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日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
The Labour Year Book of Japan special ed.

第五編 言論統制と文化運動

第一章 言論・出版・学問研究にたいする弾圧


第二節 出版・雑誌統制(つづき)

用紙統制・企業整理
 戦争が進むにつれて物資の不足から用紙の節約・使用制限が次第に強化されたが、紙をはじめとする出版資材の統制は同時に物の面からの出版界統制の手段として最大限に利用された。政府当局は、「用紙の統制は必ずしも公平たるを要しない。公平とはデモクラシーである。断じて公平たるを要しない」と広言していた。まず一九三七年一一月、商工省は東京出版協会の幹部を招き、業界全体の問題として用紙の節約を要望し対策を求めたのにたいし、同協会と日本雑誌協会は用紙節約に対する答申書を商工大臣に提出した。年末には、金使用規則が公布され、装幀のための金箔使用が禁止され、翌年からは印刷製本機械や断截庖丁が製造禁止ないし制限となり、やがて針金・糸・洋紙等の主要製本資材の統制に進んでいった。

 用紙については三八年七月、企画院が消費制限案を決定し翌月からこれを法的に強制することになった。これによると、雑誌については三七年九月以降の使用量実績にたいし一率二〇%の節約を実施するのであり、月使用量一万ポンド以上の雑誌社に適用されるものであったが、これに該当する雑誌社は六七社、うち主な九社の使用量は雑誌用紙総消費量の約七六%を占めていた。八月に商工省から公布された新聞雑誌の用紙制限令は先に公布された輸入品等に関する臨時措置にもとづくものであり、翌九月商工省は日本雑誌協会および日本公益雑誌協会にたいして用紙使用高の削減を命ずる通牒を発した。三九年七月には商工次官通牒として「雑誌用紙の使用制限率強化に関する件」が発せられたが、これは三七年七月からの一年間に一二万ポンド以上を使用した雑誌について、使用量の多いものほど節約率を高くし、二一%から二五%までの五段階に分けて実施するものであったが、翌八月の商工省令でさらに二〇%から二五%の供給制限をおこなうことになった。これは事変前にくらべて四〇%から四五%の削減である。

 四〇年五月の閣議で新たに「新聞雑誌用紙統制委員会」の設置がきまり、用紙の使用制限がいっそう強化されるとともに、これまで企画院と商工省が中心となっていた用紙の統制業務はすべて新委員会の事務を管掌する内閣情報部に移されることになった。これによって用紙の割当制度は言論統制として出版統制と統一されるに至ったのである。一一月に用紙規格規則が、一二月には用紙配給統制規則が公布された。

 内閣情報部の出版界統合再編成プランが進行し、「用紙割当の合理化」を一つの主要任務とする「日本出版文化協会」が発足したのは四〇年一二月であり、「新聞雑誌用紙統制委員会」の承認による「出版用紙配給割当規程」によって、用紙の割当が開始されたのは四一年六月であった。割当てる用紙は、各出版業者の過去の実績を基礎にする通常割当と、それ以上を必要とする場合の特別割当(申請の大部分は否決された)とに分けられ、さらに前者は、業者が企画届を出すだけで自主的使用にできる分(基準割当)と、企画審査を経なければ使用できない分(査定割当)とに分かれており、第一回の割当(四一年七月〜九月)においては、基準割当と査定割当との割合は、書籍については八対二、雑誌については九対一とした。すなわち、ここではまだ、過去に実績ある業者にとってはそれほど大きな制約とはならなかった。ところが第二回の割当(同一〇月〜一二月)では、雑誌は据置であるが、書籍については六対四となり、第三回(四一年一月〜三月)になると逆に四対六に改め、ついに第四回の割当(同四月〜六月)では基準割当を全廃して通常割当をすべて査定割当にしてしまった。また書籍はすべて発行承認制とし、一つ一つの書籍に承認番号を与え、その番号を本の奥付に印刷しなければならないことにした。雑誌については発行承認制にはしなかったが、毎号企画届を事前に提出することを義務づけた。こうして書籍の出版はすべて許可制となり、その死命を制する用紙の割当権は、協会を通じて、情報局が実権を握る新聞雑誌用紙統制委員会に掌握されたのである。用紙の割当は、業者はその決定を受けた分の配給切符を協会から受け取ってこれを現物化する方式をとったが、用紙事情の悪化とともに割当総量も次第に制限されていった。第一回の割当(時期は同前)の場合の割当総量を一〇〇とすると、第二回は七七、第三回は七一、第四回は六五、と圧縮された。こうして、協会(後には総動員法による統制団体たる日本出版会)の査定によって、協会の役人が時局下で望ましくない出版と認定すれば用紙は与えられず、その出版は差止められ、また不急不用と認められた場合も用紙は配給されず、手持ち用紙による出版だけがかろうじて承認された。四二年三月には、さらに用紙の全面的統制がはじまり、以後用紙割当量は急角度で削減され(第40表参照。黒田秀俊「血ぬられた言論」による)、四四年の「中央公論」への割当は四一年の十分の一以下に減配されるに至った。こうして雑誌のページ数は縮小に縮小を重ね、「中央公論」のページ数は、三八年一月特大号が八三六ページ、三八年度普通号の平均が五四〇ページであったのが、用紙割当制限によって急速に減ページされ、普通号の平均ページ数では、三九年五二〇、四〇年四〇〇、四一年三〇〇、四二年二七〇、四三年一四〇、四四年一〜四月一〇四、五月からは六二〜六四ページと減少し、同じく「東洋経済新報」についてみると、四三年五月から従来の建ページ三二を一六ぺージに減じ、四五年三月からは表紙とも八ページ、六月からは四ページになってしまった。ページ数のみでなく、雑誌附録はなくなり、座談会・対談などが多くなり、表紙も変わった。なお、出版事業統制令に準拠して、文協は改組され、四三年三月に統制機関としての「日本出版会」が設立され、「印刷文化協会」は社団法人に改組された。四二年一一月から板紙の割当配給制も実施され、四三年一月から書籍の外函が廃止となり(五月から強制)、三月から物品税法改正で一〇〇〇円以上の手持用紙が課税の対象となった。また日本出版会は書籍出版企画規制を指示し、用紙の重点配給を強化した。四四年六月からは、新雑誌の購入は必ず古雑誌類と交換で販売する方法を採用し、農商省は戦時出版物規格を告示し、九月から原則としてA版・B版とも5号・6号の二種に限定され、一一月には印刷能力減退の対策として出版会は表紙色刷の制限(指定四一誌以外は一度刷)を実施した。四五年三月には用紙の現物化と確保のため一括荷受機関として「日本出版助成会社」が設立された。

 四五年六月には「出版非常措置要綱」が公布されたが、これによって従来の実績による用紙の割当を停止し、国防軍事・軍需生産・食糧増産・啓発宣伝・戦時生活に必要な出版物中とくに重要なものにたいしてのみ用紙の特別割当をおこなうことになった。出版界はすでに麻痺状態であり、敗戦はもう目前に迫っていた。戦争末期における出版事情の一端を示すものとして、普通出版物(出版決および予約出版法によるもので、官庁出版物を除く)の各年次の納本数(発行点数)をみると、一九四一年―二万九二〇四、(うち単行本一万七九三六。以下同じ)、四二年―二万四二一一、(一万五二一一)、四三年―一万七八一八(一万二三六九)、四四年―五四三八(四九六五)、四五年―八七八(八七五)であった。

日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
発行 1965年10月30日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 労働旬報社
2000年2月22日公開開始


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