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日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
The Labour Year Book of Japan special ed.

第五編 言論統制と文化運動

第一章 言論・出版・学問研究にたいする弾圧


第三節 新聞・放送・映画・芸能統制(つづき)

 さらにそれに追いかけて「言論出版集会結社等臨時取締法」が公布され、結社や集会とともに、新聞紙法による出版物の発行も許可制にされた。また、国家総動員法にもとづき、「出版事業令」に一年あまり先だってほとんど同文の「新聞事業令」が公布施行された。同勅令は、新聞事業主にたいし事業の譲渡または譲受・会社の合併・事業の廃止または休止を命ずる権限を主務大臣(内地では首相および内相)に与えるとともに、新聞事業の綜合的統制運営を図り、新聞事業に関する国条の立案および遂行に協力することを目的とする団体の設立を命じうることとした。(その団体の事業の中には、出版事業の場合とちがって、「新聞記者の登録」もふくまれていた)。同令にもとづいて、四一年五月に結成されたばかりの社団法人新聞連盟は、「日本出版会」とならぶ統制団体「日本新聞会」にとって代られ、同会は新聞社の整理統合を強力に進めることとなった。日中戦争勃発後におこなわれた「悪徳不良紙」の整理とその後の二三流弱小紙、区内新聞・業界紙の整理の段階とは質的にちがって、これ以後全国的な新聞社の整理が進んだ。「読売」と「報知」の合併、「大毎」と「東日」の統合などをふくめ、日刊紙七三九紙は四二年四月までに一〇八紙(のちには五四紙)に減少していった。大新聞中心主義が明確化し、地方新聞については「一県一紙」(四〇年末までに千葉・鳥取・群馬・富山で実現)への制限が進められていった。(強行は四五年三月)。

 四三年一月には、元日号にのった中野正剛の「戦時宰相論」で朝日新聞が発禁となり、四四年二月には「竹槍事件」で毎日新聞が発禁になった。中野の「戦時宰相論」は、非常時の首相は廉潔で私生活も清楚であれ、国民の声を聞け、独断専行を避けよと諸葛孔明や桂首相を例にあげて抽象的に論じたにすぎないものであったが、このため中野は執筆禁止となり、東方会は全国的に一斉検挙され、中野は警察に「任意同行」された。起訴して葬れと厳命する東条首相と証拠不十分で反対する検事総長とのあいだに激論があり、議員を拘留するための衆議院の許諾がないため予審判事は令状を蹴って釈放したが、中野は遺書を残して割腹自殺し、令状請求を却下した小林健治予審判事は、報復的に召集令状を受けたのである。その後、反東条的右翼政治団体の結社禁止、検挙に関する記事は一切掲載禁止となった。「竹槍事件」の原因となったのは朝刊第一ページにのった七段ぬきの二つの記事、一つは「海洋戦の攻防は海上において決する。本土沿岸に敵が侵攻し来るにおいては、もはや万事休すである」、もう一つは「竹槍ではまにあわぬ、飛行機だ、海洋航空機だ。敵が飛行機で攻めてくるのに、竹槍では戦えない」という趣旨のものであり、同紙は発禁処分となり、陸軍は執筆者の厳罰をせまり、毎日新聞の陸軍報道部出入禁止をいいわたした。執筆記者新名丈夫はこのために懲罰召集の「赤紙」を受けて丸亀連隊に入営させられたのである。

 四二年に各新聞社は検閲部なるものを新設したが、そのころ以後当局検閲はますます強化された。記事掲載禁止の具体的事例を示せば次の通りである。まず天候の記事は写真とともに、運輸通信省軍用資源秘密保護規則別表抵触として差押処分、天気予報はもちろん風向・風速・雲形・潮の干満も不許、傘をさしている写真も、晴れた日が続くというのも気象管制実施法にひっかかる。空襲や疎開の記事も、たとえば「空襲による家屋その他の建造物の被害ならびに復旧状況に関する記事、写真を掲載せざるよう」(四二年四月)、「空襲関係の広告は罹災地の移転広告・死亡広告とも各一日一件、移転広告の場合は旧所在地は出さず移転先のみ記すこと、死亡広告は爆死の事実は表示せず単に葬儀関係の報道に止むること」(四四年一二月)。「治維法事件検挙に関する記事は当局発表以外一切」(四二年九月)、「キリスト教三派の結社禁止および右教会派に属する教会の設立認可取消処分ならびにこれに関連する記事は一切」(四三年四月)が掲載禁止。経済関係では、自家用保有米と年令比、(四一年二月)、金銀在高・現送・買入量・同予想(同三月)、石油貯蔵額・同能力・輸入状況・綿花・綿糸布の在荷量(四二年一月)、価格調整補給金(四三年四月)、工業の企業整備(同五月)、工場疎開、徴用(明朗な美談を除く)、予算委員会の内容、在華敵産処理方針、中国人労働者の内地移入等、工場の新設、移転・労働者数(四三年九月)、米穀現在高・需給、外米輸入量・買付値段(四四年三月)。大東亜建設審議会の審議内容(四二年二月)、最高戦争指導会議の構成・開催の事実(四四年八月)、邦人のソ連領内における見聞の記事は一切発表不可。日米間のハル・野村交渉の特電は事前検閲によって、「二人はまず握手を交し」が対米親和感で削られ、「会談は一時間」は交渉緊迫感で削られ、「交渉はなお続行されるだろう」が前途見透しの観測記事で削られ、結局六〇数行のうち三行半だけが許可となった。「皇軍後退用語」は禁止され、「戦略展開」や「作戦上の転進」となり、「戦時生活」の「戦時」は「平和」に対する語で不適当として「戦争生活」と改められた。武勇談の中で使ったA少尉、S曹長等も英語だから日本語にすべしと原稿がつっ返された。四〇年八月六日の原爆も名称掲載を禁止され「新型爆弾」と呼ばれ、防空総本部から、(1) 壕内待避がやはり有効である。(2) 火傷のおそれあり、身体の露出部を少なくせよ、(3) 敵の一機にも油断するな、と発表した。そしてこれが最後の記事指導通達となった。

 新聞用紙の統制は前にもふれた通り、三八年八月、実績月間一〇〇〇連以上を使用する新聞五一社にたいし商工省告示をもって九月から一二%の消費制限が命ぜられ、翌三九年八月からはこの制限は消費量に応じて一五〜一二・五%に拡大され、また四〇年七月からは制限はさらに一〇%方ふやされ、四一年七月からは四〇%以上の制限率強化となり、従来制限を免れていた月使用量一〇〇〇連以下の小新聞も制限を受けるようになった。このため三七年に六億九千万ポンドであった新聞巻取紙の消費量は四一年には五億三千万ポンドに四分の一ほど減少した。こうして新聞の種類とともにページ数も削減されてゆき、三八年七月まで二〇ページであった有力紙の朝夕刊ページ数は、四一年四月には半分の一〇ページとなり、七月には夕刊の二ページ制がはじまり、一〇月には夕刊は週三回に、四四年三月には全国一斉に夕刊が廃止され、朝刊もついに二ページ建になっていった。組方も一ページ一三段であったものが四〇年一月からは一五段、最後は広告なしの一六段制になった。

 なお新聞紙にたいする検閲機関は、一、検閲官庁―内務省・情報局・検事局・警視庁・府庁(警視庁検閲課・府県特高課)、二、特別検閲官庁―郵便検閲(郵便法第一六条、安寧秩序・風俗壊乱記事所載の場合没収)、軍検閲(三七年七月陸軍省令第二四号、同八月海軍省令第一二号による命令事項、軍機保護法による秘密事項の監視)、憲兵検閲(軍機保護法その他軍の安寧について軍人以外の者にたいする取締り、海軍軍法会議法第六条)となっていた。

 (前掲のほか、内山芳美・香内三郎「日本ファシズム形成期のマス・メディア統制」(一)、思想、一九六一年七月号。高木教典・福田喜三、同上(二)、思想、同一一月号、碧川喜代三「検閲記者の日記」、月刊読売、四六年三月号。横田省己「言論はどう弾圧されたか」、朝日評論、四九年三月号。松下芳男「三代反戦運動史」、一九六〇年刊。新名丈夫著「政治」、一九五六年刊。などによる)。

日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
発行 1965年10月30日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 労働旬報社
2000年2月22日公開開始


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