総検挙と同時に、東大・慶大・早大・農大・美校・外語などの学生六三名が検挙された(座談会「唯物論研究会の足跡」おょび社会経済労働研究所「唯物論研究会、その意義と歴史と成果」、唯物論研究(1)、四七年一〇月)など。

 これより先、京都においては、同志社大学予科教授新村猛・真下信一・大阪相愛女専講師中井正一らを中心に、従来からあった「美批評」を改組して雑誌「世界文化」を創刊し、その後さらに週刊紙「土曜日」(最高発行部数七〇〇〇)を発行し、これらを通じてフランスその他の反ファシズム・人民戦線文化運動などの紹介や、京都地方での音楽・映画等の文化運動をおこなった。一九三五年から三七年にかけて「世界文化」は第三四号まで(毎号一〇〇〇ないし一五〇〇部)、「土曜日」は二一号まで(毎号二〇〇〇ないし七〇〇○部)発行された。このグループは、三七年一一月から翌年にかけて検挙され、数名の起訴者を出した。またこれとほぼ同じ時期に、このグループとの若干の関連をもちつつ、京大の学生たちを中心に「学生評論」が発行され、二次にわたって検挙を受けている。

 教育科学研究会は、雑誌「教育」を通じて、城戸幡太郎・留岡清男を中心とする同誌の編集者たちと全国の読者たちとの接触が生まれ、これが「生活学校」や生活綴方運動などに参加した現場の教師と研究者との結集に進み、一つの教育運動(「教育の現実への肉迫」とそれにもとづく「ヒューマニスティツクな教育の建設」)として発展したものである。一九三七年春に会として発足して以来、機関誌「教育科学研究」をもち、三九年から全国研究集会を開くなど、少壮児童心理学者の児童学研究会や、保母を中心とする保育問題研究会を姉妹団体としつつ、活発な活動を展開した(菅忠道・海老原治善「戦時下の教育運動」)。しかし戦争下の反動化の中で近衛新体制への協力方向が打ち出されるなどの動揺の中で、一九四〇年二月の山形での村山俊太郎の検挙からはじまった「北日本国語教育連盟」(北方性教育運動)関係者三一名の検挙(九名起訴)、「北海道綴方教育連盟」(生活綴方運動)関係者五五名の検挙(一二名起訴)、「生活学校」グループ三名の検挙(全員起訴)、さらに四一年から四二年にかけて「生活図画」グループ二六名(起訴一八名)、新潟地方一六名(起訴八名)、水戸地方九名(起訴五名)、静岡地方一二名と検挙が拡大する中で、四一年八月以降「教育科学研究会」、「綴方生活」、「生活学校」などの関係者が全国一斉に検挙され(約三〇〇名)、四三年には、自ら保育報国隊の結成をくわだてながら解散した「保育問題研究会」の関係者たちにも検挙の手が及んだ。雑誌「教育」も文部省や警視庁の干渉を受け、用紙割当を停止されたため四四年三月をもって強制的に休刊させられた。このころ城戸幡太郎、留岡清男らの自由主義者も弾圧を受け、翌四五年一月ころには幼稚園や託児所の保母たちも検挙された。

 言語運動としては、山形で斎藤秀一(雑誌「文学と言語」の発行「国際ローマ字クラブ」結成、海外エスペランチストとの交流、等)が一九三八年、東京でマルタロンド(三月会、エスペラントの定期研究会)が一九四〇年に検挙された。

 このほか個人的研究者にたいする弾圧としては、三七年九月に講演内容に反軍的言動があったとして東京憲兵隊の取調べを受けた後藤朝太郎や、「企画院事件」(一九四〇年および四一年検挙)や「ゾルゲ事件」(四二年検挙・前述)で捕えられた研究者たち、「横浜事件」(四二〜四五年検挙。前述)に関連して投獄された細川嘉六をはじめ、満鉄調査部・世界経済調査会等の研究者たちなどがある。満鉄調査部については、四一年八月に「満州国」の治安維持法が制定され、その直後の「合作社事件」、「満州評論」グループ、ゾルゲ事件関連者の検挙などにつづき、四二年九月に第一次(二九名)、四三年六月に第二次(一〇名)の憲兵隊による調査部関係検挙がおこなわれ、逮捕はされなかったが調べられたり、調査部から鉄道の現場へ追放された者を加えると、関係者は約八〇名に上った。うち二一名が起訴され、一九四五年五月の判決によって、二名が懲役五年(執行猶予五年)、二名が三年(執行猶予四年)、その他は一年(執行猶予三年)となり、その間に、劣悪極まる満州監獄の中で西雅雄・大上末広・発智善次郎・佐藤晴生・守随一の五名が獄死し、渡辺雄次は出獄後病死した(伊藤武雄著「満鉄に生きて」、一九六四年刊。児玉大三「秘録・満鉄調査部」、中央公論、一九六〇年一二月号)。

日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
発行 1965年10月30日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 労働旬報社
2000年2月22日公開開始


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