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日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
The Labour Year Book of Japan special ed.

第五編 言論統制と文化運動

第一章 言論・出版・学問研究にたいする弾圧


第三節 新聞・放送・映画・芸能統制(つづき)

映画統制
 一九三七年の事変勃発から一週間、すばやくも内閣情報委員会は日本ニュース実写映画連盟の代表者たちを集めて、ニュース映画による挙国一致への協力を求めた。つづいて八月に内務省は「国民精神総動員」を強化するため映画製作者等に製作方針の方向転換を希望する指示を出し、映画製作各社はすべての作品の巻頭に「挙国一致」「銃後を守れ」などのタイトルを入れることを決定した。九月、内務省は軍事映画とニュース映画に関して映画業者に警告を発し、応召者の家庭悲劇を誇張して扱うなど思想的悪影響のあるもの、第一次上海事変のニュース映画を蘆溝橋事件以後の事変ニュースのごとく扱うもの、洋画の航空場面のつなぎ合わせごまかし等を不可とした。三八年七月、映画検閲当局は「時局にふさわしからざる」映画の続出にかんがみ、取締り方針の峻厳化を声明し、各社シナリオ作家を内務省に集めて日本精神の昂揚を要望した。同月、映写機への鉄鋼使用が禁止され、一一月から外国映画の輸入の許可制が実施された。三九年一月、警視庁は映画脚本等の事前検閲を強化し時局にそわぬものの上映を禁止することとし、一方、文部省は文化映画の認定官をおくとともに「優秀映画」に文部大臣賞を授与することになった。

 三九年四月には、内務省と文部省との連合により三三年に設置された「映画統制委員会」や翌年設置の「財団法人大日本映画協会」を母胎としての「映画法」が公布(一〇日施行)された。新聞・出版を除き、文化諸分野のうち映画についてまっさきに、しかも結局唯一のものとして、積極的統制指導のための全面的統制法規が作られたことは注目に値することであり、映画の与える影響力の大きいことを示している。同法は、検閲による統制と「強制上映」等による積極的利用を法制的に統合したものであり、前者については、映画法第九条と同法施行規則第一四〜一五条によって、従来からの検閲(内務・税関検閲と輸出検閲)のほかに劇映画の製作開始前脚本届出を義務づける二重検閲制を規定した。また同法による映画製作・配給業者の許可事業制(第二条)と指定業種従事者の登録制(第五条)は、興行時間等の制限権(第一七条)や製作種類数量制限・配給・興行にたいする命令権(第一八条)とともに、全面的な映画統制権を内相と文相に与えるナチスばりの規定であった。あわせて外国映画の上映制限(第一六条)や文化映画・ニュース映画の強制上映(第一五条)も規定された。映画法の条文ではまだ漠然としていたものが、同法施行規則(三九年九月三省令で公布、そのご四〇年九月、一二月、四一年六月に改正)では明確にされていた。たとえば同規則第二七条では、「映画法第一四条第一項(行政官庁の検閲に合格したものでなければ上映できないとの規定)の規定により検閲したる映画にして左の各号に該当するときは之を不合格とす。一、皇室の尊厳を冒涜し又は帝国の威信を損するおそれのあるもの、二、朝憲びん乱の思想を鼓吹するおそれあるもの、三、政治上・軍事上・外交上・経済上その他公益上支障のおそれあるもの、四、国策遂行の基礎たる事項に関する啓発宣伝上支障のおそれあるもの、(この項は改正で追加された)、五、善良なる風俗をみだし国民道義を頽廃せしむるおそれあるもの、六、国語の醇正を著しく害するおそれあるもの、七、製作技術著しく拙劣なるもの、八、その他国民文化の進展を阻害するおそれあるもの」となっていた。映画法の実施にともなって劇映画脚本の事前検閲が一〇月から実施された。検閲制度の確立によって不合格は激減し、四〇年以後は切除件数も少なくなり(第43表参照。内務省警保局の統計。高木・福田前掲論文による)、検閲は表面的には映画統制の主座からひき下がった。(それにしても厳格な検閲をおそれ、しかも巨額な製作資金を要する営利用の映画の中で戦争中も「切除」がつづいていたことは見落としえない)。むしろより重要な意味をもち出したのは、四〇年に実施された「文化映画」と「ニュース映画」の強制的上映であった。一二月、文部省は演劇映画音楽改善委員会を設置し、また映画法第一九条による映画委員会官制が勅令によって公布された。四〇年四月には、国策会社「日本ニュース映画社」が四社を合併して成立し、翌年五月官製の社団法人「日本映画社」が発足した。

 四〇年八月、新興映画の秋季製作予定の武田麟太郎作「大都会」菊地寛作「黒白」、川口松太郎作「春告ぐる嵐」などが、内務省の脚本事前検閲で難航をつづけた。日本映画事業連合会製作部会では、今後映画化希望の原作について製作意図と根拠を検閲当局へ提出し、許可をえた上で初めて原作者から権利を獲得して脚本執筆に着手するよう原作物事前検閲の具体案を決定した。四一年八月、情報局は、大日本映画協会の首脳部にたいして映画の国家管理的な徹底的統制を断行するむねを申し渡し、「民需にまわすフィルムは一フィートもない」と称して非軍事映画にたいしては資材の面から迫害と禁圧をはかった。一〇月には映画監督亀井文夫が、陸軍報道部の後援で作成したにもかかわらず上映を禁止された「戦う兵隊」をはじめ「小林一茶」、「富士の地質」などの作品のために治維法違反被疑で逮捕され、一年間の拘禁ののち起訴猶予となって保護観察処分に附せられた。そして映画法によって監督の免許は剥奪され、東宝から免職された。武漢作戦の記録映画「戦う兵隊」は内務省の検閲却下にあって公開できなくなり、「小林一茶」は「文部省認定」をはずされた。「小島の春」と「小林一茶」は監督協会賞に選ばれたが、文部省の横槍でうやむやとなり、その後、同協会そのものが解散させられた。一二月にはアメリカ映画の上映が停止され、在日のアメリカ映画八支社が閉鎖された。六大都市では二時間半興行が実施され、劇映画の製作本数が制限された。四二年には、フランス映画・イタリア映画計五本が上映禁止となり、情報局に大東亜共栄圈宣伝文化映画製作委員会なるものが設置され、内務省は劇映画三社との連絡会議において敵愾心高揚映画の製作を要望した。

 一方、四〇年四〜五月ころから映画用生フィルムの不足が深刻化し四一年から映画の製作本数も制限された。映画法による製作制限がおこなわれるまでの製作本数は、毎年五〇〇本を越え、一社平均年一〇〇本を製作していたが、四一年度の封切劇映画は合計二四四本で、例年の半数にも達しなかった。このうち一七一本は上半期に封切られ、下半期に封切られたものは八三本にすぎない。これは生フィルムの割当の減少によるものである。その後はさらに生フィルムはもちろん、セットをたてるための木や紙や釘までたらなくなり、世界屈指の映画多産国日本の映画も生産減をつづけ、一九四四〜四五年の製作本数は平年の一〇分の一に低下した。一九四四年には総数四六本、四五年は八月までにわずか二二本が製作されただけであった。

 映画会社の企業統合も推進され、四二年一月に「日活」「新興」「大都」の各映画社が統合され、情報局が重役を指名して「大日本映画製作株式会社」(大映)が発足し、一〇社あった劇映画製作会社の三社(松竹、東宝、大映)への統合が完成した。三月、情報局は各社へ国民映画賞製作の助成金として脚本執筆製作にそれぞれ二一〇〇円ずつ交付した。新たに創設された社団法人映画配給社は四月から全国二三〇〇の映画館を紅白二系統に分けて配給の全国的一元化を実施することとなった。四三年には文化映画製作業者二〇〇数十社の三社への統合が完成する。四四年一月には、大日本映画協会が改組され、製作、配給、興行の一貫的な統制機関として強化されて四五年六月に映画公社が設立、発足した。

 (前掲のほか、岩崎昶「映画史」、一九六一年刊。同「統制・抵抗・逃避―戦時の日本映画」、文学、一九六一年五月号。瓜生忠夫「映画法の周辺」、潮流、一九四八年一月号。日本映画雑誌協会「昭和一七年映画年鑑」。などによる)

日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
発行 1965年10月30日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 労働旬報社
2000年2月22日公開開始


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