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日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
The Labour Year Book of Japan special ed.

第四編 治安維持法と政治運動

第四章 ゾルゲ事件


第二節 判決とその後

 事件の取調べは四一年五月に予審に移され、ゾルゲと尾崎の予審は四二年一二月に終わり、翌四三年五月末に東京地裁の法廷で第一回公判が公開禁止ではじまった。弁護にあたったのは官選弁護人一名だけであった。尾崎の公判は超スピードで進められ、ひらかれた公判はわずか七回にすぎなかった。九月には別掲のような判決が下された(小代以下の判決はそれぞれ数ヵ月おくれた。宮城と河村は審理中に獄死した)。ゾルゲ、尾崎、クラウゼン、ヴケリッチの四名は国防保安法・軍機保護法・軍用資源秘密保護法・治安維持法違反であり、その他の者はこれらのうち一ないし三法の違反として処罰された。大審院に上告した者もすべて弁論なしに検事の意見を聴いただけで戦時刑事特別法第二九条によりその理由なしとして上告棄却された。ゾルゲの場合は上告趣意書が法定期間におくれたため、四四年一月に上告棄却となり、尾崎は同年四月に上告棄却となっていずれも死刑が確定し、同年一一月七日、二人は処刑された。ヴケリッチと水野と船越は終戦の年に獄中で病死し、北林は釈放直後に死亡した。

 前にもふれたように、ゾルゲは赤軍第四本部に所属しその指令を受けていたのであり、この組織がコミンテルンの指令にもとづく諜報組織であってコミンテルンの目的遂行に協力する意図で活動したとして処断することは事実に反することであったが、それは、治安維持法で処罰の対象とする「国体を変革することを目的」とする結社というのは、日本共産党やコミンテルンについてはいえるにしても、ソ連や赤軍をもそのような結社と見ることは不可能であったからであり、戦時下における法の過大な類推解釈であったとみられる。治維法違反とならず、国防保安法・軍機保護法・軍用資源秘密保護法だけでは、彼らを「利敵行為」として処断する根拠は薄くなるからであろう。また適用された国防保安法(四一年五月施行)・軍機保護法(三七年および四一年改正)・軍用資源秘密保護法(三九年施行)・治安維持法(四一年三月改正)などの法律の該当項目は、ほとんど一九三七年以降に改正・追加されたものであるのに、たとえばゾルゲの犯罪事実には一九三〇年以来の諸件がふくまれており、これら法律施行前の行為も「施行の後に為されたる爾余の所為とは、それぞれ包轄一罪の関係にあるを以って……各その所為の全部につき改正法を適用」 (判決文)したのである。これは、四一年の治維法改正にあたって、罰則の適用を犯罪時法によらず、判決時法によることを付則第二項で規定したことによるものであり、法施行以前の行為が法施行後の犯行と包轄一罪として処理されたことは、戦時下において罪刑法定主義の原則が無視されていたことを示すものである。

リヒアルト・ゾルゲ   死刑    四四・一一・七執行
尾崎 秀実       死刑    四四・一一・七執行
マックス・クラウゼン  終身    四五・一〇・九釈放
ブランコ・ド・ヴケリッチ 終身   四五・一・一三獄死(網走)
小代 好信       十五年   四五・一〇・八釈放
田口右源太       十三年   四五・一〇・六釈放
水野 成        十三年   四五・ 三・二二獄死(仙台)
山名 正美       十二年   四五・一〇・七釈放
船越 寿雄       十年    四五・ 二・二七獄死
川合 貞吉       十年    四五・一〇・一〇釈放
久津見房子       八年    四五・一〇・八釈放
秋山 幸治       七年    四五・一〇・一〇釈放
北林 とも       五年    四五・ 二・九釈放直後死亡
アンナ・クラウゼン   三年    四五・一〇釈放
安田徳太郎       二年(執行猶予五年)
西園寺公一       一年六ヵ月(執行猶予二年)
菊池 八郎       二年
宮城 与徳       公訴棄却  四三・ 八・二獄死(巣鴨)
河村 好雄       公訴棄却  四二・一二・一五獄死(巣鴨)

 敗戦後四五年一〇月になって、獄中の生存者八名は他の政治犯たちと一緒に釈放され、ながいあいだ国民の眼からとざされていた事件の内容がようやく明らかになりはじめた。ゾルゲ事件の関係資料は、旧特高関係者にとっては公職追放の理由になるのでほとんど焼却ないし秘匿された。「祖国を救うために命を賭けて行動した愛国者」尾崎秀美にたいしては一周忌につづいて追悼講演会が盛大に開催され、彼の獄中書簡集「愛情はふる星のごとく」はベストセラーともなって広範な読者を獲得した。

 マッカーサー占領軍司令部はゾルゲ事件生存者に関心をむけ、その態度はしだいに保護から看視にかわった。一九四九年二月、アメリカ陸軍省は「極東における国際スパイ事件」なる極東軍司令部の報告書(ウィロービー報告)を発表し、「これは米国内のスパイ活動に注意せよと警告することを目的としたもので、共産主義に同情を示すアメリカ人を警告するよう」語ったが、その中にアグネス・スメドレーとギュンター・シュタインの名が挙げられたことから、社会的な物議をかもした。発表の一〇日あまり後、ロイヤル長官は、事件発表は一部広報部員の手違いであったと発表し、前年にできたゾルゲ事件真相究明会は閉鎖され、スメドレーにスパイの罪を負わすことは不正であり誤りであることが言明された。これにたいして、アメリカ下院の非米活動調査委員会は五一年五月、日本からの報告書に責任ある総司令部情報部長ウィロービー少将に喚問状を送り、また吉河光貞特審局長も非米活動委員会に出席してウィロービーとともに詳細な証言をおこなった。なお、アメリカ陸軍省のゾルゲ事件発表に関してアメリカの一新聞社説は次のように論じた――「帝国主義の日本政府が暴力とサギと惨虐によって大東亜共栄圏なるものをつくり上げようとしていた時に、この政府をスパイしようとする志願者が多数現われたとしてもそうふしぎがるにはおよばない。かかる帝国主義の方向をたどりつつあった日本を神聖化しようとすることは、その結果がすでに証明しているように、日本にとっても悪いことである。スパイ活動の対象となった当時の日本政府のため涙を流すなど全く無益なことである」(ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン、一九四九・二・一二)。

 一九六四年九月には、ソ連の代表的な諸新聞が、「共産主義者にして諜報員、英雄であった同志リヒアルト・ゾルゲ」をしきりに紹介しはじめた。それはいわゆる「中ソ論争」の盛んだったさなかであり、スターリンの個人崇拝批判の強調と関連していた。九月下旬にはフランスの映画監督イブ・シャンピの映画「ゾルゲ博士、あなたは誰か?」(日本名では「真珠湾前夜」)がモスクワではなばなしく封切られた。一一月六日、ソ連最高会議幹部会はゾルゲに「ソ連邦英雄」の称号を授与する布告を発表した。六五年一月には、ゾルゲに協力した三人にソ連邦勲章が授与され、ドイツ民主共和国に在住するマックス・クラウゼンには「赤い旗」勲章、アンナ・クラウゼンには「赤い星」勲章、ユーゴスラヴィヤ人ヴケリッチには「第一級愛国戦争」勲章が与えられた。またアンナ・クラウゼンにはドイツ民主婦人同盟名誉章が授与された。

 終りに、この事件の資料編集にあたった小尾俊人は次のように書いている――時が移り「冷い戦争」が過去の悪夢として歴史の額縁にはまったときにこそ、ゾルゲ・グループは、いかなる社会的立場からも偏見もて見らるることなく、ただその心情的主体的動機と、行動のヒロイズムと、悲劇的終末とが大きく映し出されるようになるかも知れない。それは、人類史の記憶すべき一時代のシンボルとして、人びとの心を永遠にかき立てることとなるかも知れない、と。ゾルゲ事件についてはいまだに不明な点が多い。

" (関係資料として主なものに、みすず書房刊「現代史資料」の「ゾルゲ事件」(一−三)、一九六二年刊三冊、同附録「現代史資料月報」(一−三)があり、詳細な「関係文献目録」が同書第三冊に載っている。またその後、右目録の作成者尾崎秀樹の「ゾルゲ事件」、一九六三年刊、および「尾崎秀実のえらんだ道」、文芸春秋、一九六五年二月号、がある。また外国における評価の例として、Dr. Franz Krahl, Aus dem Schatten getreten. Neues Deutschland, 18. Okt. 1964.)

日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
発行 1965年10月30日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 労働旬報社
2000年2月22日公開開始


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